第26話

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 宴が終わり、庭園を出てから、柘榴帝はふと思い出した。


「そうだ。ふたりに褒美をやる約束だった」


 廿野酒楽と彼に仕える付喪神・伍仁だ。拾野波路の企みを看過した彼らに、そう約束をしていた。今日は色々とありすぎて、忘れてしまっていた。しつこくつきまとう美蛾娘から逃げるのに手いっぱいだったせいもある。


「戻るぞ」


 まだ庭園に留まっているかもしれない。わずかなお付きの者を連れて踵をかえした。宴席に戻ると、すでに妃嬪たちは帰った後だが、酒楽はなぜか池の端をうろついていた。少年は途方にくれた顔で、片手に翡翠飾りをのせて何か探している。


「どうしたんだい?」


 近づけばびくりと身を震わせる。酒楽は、律儀に後宮式の礼をしようとする。


「いいよ、気楽に。……あれ?」


 そこでようやく帝は気づいた。伍仁の姿がどこにもない。酒楽は瞳に不安を滲ませて、頼りなく言う。


「急に消えてしまって、どこにもいないのです」

「さっきいたよね。君の後ろに、ぴったりとはりついていた」


 思い出し、苦笑してしまう。あの過保護な付喪神が、彼をひとり残し、無言でどこかへ行くとは考えにくい。酒楽は、片手にのせた翡翠飾りを示し、事情を説明した。歌の最中にひびが入り、付喪神が消えてしまったのだと。


「こんなこと、今までなかったのに」


 視線を落とした少年はいつになく儚げだった。ひな鳥が親を見失い、迷子になって瞳を潤ませている。そんな風にしか見えなくて、帝は愛らしさに庇護欲をそそられた。発する言葉にもつい、励ましの響きが出てしまう。


「大丈夫、きっとすぐに見つかるさ。そうだ、歌の最中に消えたと言ったね」


 すぐに黒官の魔醜座ましゅうざを呼び寄せた。先ほどの宴で披露された歌は、誰が見ても異常だった。空間をうすべにに染め、春の息吹を無理やりに呼び寄せたその手法――歌に何らかの神気が使われていたのは間違いない。あのとき、楽人たちのすぐそばにいた黒官の魔醜座なら、何かわかるはずだった。呼ばれてすぐやってきた魔醜座は、話を聞くなりきっぱり言う。


「おそらく、はじき飛ばされてしまったのでしょう」

「はじき飛ばされた……?」


 怪訝な顔の酒楽に、魔醜座はかんで含めるように話した。


「先ほどの宴の席で、歌を披露していたのは倭花菜わかな楽人です。彼女は、類まれなるその歌で、弁財天女神にょしんの神気を借りました。巨大な力に当てられ、貴方のおっしゃる付喪神とやらは、この庭園の外へ――後宮内のどこかへ飛ばされてしまったのでしょう」


 歌で空間を満たす行為は、結界をつくることに近い。そう魔醜座は頷いている。弁財天女神の支配する空間で、その意に染まぬ下位の神が外へ押し出されてもおかしくはないと。酒楽は希望に顔を輝かせた。


「じゃあ、伍仁は無事なのか?」

「もし、その付喪神とやらが、酒楽さまの宮の場所を知っているのなら。すでに戻っているかもしれません」


 魔醜座は、「付喪神」という単語を実に嫌そうに発声する。後宮からそういった魑魅魍魎を廃すのが、黒官たちの仕事なのだ。処理漏れがあったことが気に食わなかったのだろう。念のために柘榴帝は魔醜座に「無害だから放置しておけ」と言い含めなければならなかった。魔醜座は渋々と頷くが、付喪神のことを隠していたなと、責めるような気配がその目にあった。酒楽は安堵に顔を緩ませ、踵をかえそうとする。


「すぐに伍仁を……ッ!」


 言いかけ、酒楽はよろりと膝をついた。苦しげに胸を押さえているのを見て助け起こそうとしたが、魔醜座に片手で制されてしまった。


「陛下、すこしお下がりください」

「けど」

「これはあなたのせいですよ。あてられているのです」


 何に、とは聞かなくてもわかった。己の身から出る薫香だろう。考えてみれば、己と会う際、酒楽は常に伍仁に呼吸口をふさがれていた。酒楽が特別に、薫香に耐性がないわけではない。

(私の好意に比例し、薫香は強まってしまうものだから)

 友情・親愛。恋以外の感情であっても、好意的な情があれば、この身から出る香は強くなる。帝の意志に関わらず、容赦なく対する者の思考を蕩かしてしまうのだ。そして帝が酒楽に抱く感情は、親愛より、どちらかといえば肉欲に近かった。それこそ、無意識にこの身から出る香りが強まっていたとしてもおかしくはない。慌てて数歩下がると、魔醜座に支えられた酒楽は瞳を潤ませている。快楽のなかで理性を保とうとするように。乱れた呼吸と染まる頬、結った髪からひと房、栗色の毛が零れるのが、なんともなまめかしい。思わず息をのむと、悩ましげに蕩けた酒楽の瞳と目が合う。彼は理性が溶ける寸前にいる。


