2-5
康介からの報告には、未映子の重要な過去が含まれていなかった。その調査結果は通り一辺倒のもので終わっており、そこには善治を色めき立たせるようなネタは含まれていなかったのだ。そこで善治は、自らも足を使った地道な調査を開始し、康介がたどり着けなかった、ある重要な事実に行き当たった。それは、未映子が高1の時、隣県の総合病院に入院をしたことだ。それは未映子の近所に住む主婦から聞いた、あくまでも噂としての情報だった。
その主婦によれば、福島県の白河国際中央病院では発達障碍児向けのサポート体制が充実しており、全国からそういった子供を持つ親が定期的に診察を受けに来るらしい。その主婦の息子も発達障害と診断され、数か月に一回はその病院を訪れていると言う。その通院当日に、院内の売店で検査着を身にまとった未映子らしき女の子を目撃した彼女は、栃木に戻ってから「有ること無いこと」を交え、その目撃情報を流布したようだ。普段は自分の息子が好奇の目に晒され、それこそ無責任な噂のネタになっていることが我慢ならなかったのであろう。これまでの鬱積した感情を爆発させるかのように、ここぞとばかり未映子の噂を吹聴した様子が伺えた。善治に尋ねられて、その当時の感情の起伏を思い出したかのように、その主婦はまくし立てた。
彼女が触れ回った噂そのものには興味も信憑性も無かったが、その話を聞いた時、善治の元刑事としての感が何かを告げた。
何故、わざわざ福島の病院に?
大きな病院だったら、栃木にも有るはずだが。
現役の刑事時代であれば、容疑者が廻った土地を肌で感じることに重きを置き、鈍行列車で現地入りするのは捜査の一環であった。それは刑事一筋で生きて来た善治が培った、彼特有の捜査哲学だ。あの頃、いつも同行していた十蔵からは「物好き」呼ばわりされていたし、十蔵が他界した後、次の ――そして、最後の―― 相棒となった康介からも、「善さん、新幹線にしましょうよ」と、煩く文句を言われたものだ。しかしそんな時、善治は決まって「捜査とは・・・」と説教を垂れ、その信念を曲げることは無かった。その説教を、親子二代にわたって聞かされる羽目になった梨本親子の、半ば諦め顔も今となっては懐かしい。しかし今の善治にとっては、在来線に長時間揺られるのは苦痛だ。車でも来られる距離であったが、老兵には長距離の運転も然り。12時08分宇都宮発、新幹線「なすの257号」郡山行きが新白河駅のホームに滑り込んで来たのは、発車から約25分後の12時30分過ぎであった。
東北の玄関口である新白河駅を出て、駅前のロータリーでタクシーに乗り込んだ善治は、運転手に「白河国際中央病院」と告げた。新白河駅はその名が示す通り、新幹線専用の駅であり、白河市街の南の外れに位置している。その辺りは新興開発地区で、街も道路もゆったりとして広々した印象だし、街並みにも清潔感が有る。少し足を延ばせば、巨大なショッピングモールなどもひかえており、住み易そうな印象を与えた。一方、善治が目指す病院は街の北側にあり、そこへ辿り着くには歴史有る白河市街を突き抜けて行くか、大きく迂回して行くことになる。そのタクシー運転手が選んだのは、前者。つまり旧市街を縫って走るルートだった。元々白河市は小峰城の城下町として栄え、その町並みは古く、道路も狭く入り組んだ構造となっている。しかし、そういった歴史ある佇まいとは裏腹に、街の風景はシャッター商店街化しており、善治の乗るタクシーは寂しげな空気の漂う街並みを抜け、郊外の高台にそびえる巨大な総合病院へと向かった。
「お客さん、今日はお見舞いか何かで?」と、運転手の軽口が始まった。善治は適当に合わせた。
「まぁ、仕事みたいなもんだね」
「そうでしたか。で、もうお昼は済みましたか?」
「そら来た!」その発言からして、この地方ご自慢の食材でもあるのだろう。わざわざ話を振るのだから、それを話題にしたいという意図が見え見えだ。さてさて、何がご自慢なのか聞かせて貰おうじゃないか。善治は気を利かせて、運転手が聞きたがっている言葉を返した。
「いや、まだなんだが・・・ 何処かお薦めの美味しい店は有るかい?」
運転手は「待ってました!」と言わんばかりに飛びついた。
「お客さん、この辺は白河ラーメンってのが有名でしてね・・・」
