ロビンソン/スピッツ について
スピッツのロビンソン。もはや言わずと知れた名曲です。
名曲ではありますが、色々と不思議な曲でもあります。
まずタイトル。カクヨムにいる人なら小説のタイトルがどれだけ重要か説明するまでもなくご存じかと思います。もちろん曲名も同じくらい大事です。
ロビンソンは、なんの関係もない外国のデパートの名前を仮題にしていたのを正式タイトルとしたそうです。あまりにも適当ですが、他に曲名を考えろと言われても思いつかないし絞り出したところでしっくりこないでしょう。
次に曲調。決して元気な曲ではありません。しかしバラードというにはリズムが軽快です。物悲しいというには淡々としているし、奇妙というには美しすぎます。一応ジャンルはロックですが、一般にも受け入れられるポップさも持っています。
更に歌詞。テレビ番組で曲を流す際には「応援歌」「恋の歌」「失恋の歌」と、歌詞の内容を要約した簡潔な紹介文がテロップに出たりします。
ロビンソンの歌詞を一言で説明するのは難しいです。フレーズを抜き出せばラブソングっぽいですが抽象的で難解です。
最後に売上。通常、売れる曲というものはわかりやすいものです。前述したとおりロビンソンはわかりやすさと対極にあるような曲ですが、スピッツ史上最大のヒットを誇り、100万枚を優に超えるセールスを叩き出しました。
CMソングやドラマ主題歌等のタイアップもなく、積極的なセールス活動も行っていなかったので、作詞作曲を手がけた草野マサムネ氏が「どうしてこんなに売れたのかわからない」と語っていたのはあまりに有名です。
なにからなにまで不思議づくしな楽曲、ロビンソン。
ただ、これが名曲であるということだけは明確にわかります。稚拙ながら、その内容を読み解いてみようと思います。
ロビンソンはスピッツの十八番ともいえるギターのアルペジオから始まります。ロビンソンを語るにあたって、このアルペジオを外すことはできません。ちょっと前に音楽番組にて「あのフレーズはギターの三輪テツヤ氏が考えたものをほぼそのまま採用している」ことが明かされました。
イントロは、やや長い。普通ならここでボーカルが入るだろうというタイミングでは始まらず、もう1フレーズ繰り返します。
「最近の若者はサビまで待てない」(からイントロがない、あるいはサビから始まる曲が増えている)という記事が出ていたのは記憶に新しいところですが、ラジオ全盛の時代にも似たような話はありました。にもかかわらずあえてイントロの時間を多く取っているということは、このイントロが持っている力をスピッツメンバーあるいはスタッフは正しく理解していたのでしょう。
独特のリズムと浮遊感のあるイントロの後、草野マサムネの歌が入ります。
ここからは歌詞の解説めいた内容を含みますが、紹介するのはロビンソンの解釈の中でもポピュラーな「後追い自殺」説です。この解釈を既に知っている方には目新しいものではないかと思います。
また自殺を推奨・美化する意図がないこともご了承ください。
最初のサビまではこんな感じ。
◇ ◆ ◇ ここから引用 ◇ ◆ ◇
新しい季節は なぜかせつない日々で
河原の道を自転車で 走る君を追いかけた
思い出のレコードと 大げさなエピソードを
疲れた肩にぶらさげて しかめつら まぶしそうに
同じセリフ 同じ時 思わず口にするような
ありふれたこの魔法で つくり上げたよ
誰も触われない 二人だけの国 君の手を離さぬように
大きな力で 空に浮かべたら ルララ 宇宙の風に乗る
――――スピッツの楽曲「ロビンソン」(作詞:草野マサムネ)より
◇ ◆ ◇ ここまで引用 ◇ ◆ ◇
相変わらず、比喩だらけなのに易しい語彙で構成されている不思議な歌詞です。
季節とは常に新しいものへ移り変わるものですが、歌詞の主体となる人物はそれをせつなく(悲しく・寂しく)感じています。「日々で」の「で」は順接の接続詞ですから、「せつない」を理由として「河原の道を~」に繋がっていきます。
「河原の道を~」は実際の出来事なのでしょうか? 文章だけを読めば「退屈な日常なんて抜け出して君と遊びに行こう!」とも取れますが、別の解釈をするならば、これは過去の出来事、あるいは心象風景と捉えられます。
なぜか自分をせつない気分にさせる季節に嫌気が差して、君と過ごした日々に意識だけが戻っているような心情ですね。この現実と異なる視点は「~まぶしそうに」まで続きます。
日本語の曖昧さというやつで、「自転車で走る君」を追いかけたのか、走る君を「自転車で追いかけた」のか、人によって読み取り方は異なると思います。ただここで重要なのは自転車に誰が乗っているかではなく、「先を行く君を追いかける」ということにあります。
君を追いかける(便宜上の呼び方として)「僕」は肩に思い出のレコードとエピソードをぶら下げます。これは「君と話したいことがたくさんある」⇒「長い別離が発生していた」ことを示唆していると思われます。半ば他人事のように自身を俯瞰している「しかめつら まぶしそうに」。君を見失いそうな恐怖、それでも追い続けようとする必死さを、きっと「僕」は君を追いかけていたあの日から感じ続けていたのでしょう。
さて、これは詩の解釈というより単純な言い回しの妙についてです。
「愛してる」をどのように表現するか、というのは詩人の腕の見せ所のようなところがあります。陳腐だけど大切な言葉を君に伝えたい、という内容をどう表現するか?
