【第一章】川口未映子

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 僕は既に、浅い眠りから目覚めていた。枕元では「きなこ」が丸くなっている。彼女は、目を覚ました僕のモゾモゾする気配を感じ取ったのか、そこで大きな欠伸と伸びをしたが、またすぐに態勢を変えて丸くなった。その艶やかな体毛が、カーテンを透かして差し込む柔らかな光をビロードの様に反射した。僕がその背中を撫でてやると、彼女は煩そうに耳をパタパタさせた。

 もう何年もぐっすりと眠ったことなど無かった。僕の一日はこんな風に始まり、何事も無く過ぎ、こんな風に終わる。24時間とか朝夕といった区切りは無く、そしてまた浅い眠りが訪れることによって一日が終わる。食事などは生命活動維持のための給油的な意味合いしか無く、必要なカロリーを摂取する為だけの行為であった。今が何時なのかも判らなかったし、興味も無い。僕にとって時刻という概念は、既にその意味を消失していた。僕はこんな生活を、もう10年も続けていた。


 そんな怠惰な生活を送る僕に対し、家族は、つまり父と母は当初、何とかして僕を外に引っ張り出そうと躍起になっていたものだ。厳しい父、光一は「27にもなって引き籠ってるのはお前くらいだ! 恥ずかしくないのか!?」などと焚き付ける様な叱責を繰り返したが、その言葉が僕の心に届くことは無かった。いや、正確にはその声は届いていた。父の僕を思う気持ちは痛い程判っていた。母、真希絵もなだめすかすように、あるいは腫物を触る様に僕に接し、どう取り扱ったものか判らずにいた。ただその当時の、そして今でも僕は、両親のそういった気持ちに応える為に行動を起こすことが出来なかった。何と攻められようとも、何と罵られようとも、相手が疲弊して口を閉ざすのを待ってさえいれば、いずれまた平穏な時間が訪れる。僕はそれを身をもって知っていたし、その為だったら何時間でも待っていられた。僕はそうやって生きて来たのだ。今後、僕の人生には、何の変化も予定されてはいなかった。


 そんな僕ですら、一日中ベッドの上でゴロゴロしているのは、それなりに苦痛であった。だからと言って親と一緒にテレビを観る気にもなれないし、そもそも今となっては、リビングに僕の居場所など無かった。スマホやゲーム機など、とうの昔に取り上げられているし、昔買ったコミックなど、もう何十回も何百回も読み返し、それらの背表紙はボロボロだ。インターネットが普及して久しいが、両親が僕にパソコンを買い与えてくれることなどあり得ないだろう。考え事をするにも限度があるし、読書などの習慣を育まなかったことを後悔している。「きなこ」にちょっかいを出しても、彼女は直ぐにプィとどこかに行ってしまう。そりゃそうだ。猫は人に弄られるのが大嫌いなのだから。つまり、いかに時間を潰すかが僕の人生の最重要課題となっていた。最近ではベッドに寝転がり、開け放った窓から見える空を見上げ、雲が風に流されるさまを見ていることが多い。人間ってそんな風に時間潰せるんだ、などと僕は要らぬ発見をしていた。

 そんな時、母が台所から二階の僕の部屋に声を掛けた。

 「散歩でもしてきたら?」との提案だった。僕は渋々それに同意した。

 本当は「それ、いいかも」と思ったのだが、その時の僕は既に、そういった自分の気持ちを素直に表現することすら面倒臭くなっていた。


 それからというもの、僕は黙って家を出て、フラフラと近所を散歩することを日課とするようになっていった。その散歩は、父と顔を合わせる必要がなくなった後、つまり父が会社に出社した後の時間帯を見計らって行われた。両親にしてみれば、いい歳をした息子が昼間っからブラブラしている姿をご近所に晒すことに外ならず、それは我が家の恥以外の何物でもなかったはずだが、僕の家庭はそんな体面を繕う段階はとっくの昔に過ぎていた。本当にすまないとは思ってはいたが、ズルズルと部屋に引き籠る日々にもウンザリしていた僕は、申し訳ないが出歩くことを優先した。そういった意味から僕は、引き籠りたくて引き籠っているわけではないことを自分自身が理解していた。何かのきっかけが有れば外に出たい、そしてもう一度、社会の一員になることを心の何処かで望んでいたのだと思う。ただ、そのきっかけを見つけ出せずにいたのだった。