車が病院に着くまでの間、善治は行くつもりも無いラーメン屋数軒の所在を聞き出していた。
「何でしたら、用が済むまでお待ちしましょうか?」
そんなことをされては、食いたくも無いラーメンを食う羽目になってしまう。こんな田舎町のラーメンなど、旨い筈は無いではないか。『名物に旨いもの無し』とは、よく言ったものだ。ここでラーメンを食うくらいなら、病院食の方がまだましだろう。自分が都会人とは思っていないが、田舎者の言う旨い物など、善治は全く信用していなかった。「何時に終わるか判らない」という嘘をついて、善治はタクシーを追い返した。運転手は一瞬だけ寂しそうな表情を見せたが、「有難うございました」という事務的な礼を述べると、病院のロータリーを回って旧市街方面へと消えて行った。
見上げる病院は巨大なものだった。そのエントランスも豪勢で、患者をビビらせることに何の意味が有るのか判らない。エントランスの中央にそびえる巨大な柱の周囲には、自動受付機とかいう難しそうな端末が並べられていたが、そんな物の使い方など、戦中生まれには判るはずも無かった。おそらく通院患者用の端末で、今の善治には関係の無い物であろうと思うことにした。善治が受付らしきカウンターに取り付くと、パソコンを操作していた若い男が愛想良く受け答えをする。
「本日は診察でしょうか? それともお見舞いでしょうか?」
善治は、またしても刑事であるかのような、例の雰囲気を故意に漂わせた。罪も無い素人を騙すことに、既に何の羞恥も罪悪も感じなくなっていた。
「高田という者ですが・・・ 以前、栃木県で起きた、とある事件に関して再調査しています」
受付男性の顔色が変わり、マニュアルに無い対応を迫られた焦りが顔に現れた。
「ど、どういったご用件になりますでしょうか?」
「その重要参考人を診察した医師にお会いしたい」
ここは少し、高飛車な態度を取った方が良さそうだ。相手によって態度を変えることは、刑事にとって必要不可欠なテクニックと言える。この男に対しては、「お会いできないでしょうか?」と下手に出るより、「お会いしたい」と断定的な傲慢さが有効だと判断したのであった。
「しょ、少々お待ち頂けますか? その患者様のお名前等をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
予想通り男はカタカタとコンピューターの端末を操作し、勝手に善治のための手はずを整え始めた。善治は更に不遜な態度で答えた。
「渋川未映子。その当時16歳で高校一年生だ。1992年頃、この病院に入院していた事実が確認されている」
男の額に汗が流れ始めた。あまりプレシャーを掛けてもいけない。男が善治の思い通りになっている間は、黙ってその様子を見守った方が得策だろう。善治はむしろ男を安心させるために、明後日の方向を向いてその作業が終わるのを待った。懐の大きさを示すような感じで。男は善治のその態度に安堵し、自分でも知らないうちに「善治の意向に応えよう」という無意識の同調状態に陥れられていた。それは心理戦に長けた者のみが取り得る、人間関係における戦術であった。
最後に男がリターンキーを叩くと、ディスプレイ上に善治が求める答えが現れた。男は言った。
「産科・婦人科の高畑が、その患者様の担当だったようです」
「産婦人科だって?」
善治はまた一歩、ご馳走に近付いた感触を持った。遥々、福島くんだりまで来た甲斐が有ったようだ。自然と笑みがこぼれるのを抑えることが出来なかったが、男はその笑顔によって善治が満足してくれたと勘違いし、胸を撫で下ろした。心理的なトラップに掛けられた人間は、その穴からおいそれと抜け出すことは出来ないのだ。
善治は男が求める言葉を掛けた。
「ありがとう、助かったよ。最後に一つ。その産婦人科にはどう行ったらいいのかね?」
「中央のエレベーターで三階となります。産科・婦人科の予約リストの上段に、高田様を入れておきますので、受付に直接お申しつけ下さい」
男は、善治の力になれたことを心から喜んでいた。善治は、まんまと病院に入り込んだ。