「もうしわけ、ありません……っ、醜態を……」

「い、や」


 こちらこそすまない。そう言いかけた舌が固まる。庭園の端からきらびやかな装いの一団が歩いてくる。先頭に、いま一番会いたくない後宮の悪姫がいた。


「おや、ここにおられたか。来るのが遅いから、妾が迎えに」


 現れた美蛾娘は、途中で言葉を切る。魔醜座に支えられ、立ち上がった酒楽を見て、にんまり笑う。


「廿野酒楽。よいところで会うたのう。先日、妾が所望した画はできたのかえ?」

「画……?」

「美人画じゃ。いつぞやの夜の」


 酒楽は翡翠飾りを手に、のろのろと頷く。きれのないその反応に、美蛾娘の機嫌が急降下する。そばにいた帝には、それがすぐにわかった。無表情になった美蛾娘が、殺意のこもる目をぎらつかせる。言葉が発される前に、帝は酒楽の身をとっさに抱え上げていた。


「すまない、またにしてくれないか。彼は気分が悪いようだ。宮まで送り届けるから」


 抱えられた酒楽が身を凍りつかせる。手に持った翡翠飾りを守ろうと、両手で包むように握りしめている。美蛾娘は目を細めたが、酒楽を見るとくらく笑った。


「では陛下。その後で、妾の宮へ来てくれるな? 酒宴の準備はできておる」

「ああ、伺おう」


 道を開けた美蛾娘の前を、できるだけ早足で通り過ぎた。後ろからついてきた魔醜座に、すぐに輿こしを呼ばせる。立つ気力のない酒楽を抱え、一緒に乗りこんだ。


「大丈夫? すぐに君の宮へ着くから」


 予期せず帝の膝に乗ることになってしまった少年は、声もなく震えている。身を離そうとしたのだろう。不安定にずり落ちそうになったのを抱えると、酒楽は大きく身を震わせた。


「ひぁっ!?」


 耳まで真っ赤になり、くたりと額を肩にもたせかけてくる。体が密着したことで余計に薫香にあてられ、強力な媚薬を飲んだ状態になっているのだろう。彼の手は、しっかりと翡翠飾りを包みこんでいて、余計に身動きがとりづらそうだった。


「すまない……すこしの辛抱だから」


 屋根のある輿には薄く紗がかかり、周囲が窺える。前を見れば、ちょうど川を渡りきったところだった。輿がかすかに揺れるたび、少年の頭が危なげにぐらつく。とろんとした愛らしい顔が間近にあった。うるむ瞳と熱い吐息――かすかに開いた口から、感じ入ったような舌が覗き見えたとき、思わずその口に吸い寄せられていた。


「んっ!? ふぁっ、ぁむ、っ、んん~~ッ!」


 やさしく舌を吸い数度ついばみ食むと、腕の中の身がおもしろいくらいに震える。濡れた音をわざと響かせ、細い身体を服越しに撫ぜた。酒楽の舌は甘かった。直前に菓子でも食していたのか。無心で舌をついばみ続けると、宮へ到着したころには、少年はくったりと動けなくなっていた。大きな瞳から涙が零れ落ち、抗議するような弱々しい意志の光がひらめく。その瞬間、ぞくりと背を快感が走った。

 ――彼がほしい。

 快楽に堕ちかけ、なお屈しない強靭な理性。それをつき崩し、制圧するのはいかほど心地よいだろう。呼吸の整わない酒楽を抱え上げ、輿を降りると供の者に告げた。


「ここで待て」


 意を汲んだ供の者はついてこなかった。酒楽の宮へ入り、扉を閉める。


「う、にん……?」


 翳りかけた酒楽の瞳が、縋りつくものを求め部屋を見る。誰もいない、付喪神ですら。


「大丈夫、いずれここへ帰ってくる。魔醜座がそう言っていただろう?」


 寝台に酒楽を横たえ、瞳から零れ落ちた涙を舐めとった。服を脱がせようとして、酒楽がまだ両手で翡翠飾りを大切そうに包み持っていることに気づく。


「それを貸しなさい」

「いやだ。い、や……」

「持っていると危ないから。ほら」


 無理やり口づけ、酒楽の両手を割りほどいていく。翡翠飾りを奪うと、そっと寝台の横に置いておく。ちょうど、飾りを入れていたのだろう桐箱があった。その中へ丁重に横たえる。


「ぁ、伍仁が……!」

「大丈夫。彼ならきっと、すぐに帰ってくる――」


 水音を響かせ口づけると、少年は逃れるように寝台脇の翡翠飾りへ手を伸ばそうとする。その手を阻み、指を寝台に縫いとめた。酒楽は茫然とした顔をしていた。何が起きているのかわからない、そんな顔の少年を上からうっとり見下ろした。


「君は私のものだ。もうなにも、考えなくていい」

「ッ!? ん、――ぁ」


 非難するような声を抑えこみ、そのまま甘い舌を堪能していった。

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