 別に、両親に気兼ねしたわけではないが、僕自身もご近所さんと顔を合わせるのは出来れば避けたい。従って、住宅地からは少し離れた小川沿いを当ても無く彷徨うことを僕は好んだ。栃木県の中央に位置する宇都宮市から南へ車で20分。東北新幹線の開通によって、ここ小山市は首都圏のベッドダウンとしての地位を確立していたが、まだこの地方に多く残る田園地帯を歩くことは、四季の移り変わりを肌で感じさせ、少なからず平穏な心を取り戻すことに一役買っていたかもしれない。春の土筆やネコヤナギ。水を引き込んだ後の蛙の声。田植え後の稲はどんどん生長し、秋にはトンボが舞う青空の元、稲穂が黄金色に染まりその重たい穂先を垂れる。刈り取りが済めば直ぐに冬の足音が聞こえ始め、そして厳しい冬が訪れる。街の西側に連なる日光連山から吹き降ろす寒風が全てを凍て付かせ、冷え込んだ朝の霜柱は、足を一歩踏み出す度にザクリザクリと賑やかな音を奏でた。自然は毎年変わることなく移ろいで行くのに、僕だけはじっと一か所に留まり続けていた。


 そんな僕のお気に入りは、その田んぼ近くに有る、見捨てられたような公園だ。そういった立地からか、近所の子供たちが来ることも無く、ゲートボールをする高齢者が来ることも無い。そこは僕一人の秘密の空間であった。錆びたジャングルジムと鉄棒。「キケン! 修理中」という看板を掲げられたまま放置されて久しい滑り台。座るだけでキィーッと軋む、鎖の錆びたブランコ。どれも遠い昔を想起させる寂し気なモニュメントとなり、子供たちから忘れ去られた不平を黙って飲み込むように佇んでいた。公園を取り囲むように植えられたツツジの植込みも、永らく手入れされた形跡は無いようである。伸び放題のそれらが、この公園全体の雰囲気を荒れたものにしていた。その片隅のベンチに座り、ただボーッと時間が経つのを待つのが、僕の一日の全てになりつつあった。やっていることは、家のベッドに寝転がっている時と変わらなかったが、屋外という環境だけで僕の気は幾分晴れるのであった。


*****


 僕が例の公園でボーッとしていると、赤い軽自動車が公園脇に停まった。中から降りて来た女性は、その手にコンビニの袋を下げていた。お昼の弁当を食べる場所を探している風だ。彼女はあのキィキィ鳴るブランコに腰かけると、その予想以上に大きな軋み音に驚いたような表情で肩をすくめ、そして少し笑った。公園の隅の、植込み近くのベンチに座る僕の存在には気付かない様子であった。僕は彼女に気付かれない様じっと動きを止め、その姿を窺った。人間とは、動かない物には注意が行かないものだ。彼女はおにぎり二つを続けざまに食べ切ると、ペットボトルの緑茶を半分ほど流し込んだ。そしてボトルのキャップを閉めてコンビニ袋の口を縛り、そそくさと車に戻っていった。彼女が食事に費やした時間は10分位であろうか。そんなに急いで食べるなら、わざわざ公園に来なくても、車の中で食べれば良いのに、と僕は思った。この公園に、そこまでして来るほどの価値が有るとは思えなかったし、秘密の領域を侵されているような気がして、僕はチョッとだけ不機嫌になった。やっと手に入れた平穏が冒されるような予感が僕を憂鬱にした。

 何かのセールスレディーで食事を採る時間も惜しんで働いているのかな、と僕は思った。そういう風に忙しく毎日を過ごしている人が僕を見たら、どんな思いを抱くのだろう? 負け犬の様な、いや明らかな負け犬を見下す様な侮蔑の表情を浮かべるに違いない。彼女の様な人々は、僕とは対極にいる、光の当たる世界の住人なのだ。僕は一層惨めな気分になっていった。結局、彼女は最後まで僕に気付くことは無かった。光の世界の住人からしたら、僕の様な陰湿な暗がりに住む醜悪な生物は、その視界に入り込むことすら許されないのかもしれない。明るい日差しの下では、影が薄く半透明の様な存在に気付くはずも無いだろう。彼女は何事も無かったかのように軽自動車で走り去った。その横顔をガラス越しに見た僕は、何処かで見たことが有る様な気がした。


 翌日も例によって公園で暇を潰していると、昨日の赤い軽自動車がまたやって来た。彼女は今日もコンビニ袋を手に下げ、また同じブランコに腰かけた。どうやら彼女は、この公園で昼を済ますのを日課とすることに決めたようだ。僕が公園にやって来る時間をずらすべきだろうかと思案し始めた時だ、彼女がおにぎりの最初の一口目を口に含んだ瞬間、僕の存在に気付き、その動きを止めた。彼女はビックリしたような表情で暫く僕を見つめたが、次いでニコリと笑った。僕は黙って視線を逸らすとベンチを立った。居心地が悪かった。どうして僕なんかに笑いかけてくるのだろう? 間違って話しかけられたりしたら面倒だし、挨拶を交わすのも嫌だった。関わり合いになるのが鬱陶しくて、そそくさと公園を後にした。

 それに僕は思い出していた。僕は彼女を知っている。そして多分、彼女の方も。

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