産婦人科ということで、善治の様な男の存在は一種異様な印象を与えていた。受付横で待っている間も、お腹の大きな妊婦たちがジロジロと遠慮の無い視線を投げかけた。ベテラン刑事を自負する善治であったが、この状況には辟易せざるを得ない。自分にもまだ弱点が有るのだと、ある意味、新鮮な驚きが善治を包んでいた。
程なくして名前を呼ばれ、少しビクビクしながら診察室に入る善治の姿が有った。
「ですから医者には守秘義務があることは刑事さんもお判りでしょう?」
高畑医師は渋い顔でそう答えた。その後ろを、パタパタと足音を立てながら、看護師が忙しそうに行き来している。
「もちろん存じております。捜査令状を取るほどの案件ではないことも承知しております。ですからこうやってお話をお聞きしているのですが・・・」
医師は面倒くさそうにボールペンの後ろをカチカチ鳴らし、ペン先を出したり引っ込めたりしながら言った。
「最近は医療の世界でもコンプライアンスという言葉が流行っておりましてね。そういったことにはうるさいんですよ。ナントカ委員会みたいな、およそ医療とは関係の無い部署が幅を利かせてましてね。警察にだって似たようなもんでしょ? 申し訳ありませんが、お話しできることは有りません。お引き取り下さい」
「そうですか・・・ では、仕方が有りませんな。お仕事中、お手間をかけました。確かに警察も似たようなもんですな。では、失礼いたします」
高畑の診察室を出た善治は、必要以上に明るいリノリウムの廊下を歩き出した。このネタは臭う。未映子が産婦人科に入院していたとなると、ひょっとして・・・。何とかして、この手詰まり状況を打破せねば。善治がそんなことを考えていると、そこに、見るからにベテランと思しき看護師が声をかけた。
「刑事さん」
振り向く善治が見たのは、40を過ぎたであろう、体の線も崩れた看護師であった。そのくせ身体に張り付く窮屈な白衣を着ていて、無駄に増えた脂肪が服の生地を容赦なく引っ張り、胸元を留めるボタンもはじき飛びそうな印象だ。
「先ほど高畑先生にお聞きになっていた件ですけど・・・ 私、よく覚えてるんです」
そう言えばこの看護師、高畑と会話している時に、カルテか何かを持って、忙しそうに後ろを行き来していたようだ。「スタスタスタ」と言うよりも「ドタドタドタ」という感じで歩いていたので、善治の印象に残っている。如何にも詮索好きで、町の個人病院に居そうなタイプだ。彼女の様な看護師が、この大きな総合病院で働いていることが、何だか随分と不釣り合いな感じがしたが、きっと仕事は出来る方なのだろうと思われた。仕事をしながら、高畑との会話を盗み聞きしていたに違いない。現役刑事だった頃は、こういったゲスな連中のお陰で色んな情報を得て来た善治ではあったが、最も嫌いなタイプの人間である。こいつらこそ社会のクズだ。善治は常々そう思っていたが、そんな心の内側は作り笑顔で覆い隠し、機嫌が良さそうに答えた。
「ほぅ、もし良かったらお話を伺えますかな?」
「えぇ、喜んで。私、推理小説とか大好きなんです。東野圭吾の新刊、お読みになりました? 私てっきり・・・」
話が脱線しそうな予感がした善治は、看護師の言葉を遮った。
「それでは、どこか静かな所・・・ 食堂か談話室にでもお越し頂けますかな」
看護師はチョッとだけつまらなそうな表情をしたが、直ぐに自分が率先して歩き出した。
「こちらです。もしかして、これって事情聴取って言うんですか? 何だかワクワクしちゃうわ。うふふ」
「康介もまだまだ修行が足りないな」そんな独り言を呟きながら、善治は白河国際中央病院を後にした。そこで得た情報は、善治の予想通りであった。未映子を担当した医師が婦人科医であることが判明した時点で、その予想は確信へと変わっていたわけだが、やはり未映子は妊娠していた。この病院で受けたのは、中絶手術だったのだ。自分の刑事としてのキレが、まだまだ鈍っていないという傲慢な自負が善治の心を満たしていたが、同時に、あのお喋り好きな主婦が勝手に触れ回っていた噂も、あながち的外れではなかったことになる。善治は苦笑いをした。
例の看護師の言を借りれば、若い娘が中絶手術をする際、普通であれば母親が付き添うものだが、父親ですらない第三者が付き添っていたということで記憶に残っているのだと言う。もちろんその当時、既に未映子の両親は他界していた。従って、善治の与り知らない「第三の男」が姿を現したことになる。