なんか本当に「ありふれた言葉だけど君に伝えたいんだ~」みたいな歌詞は飽きるほど見た気がしますがそれは詩じゃなくて手紙の朗読みたいなもんですね。
草野マサムネがどう表現したかというと「同じセリフ 同じ時 思わず口にするような ありふれたこの魔法」です。ありふれていることを「同じ~」で修飾しながら、さらりと「魔法」と呼ぶ。同じ三文字ですから「言葉」という歌詞にすることもできたはずですが、そうしなかった。「愛している」という言葉を気恥ずかしく思って卑屈になりながら、それでも君に伝えたいと思う真摯さ、無垢さ、幼さが表現されます。単語一つを入れ替えるだけで、心情描写に底知れない奥行きが生まれています。
明確な言葉でないから、聴くたびに思いを馳せてしまう。それもスピッツの曲が今なお人気を保っている要因の一つなのでしょう。
歌詞の内容に戻りますが、サビはロビンソンの歌詞の根幹にかかわるので読み込むのは少し後回しにします。
特筆すべきは「君の手を離さぬように」ですね。曲全体で、このフレーズが出てくるのはここだけです。これは手を離してしまいそうな恐怖を抱いている、あるいは過去に手を離してしまったことがあると考えることもできます。
◇ ◆ ◇ ここから引用 ◇ ◆ ◇
片隅に捨てられて 呼吸をやめない猫も
どこか似ている 抱き上げて 無理やりに頬よせるよ
いつもの交差点で 見上げた丸い窓は
うす汚れてる ぎりぎりの三日月も僕を見てた
待ちぶせた夢のほとり 驚いた君の瞳
そして僕ら今ここで 生まれ変わるよ
誰も触われない 二人だけの国 終わらない歌ばらまいて
大きな力で 空に浮かべたら ルララ 宇宙の風に乗る
大きな力で 空に浮かべたら ルララ 宇宙の風に乗る
ルララ 宇宙の風に乗る
――――スピッツの楽曲「ロビンソン」(作詞:草野マサムネ)より
◇ ◆ ◇ ここまで引用 ◇ ◆ ◇
いわゆるBメロから最後まで。
草野マサムネ氏の歌詞には人間以外の動物が頻繁に登場しますが、ここでも猫が現れます。「どこか似ている」の主語は誰なのでしょうか。あるいは、君と僕、両方を指しているのかもしれません。
わりと情景描写として具体的なことを歌っていたここまでと違い、「いつもの交差点~僕を見てた」は、かなり難解です。
丸い窓とは、なにを示唆しているのでしょう。もちろん、単純に建物の窓ガラスなのかもしれませんが、ここでは違う解釈をします。
見上げたところにある丸いもの。直後の歌詞に「三日月も」とあるので、月と対比できる存在であると考えられます。
つまり太陽ですね。
気になるのは「うす汚れてる」ことと、太陽を「窓」と比喩していることです。
太陽は昇ることで一日が始まり、沈むことで一日が終わります。つまり日常が繰り返すことを象徴しています。月も同様に夜を象徴する存在と言えるでしょう。
それが「うす汚れてる」「ぎりぎり」。本当に太陽が汚れているのではなく、月が消滅しそうになっているわけでもなく、「僕」にはそう見えている。つまり当たり前の毎日が終わりを迎える=死を意識し始めた心情を意味していると読み取れます。
そして「窓」とは、なにかを覗き込む、あるいは覗き込まれる、そのために存在するものがあります。
太陽を窓とするならば。
主体が我々だとするなら、太陽という窓から覗き込むのはきっと未来・明日の風景でしょう。
我々が覗き込まれる側だとするならば、向こう側にいるのは人類より上位の存在=神だと考えられます。
窓がうす汚れてるということは、明日が遠ざかる、あるいは神の目の届かない場所に向かいつつあることを意味しているのではないでしょうか。
回りくどくなりましたが、死を意識し出したために周囲の見え方が変わりつつある、ということを歌っていると解釈できます。
「待ちぶせた夢のほとり 驚いた君の瞳」。
最も美しい日本語の歌詞とはなにか、と問われたら私はこれを挙げるかもしれません。
まず韻の踏み方が美しい。
