第27話

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 女宮の端にいた伍仁は、急ぎ酒楽の宮へ駆け戻ってきた。宴の席で場を支配していた弁財天女神べんざいてんにょしんに睨まれ、反感をかってしまった。無意識に抗おうとしたのだろう。気づけば酒楽から遠く離れた場所まで飛ばされていた。


(はやく戻らなければ――!)


 すでに宴は終わり、みな宮へ戻っている。今ごろ酒楽は自分を探し、大騒ぎしているに違いない。なにせ自分は彼にとって、一番大切な存在なのだから。

(私がいないと酒楽さまは駄目なのだ)

 うぬぼれでなく、それくらい必要とされている。先ほどの衝撃で、伍仁は不思議と閃いたことがあった。酒楽は伍仁のために、後宮へやってきたのだ。どうして気づかなかったのだろう。

(あのとき、――)

 柘榴帝が着ている、薫香避けの黒羽織だ。後宮へ来る前に、自分はそれをたしかに目にしている。まだ酒楽が幼かったころ、町へ薬草を取りに行ったときのことだ。伍仁は不思議な商人と会っていた。えびす顔で、妙に気さくなその御仁は、昼間から酒精をなめていた。柘榴帝と同じ黒羽織を着た商人には、伍仁の姿が見えていた。そして酒楽が後宮入りを決めたのは、その商人と会ってからすぐのことだ。なぜ酒楽が後宮へ来ようと思ったか。その問いをずっと、はぐらかされ続けてきた。「実家を出たかったから」という答え以外に、含みがあるのが気にかかっていた。考え、導き出された答えはひとつ。


(私が会ったあの商人が、先帝・鳳梨帝だったのだ)


 後宮へ入ってからも、酒楽はかたくなに先帝と伍仁を会わせようとしなかった。伍仁は先帝の顔もまともに見たことがない。酒楽が見せてくれなかったのだ。けれど、考えてみれば辻褄が合う。

 権力者にとり、付喪神という存在は貴重だ。情報収集、隠密、暗殺など、なんにでも使えて痕跡は残らない。最近は酒楽や、その曽祖父・撫葉むようといった無害な人間のそばにいたから、忘れていた。伍仁は元来、権力者にそういった目的で使役されることが多かった。高価な翡翠飾りは政治家や富豪の手に渡るものだ。彼らは伍仁を見つけると、きまって汚れ仕事を頼んでくる。もちろん、嫌だと思えば断るなり、あるじ替えをするなりしてきたわけだが。


(先帝は、おそらく私を求めたのだろう)


 酒楽はそれを断ったのではないか。そこにどういうやり取りがあったのかはわからない。ただあの冷たく暗い座敷牢の中で、日に日に生気を奪われていくばかりだった酒楽が、ある日決然と「後宮へ行く」と告げたときのことは憶えている。


 ――あんずるな。ずっといっしょだ。


 お前を手放すことはないと、舌足らずにそう告げてきた凛とした横顔。

(私を守ろうとしてくれたのだ)

 だから先帝が崩御するまでの五年間、酒楽は「飽いた飽いた」と繰り返し、それでもずっと後宮に留まっていたのだろう。出ようと思えばすぐに出られたはずなのに、文句を言いつつも、先帝の意に従い続けた。すべて自分のためだと考えるのは、うぬぼれに過ぎるだろうか。さほど間違いではないはずだ。そう直感が告げている。

(今日、この後宮を出る)

 酒楽はけして自分を置いてけぼりにしない。できないのだ。それくらい必要とされているという自負が、伍仁にはある。早く彼の元へ戻らなければ。やきもきしているだろう少年を落ちつかせ、ともに後宮を出るためにも。


 酒楽の宮へ戻ってくると、建物の前に柘榴帝の輿がとまっていた。なにかあったのか。宮の入り口ではなく横へ回り込み、そっと窓から覗きみる。寝台の上で、酒楽が柘榴帝に口づけられていた。あどけない少年は帝の膝に抱えられ、されるがままになっている。着乱れた衣、響く水音、顔が離れた瞬間、その蕩けきった瞳が見え、愕然とする。獣のように目をぎらつかせた帝が言うのが聞こえた。


「今日から君は、私のものだ」


 首筋を舐められた酒楽はあえかに鳴いた。真っ赤に染まり切った頬に、悦楽の涙が転がる。とっさに目をそらしていた。衝撃が大きすぎる――逸らした視線の先に、自分の耳飾りが置かれているのが見えた。よろりと数歩後退し、窓から離れる。

(どうして――)

 呻きは声にならない。そのまま急いで来た道を戻り、早足で歩く。どこへ行くのかもわからないが、今見たことから遠ざかりたかった。一刻もはやく。自分にはないと思っていた心臓が、嫌な風に波打っている。目の前が暗くなり、足元がおぼつかない。

 何に衝撃を受けたのか、伍仁にはよくわからない。行方の知れない自分を酒楽が探さず、忘れたように放置していたことか。あるいは、常にその身から離さなかった耳飾りを、帝の前でああも無造作に外し置いたことか。それとも、柘榴帝を受け入れた酒楽の心や想いに、自分は嫉妬したのか――?