今後、その男を特定する必要が有るが、先ずはこのネタで、未映子に揺さぶりを掛けてみるのも一興だ。おそらく未映子は、この事実をひた隠しにしてきたはずだからだ。これが夏彦の件と直結しているかどうかは、まだ断定できないが、彼女の神経を逆撫でして追い込むには十分すぎる秘密に違いない。そして多分、夏彦の件へと続く、重要な手掛かりになるはずだ。未映子が顔色を無くし、たじろぐ姿を想像した善治は意地の悪い笑みを浮かべた。
*****
「何という先生でしたっけ? 貴方が高1の時に白河市の病院に入院された際の・・・ そうそう、高畑先生でしたっけ?」
未映子の顔から血の気が引いた。この男は、どうやってあの秘密に辿り着いたのだろう? 未映子の心はフラッシュバックの様に、あらゆる知人の顔写真をグルグルと再生したが、心当たりのある人物には行き当たらなかった。あの件を知っている者は居ないはずだ。そんな未映子の様子を、善治は嬉しそうに眺めた。そんな風に眺められていることにすら気付かない程、未映子は狼狽していた。
「あの先生もお呼びになるのかな、と思いましてね」
善治は卑劣な笑顔を、その顔に張り付けた。粘着質の悪意に満ちた顔だ。未映子は拳を握り締める。そのおかげでその指は白く変色するほどであった。それでもお構いなしに、善治は続けた。
「若い頃『自由な恋愛』をなさっていた貴方も、遂にお嫁さんですか? いやぁ、実に感慨深い」
相手を睨みつけることしかできず、ぐうの音も出なくなった未映子を確認すると、善治は満足げな表情を浮かべた。「これだ! この顔を見たかったのだ!」そして勝ち誇ったように言った。
「貴方、何かご存知じゃないですか? 深田君の自殺に関して」
未映子は顔を背けた。その顔は蒼白だ。今日の時点ではそこまで踏み込むつもりは無かったのだが、隠し通して来た中絶の事実を突きつけられた未映子の狼狽しきった様子を見て、善治は戦略を変えた。いや、弱った獲物を見て、その攻撃本能に火が付いたとてぼ言うべきだろうか。「叩くなら今だ」善治はそう確信し、追い打ちをかける様に畳みかけた。自分が思い描く事件のあらましを、未映子にぶつけてみることにした。
「はっきり言いましょう。私はこう睨んでいるのですよ。高1の貴方を妊娠させたのは深田君だったのではありませんか? そして、彼の死に渓一君が関係している。違いますか?」
「ち・・・ 違います」
「渓一君は何かの拍子に貴方の妊娠と、その父親が深田君であることを知ってしまった。そして貴方のことを心密かに想っていた彼は、思い余って深田君を手にかけてしまう。だがその死体の処理は用意周到に行われた。自殺に見せかけてね」
「やめて下さい!」
未映子の悲痛な叫びをもってしても、血を流す獲物を目の前にし、タガが外れた肉食獣の殺戮に飢えた狂気は止まらなかった。それを止められる者など、居なかったに違いない。
「そして貴方は、そのことを知っているはずだ! そうですよね、未映子さん! 深田君の死体の処理に手を貸しませんでしたか? もしかしたら貴方と小宮山が共謀して、深田君を殺害しんじゃありませんか?!」
次に善治は声のトーンを落とした。緩と急、剛と柔。それは、取り調べを行う刑事が容疑者を追い詰める定石である。
「私としては、そうは思いたくはないんですがねぇ」
未映子は両手で顔を覆い、テーブルにひれ伏した。そしていやいやをするように肩を揺すった。それを見た善治は「落ちた」と確信した。後は未映子を刺激しない様に、そっと導いてやればよい。善治はこれまで、この手で多くの犯罪者を「落として」きたのだ。自分の技量は、まだ錆び付いてはおるまい。そうすれば未映子は、自ら自分の秘密を吐露するはずだ。秘密を持ち続けることは、多くの人が思うほど生易しいことではないのだから。特にその秘密が大きければ大きいほど、想像を絶するような苦痛と疑念と悔悟が、それを密かに隠し続ける者の心を締め付ける。善治はそのことを良く知っていた。
そして更に声のトーンを落とし、囁くような優しい声で続けた。おそらくそれが、善治の見せた ――たとえそれが見せかけであったとしても―― 初めての優しさであった。
