3-2
結婚当初、僕と未映子は東北を訪れた。新婚旅行という訳ではないが、二人で旅行をしたことすら無いという話題になり「それじゃぁチョッと行ってみるか」という流れだった。特に行き先を決めもせず、ただフラフラと東北を彷徨ったのは、お盆休みの頃である。
寒河江辺りで高速を降りた赤い軽自動車は、国道、県道を使って市街地を走り抜けた。街中を走ってもつまらないし、高速はもっとつまらないという未映子が、山の方に行こうと言ったからだ。相変わらず運転は未映子の担当であったが、地図を読めるのは僕だけである。僕は不平を漏らす運転手に勝ち誇ったように言う。
「もし僕が免許を持っていたら、君が助手席に座るのはいいとして、ちゃんと地図は読めるのかい?」
「うるさいなぁ。地図なんか読めなくても、標識に沿って走ればいいじゃない」
「それじゃぁ幹線道路から離れられないじゃないか」
「だって世の中の旦那様は、みんな運転してくれるのよ。私だって人並みの幸せが欲しいわぁ」
未映子はおどけて言ったつもりだったが、自分の口を突いた『旦那様』という単語が恥ずかしくて、勝手に頬を赤らめた。それを見た僕はは意地悪く、こう混ぜっ返した。
「うちの『奥様』は運転が上手だから、僕は十分幸せだけどね」
『奥様』の追撃を喰らった未映子は耳まで赤くして、「もぅ」と言って胡麻化した。それを見た僕は、未映子を可愛いと思ったが、それを口にすることはしなかった。だって、これ以上彼女を動揺させては、事故を起こしかねないからだ。後で落ち着いた時にでも、そう思ったことを伝えよう。
乳頭温泉に辿り着いた僕たちは日常から解き放たれた開放感で、いつにも増して口数が増えていた。義祖母を一人残して来たことが気掛かりではあったが、僕の母、真希絵によろしく頼んでおいたので問題は無いだろう。未映子は少女の様にはしゃぎ、「私、交渉してくる」と言って、一軒の温泉宿に向かって飛び出していく。僕は今更ながら、未映子との恋人気分を堪能していた。
お盆休みに飛び込みでは、なかなか空室を見付けることは出来なかったが、未映子の粘り強いアタックにより、遂に一軒の宿を抑えることに成功した。それは、地方自治体が手にした中央からの補助金によって無理矢理建てられたような ――いわゆる「箱物」というやつだ―― 日帰り温泉施設であったが、若干の宿泊客に向けた部屋が用意されていた。建屋としては比較的新しくて清潔感も備えていたが、奇をてらったゴテゴテした装飾が目障りであるばかりでなく、伝統や趣きといった要素とは縁遠い、むしろ薄っぺらな感じさえ抱かせる。とは言うものの、この際、贅沢は言っていられない。僕と未映子は脇の駐車スペースに車を乗り入れると、身の回りの物を詰め込んだサムソナイトと共に、さっさと部屋へと上がり込んだ。
夕食の前に、さっそく温泉で疲れをとった二人は、部屋に戻ってくつろいでいた。僕は畳の上で大の字に、未映子は火照った身体を冷ますために窓を開け、その前のソファーに身体を沈み込ませた。未映子の浴衣の裾がはだけて、そこから白い脚が覗いた。髪を上げた姿は色っぽく、湯上りでピンクに染まった肌が僕の目を捕らえて離さなかった。僕は何だか恥ずかしくなって、見たくもないテレビを点けた。本当は、もっと未映子を見ていたかったのに。
翌朝、宿をチェックアウトした僕たちは、直ぐ近くの田沢湖へと車を走らせた。未映子が「どうしても乗りたい」というので、僕たちは貸ボート屋で二人乗りのボートを借りることにした。当然だが、オールは僕が握る。
「車は私が運転するんだから、ボートくらい渓一が漕いでよね」
「はいはい、判ってますよ」
そう言った時、昨日の車中で感じたことを、まだ話してなかったことを思い出し、僕はそれを告げた。
「昨日、僕が未映子のことを『奥様』って呼んだ時、耳まで真っ赤だったね。あれ物凄く可愛かったよ」
「な、何よ! そんなの、昨日の布団の中で言ってくれればよかったのに・・・」
そこまで言って未映子は、昨日にも増して赤い顔をした。
「あらやだ。私、何言ってるのかしら」
僕はゲラゲラ笑ってしまった。
そして一時、沈黙が訪れた。僕が漕ぐオールのキコキコいう音と、オールの先が水面を打つ水音だけが静かな湖面を満たしていた。あちこちに浮かぶボート同士は、お互いに微妙な距離を保ちつつ、静かに浮かんでいる。未映子が言った。
「ありがとうね、渓一」
「何が?」
「何がって、全部だよ。全部」
「全部?」
「そう、全部。渓一のお陰で、私すっごく幸せ。私、こんなに幸せになっていいのかな、って思っちゃうくらい」