最近テレビでヒット曲を聴いていても、ダジャレと勘違いしているものとか、韻を踏むことばかり考えて詩として微妙な言葉選びをしている歌詞ばかり見かけますが、これはさすが草野マサムネという歌詞ですね。簡単な言葉ばかりですが、「ほとり」なんて普段はあまり使わない、しかしどこか詩的な響きのある単語を持ち出してきています。
更に、聴き手の想像力を掻き立てる情景。
「君」は、なぜ驚いたのでしょう。
それはきっと、置いてきたはずの、ここにいるはずのない「僕」が、そこにいたからだと考えられます。
二度と会うことはないと思っていたのに、夢のほとりで再会してしまった。
つまり、なんらかの事情により先立ってしまった「君」の後を追って、「僕」は死を選んでしまった。ここまでの歌詞で「僕」は「君」を追いかけていましたが、通常のものではない手段=自殺をもって「君」を追い越してしまったので、ここでは「待ちぶせて」いたと解釈することができます。
それを踏まえると、「君」が「驚いた」のあとに感情は、どんなものでしょう。
「なんで追ってきてしまったの」という怒り、「僕」が死んでしまったことへの悲しみ、そしてまた出会えてしまったことに対する安堵と喜び、その葛藤だと思われます。
その渦巻く感情に歪められたせつない表情が、まるで小説の一場面を読んでいるときのように想像できてしまいます。
こんな短いフレーズの中に驚くほどの美しさと物語が詰め込まれています。詩というのは、まさにこういうものを言うのでしょう。
そしてサビの歌詞です。
「二人だけの国」。街でも島でも世界でもなく、国、という単位が絶妙ですね。「終わらない歌」というのも、誕生で始まり死で終わる、という現実世界のルールを逸脱した存在になったという感じがします。
「大きな力で 空に浮かべたら ルララ 宇宙の風に乗る」。
宇宙は真空だから風なんてねーよwwwと笑う人がいますが、たぶん生涯において価値観を共有できることが一切ない類の人が言うことなので、気にすることはありません。深海の魚は空を飛ぶ鳥の鳴き声を知らないし、知る必要もありません。逆も然りです。
「宇宙」にも色々な意味があります。
英語でいうスペース。単純な宇宙空間のことを指します。
ユニバース。星とか銀河とか、そういう宇宙全体のことを指します。
コスモス。もっと概念的、哲学的な意味を持つそうです。
ロビンソンに出てくる宇宙は、この中ではコスモスが一番近いでしょうか。世界の法則というか、システムというか、そういった秩序・調和を意味します。まったく詳しくないので的外れだったら申し訳ありませんが、仏教に現れる宇宙観が近いのかもしれません。
その風に乗る、というのは輪廻の流れに乗り、生まれ変わる、ということを意味しているのだと思われます。
改めて歌詞を解釈した内容を総括すると、なんらかの理由で先立ってしまった君のことを思うと僕の日常は意味を失ったように無味なものに感じる。後を追って命を絶つ間際、また君に出会えた気がする。輪廻の流れに乗って、いつかまた君と共に生きたい……というような感じでしょうか。
最後はサビの繰り返しですが、少し珍しく、フェードアウトしていくような構成になっています。
それが余韻を引き立てて、まるで一本の映画を見たあとのような充実感を聴き手に与えてくれます。
めちゃめちゃ長くなりましたが、あくまでこれは解釈の一つに過ぎない、ということは改めてご理解いただきたいところです。
スピッツの詩だからといって、なんでもかんでもセックスと死に結び付けて考えるというのも、少しもったいないですね。
2023年、新アルバム「ひみつスタジオ」が発売されます。大型のタイアップも発表されていて、大丈夫、働き過ぎじゃない?と心配です(余計すぎるお世話
30周年も過ぎて既に数年経っていますが、まだまだスピッツのこれからが楽しみですね!
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