「未映子さん。あの脱線事故でご両親がお亡くなりになった後、随分とご苦労なさってますよね? そんな貴方が一時の気の迷いで道を踏み外してしまったことは、誰にも責めることは出来ません。ただ、深田君を手に掛けた犯人には、幸せになる資格が有るのでしょうか?」
それを聞いた未映子の表情が変わった。善治をして「落ちた」と思わせたか弱さは消え失せ、強い眼光で善治を見据えた。その形相は、幾多の修羅場を越えて来た刑事すらもたじろぐ気迫を備えていた。キッと睨み返された善治が怯んだ。
「いい加減にして下さいっ! 貴方の寝言に付き合っている暇なんか有りませんっ!」
今度は善治が言葉を失った。
「勝手な想像を好きに並べ立てて。貴方がいったい何を知っているというのですか!? もう警察でもないくせに、何のつもりですか! もう二度と私たちの前に姿を現さないでと言いましたよね!」
そう言うと未映子は、テーブルのレシートを鷲掴みにして椅子を蹴る様に席を立った。そして乱暴に金を払うと、後ろを振り返る事も無く店を出て行った。その足音には怒りが滲み出ていた。
善治だけがとり残された。善治は独りごちた。
「クソッ、失敗したか・・・」
喫茶店のウェイトレスが済まなそうにかける声が、善治の後悔の念を断ち切った。それまでの二人の緊迫したやり取りに、とてもじゃないが割って入ることなど出来なかったのであろう。テレビドラマの様な展開が、目の前で実際に繰り広げられていたのだから。
「お客さん、もう閉店なんですが・・・」
善治はポカンとした顔をそのウェイトレスに向けた。そして「あぁ」とだけ言うと、トボトボと店を後にした。その後姿は、確かに年老いていた。
*****
ドッと疲れが出た善治は、熱めのお湯に浸かりながら、ボンヤリと今日の出来事を反芻していた。
「あと一歩だったのに・・・」
勝利を確信した善治であったが、思いもよらぬ未映子の反撃に会い、挽回する暇すら与えて貰えなかった。未映子の意外な気丈さを見せ付けられた思いだ。人物観察には自信を持っていた善治であったが、未映子はこれまでの経験から語れるほど単純な相手ではなかったということか。彼女が抱えている物が、それだけ大きいということかもしれない。
「焦って踏み込み過ぎた」
善治はその後の調査で、未映子の過去にある男の存在を確認していた。丁度、両親を失った頃から姿を現し、未映子が大学を卒業するくらいまで、何らかの接触が続いていたようだ。おそらくその人物が、福島の病院に付き添って来た男であろうし、中絶した子の父親である可能性だって ──今日の揺さぶりに使えるほどの下調べが済んでいなかったのは残念だが── 捨てきれない。更に言えば、そいつが未映子の大学の学費を出していたと考えるのが自然だ。あの当時の渋川家は、まだJRからの和解金を手にしておらず、その経済状態から言って、東京の私立大学へ通わせる金など、工面できたはずは無いのだから。未映子がアルバイトをして学費を稼いでいた可能も有るが、あんなふしだらなアバズレ女が健気に働いていたとは思えない。いや、ひょっとしたら、風俗店などのいかがわしい店で高額を稼いだ可能性は否定できないが。更に言えば、小さな子供の頃から、そういった趣味の男と性的な関係を結び、その対価として生活費や学費を払わせていたのかもしれない。もしそうだとしたら、渋川家とはとんでもない淫売一家ということになる。とにかく未映子は、その清楚で美しい外見とは異なり、堕落して汚れきった売女に違いが無いのだから。
ただ、その男が何者なのか? 今は接触を断っている理由は? それは未だ謎に包まれたままであった。善治としてはその人物を特定し、二人の関係を白日の下に曝け出した上で、有無を言わせぬ切り札を手にした形で未映子を追い詰めたかった。しかし、功を焦ったため不完全な調査結果のまま半端な追い込みをしてしまった。もう1ターン待てばフルハウスになれたのに、焦って2ペアのまま勝負に出てしまった形だ。その結果が、今回の失態である。今後、未映子が警戒するのは目に見えている。今回の様なチャンスは二度と訪れないだろう。悔やんでも悔み切れない失策である。また振り出しに戻って、未映子を追い詰める為の証拠集めから始めねばならない。それを思うと、気の遠くなるような思いがする善治であった。
そもそも俺は、、、
何のためにこんなことをやっているんだっけ?
