ジグソーパズル

大谷寺 光

【序 章】1987年、夏

 機械的な異音が耳障りに鳴り響いた。金属と金属が擦れあう様な、人を不快にさせる音だった。次いで悲鳴と怒号が充満し、人々の身体は大きく揺さぶられた。たまらず将棋倒しになった人々は口々に不平の声やら、誰に向けるともない罵声を上げたが、それはさほど長くは続かなかった。その次に待ち受けていたものは、人々が経験したことの無い衝撃であったからだ。理解不能な騒音と地滑りの様な振動が同時に起こり、一部の人の身体は木の葉の様に宙を舞った。そして誰もが、自分たちの置かれた状況を理解しかねている時、更に予想外の状況が全員を飲み込んだ。最後に訪れたのは、致命的ともいえる加速度変化だ。何かが爆発したかのような轟音と共に起こったその物理的な急変により、折り重なった人々はその態勢のまま時速90㎞で前方に向かって吹き飛んだ。


 そして沈黙が訪れた。しかし、それも直ぐに人々の声によって破られることになった。

 「痛いよぉ・・・」

 「誰か助けてくれぇ」

 「チクショー・・・ チクショー・・・」

 そこには言葉にならない呻き声も混ざっていたが、低く抑えられたそれらの声は、それを発している本人以外の耳には届いてはいない。誰も他人のことなど気にはしていなかったからだ。しかし、そういった声を上げている人々は、自分自身がとてつもなく幸運であったことに後々気付かされることになる。一部の人は完全に圧し潰され、声を上げる暇も無く絶命していた。抗いようもない暴力的な力によって、彼らの命はいとも容易く奪い取られていたのだ。運良く潰されなかったとしても、凶暴で破壊的な力で前方に投げ出された者の多くは、壁などに叩き付けられた衝撃で、人間が生きてゆく上で欠くことの出来ない重要器官を損傷し、一瞬にして、あるいはむしろ苦しみながら徐々に死んでいった。


 そこには、元々何だったのかも判らないような物体に上半身を挟まれ、手足だけを覗かせている者が多く居た。瓦礫の隙間から延びる彼らの手足はピクピクと痙攣していたが、それは その者の生存を示す信号ではなく、生物学的、あるいは医学的な知見から解釈される、何らかの反応に過ぎなかった。それらの手の中には、バッグやらスマホやら小説が握られたままのものも有る。足には靴を履いたものも有れば、脱げてしまったものも混在していた。

 逆に、ある女性は腰から下を挟まれ、匍匐前進の様にそこから逃れようとしていたが、その努力によって彼女の身体が自由になることは無かった。何故ならば、彼女の右腕は変な所で折れ曲がり、あたかも関節が一個増えたかの様な有様で、腕としての機能を十分には発揮してはいなかったからだ。逆に左腕は、周りにある物を手当たり次第に何でも掴み、体を引き出そうと試みていたが、自分の手が掴んでいる物が人の頭髪だったりすることに彼女は全く気付いてはいない。彼女の顔面と肩まで伸びる頭髪は鮮血で赤く染まっていたが、それが自分の血液なのか、あるいは別の誰かの物なのかも判らなかった。

 また別の男性は頭から血を流し、近くにいた女性に何かを懇願していた。「これを僕の頭に入れてくれませんか?」男がその手に持っていた物は自身の脳髄であった。その目を大きく見開いた女が「ヒッ」という声にならない声を上げて凍り付くと、男は女にしだれかかる様に体を預けた。恐怖に顔をひきつらせた女が後ずさりすると、男は更に追いすがり、「これを頭に戻してくれよぉ」と続けた。その顔には、ぽっかりと開いた頭蓋から垂れ下がる脳組織の一部が張り付き、寸断された血管からは尚も血液が滴り落ちていた。女がその場で嘔吐し始めると、男は諦めた様にペタンと座り込み、それを握り締めたまま上を見上げた姿勢で死亡した。胃の内容物を全て吐き切った女は、その時初めて、自分の顎が顔から千切れかけてブラブラしていることに気付き、そのまま気を失った。

 折り重なる人の山から這い出して来た男は、何とか自分の身体を引き出すと、何者かの腕が上着の裾を掴んでいることに気付き悲鳴を上げた。そしてその手を強引に振り解き、そこから逃げ出そうと振り返った瞬間、足元の誰かを踏みつけて転倒した。すると彼の眼前には、ぼんやりと薄目を開けたまま息絶えた女の顔が迫った。その死体の首は胴体に対して有り得ない角度を描いており、首の骨が折れていることは素人目にも明らかだ。男は意味不明の言葉を叫びながら、何処へともなく走り出そうとしたが、辺り一面は人と物で敷き詰められていた上に、そこには自由に動き回れる空間など存在してはいない。そして再び転倒し、死体の群れに突っ伏した際、折れた肋骨の先端が己の腹部を突き破り、外に突き出しているのを認めもう一度悲鳴を上げた。


 そうこうしている内に、辺りは静けさを取り戻し始めていった。それは、生存していた人々の命が、一つまた一つと失われていく過程を表していることに他ならなかった。叫び声も呻き声も、次第にそのトーンを落とし始め、後に残ったのは何人かのすすり泣くような恨めし気な声だけとなっていった。疲れ果てたかのように沈黙している者たちは、気を失っているか、あるいは生死の境を彷徨っているのかのどちらかだ。その静寂の訪れを待っていたかのように蝉が鳴き始め、遠くから近付きつつある警察車両や救急車のけたたましいサイレンを覆い隠した。

 気温が上昇し始めていた。鬱陶しい梅雨が明けて久しく、付近に点在する里山の木々は燃えるような新緑の度を深めている。近所の家屋の開け放たれた窓からは、朝ドラの音声が漏れてきて、僅かにそよぐ生暖かい、それでいて早朝の清涼感を少しばかり残した風が、その軒下に吊るされた風鈴をりんと鳴らした。また今日も蒸し暑い一日が始まろうとしていた。

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