(嫉心? 馬鹿な)

 酒楽にいつか想い人ができたら喜び見守ろうと、伍仁はそうずっと考えてきた。つくも神と人の寿命は違う。いずれ彼に連れ添いができれば、それは喜ばしいことだ。現に、元主の撫葉が結婚したときには、心から喜び祝福した。我が子の巣立ちを見るように、すこしの寂しさをおぼえたが、今日のような衝撃は受けなかった。


(我が子。そうだ――)


 酒楽の曾祖父、撫葉は、自分にとって実子のような存在だった。かけがえのない守るべきもの。常に見守り、いずれ巣立つものと予想し、立派に育つのを喜ばしく見た。では酒楽はどうか、そうではなかったのか。撫葉とは何が違う?



 天河の橋を渡り終え、女宮に着いたところで立ち止まる。酒楽の上にわが物顔で屈みこんでいた、柘榴帝の姿が思い出される。あれがもし自分だったなら――そんなことを、これまで考えてみたこともない。

 抱けと言われれば、できるだろう。酒楽が望むなら、なんでも差し出す用意がある。それくらいの情はすでに持っていた。ただそれは、奪いたいとか無理にとか、そういう類ではない。恋情ではないと、伍仁には断言できた。恋はときに相手を破壊したいという凶暴な欲になるが、酒楽に対してそんなことを思ったことがない。むしろ酒楽が壊れれば、自分も死ぬ。

 ただ甘やかし、幸せであってほしいのだ。

 彼が傷つけばそれ以上に苦しいし、酒楽が死ねば自分の命も終わりだった。いつからこれほど傾倒するようになってしまったのだろう。会ってからたった十年、その刹那の月日のうちに。


(はじめて会ったとき、けして情を移すまいと考えていたのに)


 いよいよ付喪神としての人生も終わりに近いのかもしれない。撫葉が死んだとき、あれだけの苦しみを味わったのだ。酒楽が消えれば、今度こそ耐えられない。



 宮へ戻れなくなった伍仁は、暗くなりはじめた女宮の中をうろついていた。歩きながら、ぐるぐる考える。

 問題は根深いところにあった。酒楽が真に柘榴帝を選んだのなら、どうすることもできないのだ。柘榴帝を殺せばまた元通りになるかもしれないが、酒楽が悲しむのだけは避けねばならない。もし、酒楽が帝を好きになったら――それは伍仁が、無価値になったことを意味しているのではないか。酒楽が他の人間を好きになればなるほど、伍仁は自らの存在を無意味に思う。

 だから結局、嫉心なのだろう。けれど、どうしようもないではないか。ずっとそばにいられると考えていた、自らの想像不足だ。いや、そばにはいられるだろうが、後宮にとどまり、酒楽が帝に愛されるのをただ眺めていることなどできない。


(どうすればいい。どうすれば――)


 こうなってもまだ酒楽のそばにいることを考えている。

 彼に見捨てられるかもしれない。そんなこと、今まで考えたこともなかった。いっそ自分から離れられぬよう、恋でも肉欲でもなんでもいい、縛りつけておくべきだったのか。けれど、酒楽の意志を無視することはできない。それに今さら遅すぎる。捨てられる。必要とされなくなると考えてはぞっとし、夕暮れの後宮をひたすらさまよい歩く。

 胴体に大穴が開いた気分だった。絶望に歪む道すがら、風にのり「酒楽が」という声が聞こえてきた。誰かが噂話をしている。角を曲がったところで黒官がふたり、小声で話しあっていた。


「いよいよ、廿野酒楽も」

「ああ、美蛾娘さまが大喜びされていた。もう終わりだ」


 いったい何の話をしているのだろう。吸い寄せられるように近づいて行くと、黒官たちは怪談でも聞いたように身を震わせている。


「どんな拷問になるのか。哀れな」

「でも、なぜ急に? お気に入りの一人だったろう」

「美蛾娘さまが気に入っていたのは、廿野酒楽の完璧さだ。弱みが見つかった以上、あとは壊して捨てるだけさ」

「なんとも気の滅入る……だが、弱みとは?」

「知るか。さて、準備をしなければ」


 廿野酒楽は近く処刑される、そうふたりの黒官は怖々話し合っていた。

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