これで誰かが幸せになれるのか?
これは誰が望んだことだっけ?
自問自答は続いた。
未映子が身体を売っていた相手が誰であれ、そいつは今、どんな生活をしているのだろう? それを考えると、若干、後ろめたい感情が湧くことは否めない。自分が未映子の過去を暴くことで、不利な立場に追い込まれる男が居るのかもしれなかった。たとえそれが、異常な幼児性愛者であったとしても、今更その男が、そういった目に遭わねばならない理由など無いではないか。だがそう言ってしまえば、未映子本人に対しても同じことが言えるのであった。過去が掘り返されることで、未映子が被る不利益は何ら生産的とは言えず、同様に、その必要性など何処にも無いのだから。自分が房江のことを構ってあげられないまま逝かせてしまった罪悪感を、誰かを悪人に仕立て上げることで紛らわせているだけではないか? そもそも房江に寂しい思いをさせたのは、家庭を顧みない自分を、自分自身で胡麻化していたからだろ? それなのに、この期に及んでまた更に、自分を胡麻化そうと言うのか? 善治よ、お前はなんと愚かで幼稚な男なのだ。なんと卑怯で救いようのない人間なのだ。お前こそが最低の人間ではないか。
「もう、いいか・・・ 疲れたな・・・」
深い溜息が漏れた。
「こんなことしたって、房江が喜ぶわけでもないし、潮時かもな」
善治は、夏彦自殺の真相を探ることをやめる決意を固めた。二人には随分と不愉快な思いをさせてしまった。時が経って落ち着いたら、渓一と未映子には詫びの手紙でも書こう。自分には子供もいないし、これからはノンビリと盆栽でもいじって暮らすことにしようか。時々、康介を家に呼んで酒でも飲めば、寂しさも紛れることだろう。
湯船に浸かったまま両手でお湯をすくい、乱暴に顔を擦っている時だ。善治は自分の身体がフワリと浮かび上がる様な感じがした。「あれ?」と思ったが、何だか体が思うように動かない。自分の身に何が起きているのか判らなかった。そうしているうちにお湯が肺の中に入り込んで来た。息が出来なかった。彼の両腕はバシャバシャとお湯を飛ばしながらバスタブを掴もうとあがいたが、どうしてもそれを掴むことは出来ない。酸素の供給を絶たれた脳は、次第に思考能力を消失し始めたが、自分が足を滑らせたらしいことだけは、辛うじて理解できた。最初は苦しいと感じたが、そんな苦痛は直ぐに消え去った。そして、「どんなに水深が浅くても、溺れる時は溺れるものだ」という言葉を思い出した。若い頃、鬼怒川中流域に揚がった水死体の実況見分に行って、その場にいた検死官と交わした会話だ。随分と昔の記憶が蘇って来たものだなぁと、善治は他人事のように思った。
そして意識を失う最後の一瞬、房江の顔が現れた。一年振りに再会した妻は、優しそうな微笑みをたたえていた。それは死の直前の痩せ衰えた悲壮な姿ではなく、病気が再発する前のふくよかな丸みを帯びていた頃の姿だ。善治は抵抗するのをやめた。彼の顔は久し振りに、本当に久し振りに安らかな表情を浮かべた。全てのしがらみから解き放たれ、かけがえのない物を手に入れた、いや取り戻した安堵の表情だろうか。彼はこの状況を受け入れることにした。これで楽になれると思った。これで伊豆旅行という約束が果たせると胸を撫で下ろした。
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