僕はチョッとの間、考えた。その時、鳥が二羽、チチチッと鳴きながら僕たちの上空を通り過ぎ、そして対岸の方に飛んで行った。
「僕の方こそ『ありがとう』だよ。だって未映子が居なかったら、今でもきっと引き籠ったままだったから」
ニコリと笑った未映子は、片手をボートから垂らして水面をもて遊んだ。薄いベージュ色のワンピースの裾がふわりと揺れた。風が有るわけでもないのに、帽子が飛ばされないようにと左手で抑え、少し上目づかいで山腹を見上げる未映子は、高名な画家の一枚から抜け出て来たような佇まいだ。僕は、こんなに美しい女性が自分の妻であることが信じられない想いだった。
その時、東側の湖畔から、どんよりした霧が湖面を這うように伸びてきているのに気が付いた。霧は生き物の様に ――いや、ひょっとしたら本当に、山に潜む得体の知れない生き物だったのかもしれなかった―― その触手を伸ばし、湖面に散らばるボートを一艘ずつ飲み込んでいった。そして遂に僕たちの乗るボートが飲み込まれると、辺りは一層静寂で満たされ、一メートル先も見渡せないような幻想的な空間を作り出した。
「凄い霧だね。これじゃ、ボート屋がどっち方向かも判らないよ。湖で遭難なんてシャレにならないな」
僕がそう言うと、薄っすらとしたモヤを通して見える未映子が言った。その姿は、薄いセロファン紙を通して見る様な、儚げな感じだ。
「私、このまま渓一と一緒に遭難しちゃってもいいかな」
彼女はこの霧に、僕たちの将来に立ち込める不穏な何かを感じていたのかもしれなかったが、その時の僕には、そんな考えはこれっぽっちも浮かんではいなかった。
「それは勘弁してくれ」と言うと、未映子は「うふふ」と笑った。
暫くすると風が出て来たのか、霧が流され始めた。そしてあっという間に視界が開け、また夏の山上湖の風景が姿を現す。ふと未映子を見ると、少し泣いた様に赤い目をしていた。僕はドキリとしたが、あえてそれには触れないことにした。未映子はそんな僕に気付いた様子で、チョッと気まずそうにペロリと舌を出す。彼女の涙を見たのは、それが二度目であった。きっと、彼女には彼女なりに思うところが色々有るのだろう。僕がなすべきことは、それをほじくり返すことではなく、それを抱え込んだままの彼女を包み込むことなのだろうと思ったからだった。
*****
翌日の火葬も納骨も滞りなく済み、全てが終わった。葬儀屋との話も済んだ二人は、墓地に併設された休憩所に座っていた。霊園を見下ろす一角に、藤棚の下にこしらえたテーブルとベンチが有り、僕と未映子は忙しなく過ぎたこの数日間を反芻していた。人が死ぬ時なんて、意外に呆気ないもんだと思ったが、大変なのはその後であることを痛感していた。二人ともちょっとくたびれていた。
「お疲れさまでした」
「お疲れ」
「ありがとうね、おばあちゃんの為に色々してくれて」
「当たり前だろ。お礼なんて言うなよ」
「うふふ。判った」
人の『死』という非日常に触れたからか、僕の心は少し、いつもと違う所に落ち着いてしまっていたようだった。浮ついていたと言っても良いかもしれない。それは意地悪な何者かの、チョッとした悪戯だったのだろうか。僕は、普段だったら聞かないようなことを未映子に聞いてみる気になっていた。ただの悪戯だからと言って、その結果が取るに足らないものになるという保証など、何処にも無いのだ。それが途轍もなく重大な結果をもたらすことは有るものだ。
「今まで聞かなかったけど、未映子のご両親はどうして亡くなったの?」
未映子は少しの躊躇を見せた。僕を見つめる目の奥は、彼女の頭の中で色々な物が駆け巡っていることを告げていた。その様子を見ただけでも、僕は彼女の全てを知っているわけではないことが伺えた。未映子は意を決するかのように口を開く。
「事故で亡くなったの、二人とも」
「事故?」
僕は唾を飲み込んだ。
「えぇ。あの脱線事故で」
それを聴いた瞬間、僕の周りの物がぐるぐると回りだし、同時に地面が揺らぐのを感じた。何か途方もなく大きな力で両肩をガッシリと掴まれ、グラグラと身体を揺すられているようにも思えた。それなのに僕の心臓だけは、氷の剣で貫かれたかの如く冷たく凍り付き、その動きを止めてしまったようだ。まるで氷塊に捕らえられた心臓を置き去りにし、僕の身体だけが何処かへと行ってしまったかに思えた。
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