第25話


 祝水の宴は毎年この時期、女宮で行われる。酒楽は後宮に長くいるが、そういった行事ごとを嫌い、これまで参加を拒んできた。すでに崩御した先帝は酒楽に甘く、行事の不参加を許してきたのだ。


(けれど代替わりして柘榴帝となった今、そういうわけにもいかない)


 まあそれも今日で最後、後宮を去る自分たちにはもう関係のないことだ。宴席に着くと、すでに招かれた妃嬪ひびんの半数以上が座っていた。先帝の寵妃たち――第三皇子の生母・紅血こうけつ貴妃、第五皇子の愛恋うれん、そのほか名高い書聖や棋聖、論客、皇女たちがすでに集い、華やかな装いで談笑している。周囲の視線が時おり露骨に酒楽へ向くのが、伍仁は気になった。


「気にするな」

 鉄扇を開いた酒楽がぼそりと、自分にだけ聞こえるように囁く。

「私は日ごろ宴に出ないから、珍しいのだ。それに波路はじのこともある」

「それは、内密に処理されたはずでは?」


 酒楽の叔父、拾野波路が先帝を殺したことは、柘榴帝が根回しし秘匿されているはずだった。心得たように少年は扇の影で笑っている。


「後宮での隠し事は広まりやすい。とくに天帝に関することは」

「なるほど」


 頷きながら、伍仁は周囲の視線を観察した。好奇や憧憬の気配だけではない、恐れるような目があるのはそのためか。酒楽の叔父が先帝を殺したと噂になり、みな関わりあいになるのを怖がっているのだ。

(それならそれで好都合)

 宴のあとで下手に声をかけられでもしたら面倒だ。そう安堵したのも束の間、風に乗り厄介な香りが近づいてきた。柘榴帝の薫香くんこうだ。察するや、酒楽の背後に回りその鼻と口を袖で覆い隠した。酒楽は迷惑そうに身じろいだが、結局は抵抗をやめた。無駄だと思ったのだろう。

(酒楽さまを薫香の餌食にはしない)

 天帝の薫香は、人々の理性を溶かし、快楽を引き出す魔性の香りだった。高位の妃嬪のほとんどは薫香を純粋に楽しむが、なかにはこっそりと扇に薫香避けを仕込んでくる者もいる。そうでもしなければ、ただびとが薫香の魅了に抗うのは難しい。妃嬪たちが遠くから一斉に立ち上がり、現れた柘榴帝に礼をする。


「みな、よく来てくれた。楽にしてほしい」


 そう言った帝の顔は、なぜか強張り不機嫌そうだった。後ろにぴったりと、きらびやかな美蛾娘びがじょうがついてきているのを見て、伍仁は納得する。道々つきまとわれ、辟易したに違いない。

 近くまで歩いてきた柘榴帝はむすりと立礼する酒楽と、その背後からのしかかるように薫香を防ぐ伍仁に気づき、ひくりと顔を引きつらせた。一瞬、帝が吹き出しそうになったのを酒楽も見て、ますます不機嫌そうな顔になる。柘榴帝の後ろを歩く美蛾娘は一瞥をくれたが、何も言わずに通りすぎていった。今は酒楽より、帝の機嫌をとるほうが先だと考えたのだろう。

 帝が着席すると、すぐに宴が始まった。広々とした庭園の池をはさみ、対岸に楽人がくじんたちがすでに待機していた。緋毛氈ひもうせんの上で前へ出た黒衣の美少女が、ひとり朗々と歌い始める。

 

 〽御月みつきにはらはらと催花雨さいかう

  君のみぞ待ち 幾寝こし

  春雨百穀しゅうひゃっこく さちのみをたのみ 

  ひとり見やらで緋桃雨ひももさめ


 聞くともなしに聞いていると、美少女は前触れもなく黒衣を脱ぎ捨てた。うす布のみをまとう半裸に近い格好で音を転がし、詞を響かせ、庭の木々を指さす。七分咲きだった桜の花が満開になり、どこからともなく色鮮やかな蝶が現れた。まるで少女の歌と踊りに連動したように、庭園に春の気配が満ちていく。ずしりと色濃くなったうす紅の空間に、伍仁はひとり眉をひそめていた。


「これは……」


 ただ人(びと)の成せるわざではない。美少女の指ひとつ、歌のひと揺れで、圧迫感のある紅(くれない)の神気が届けられる。酒楽にしっかりとしがみつき、伍仁は気圧されまいと意識を集中させた。ぎゅうと絞められた酒楽は苦しげに身をよじったが、彼ですらも音に意識を縛られ、ぼうとしている。


(やはりあれは名のある神か)


 歌っている美少女の背後に、うすべにの巨大な威神の影が揺らめいて見える。この場にいる者のほとんどが、その神気と美少女の歌に魅了されている。唯一変わりないのは柘榴帝と美蛾娘くらいだが、どちらもその美しさに感嘆し、眺め入っているようだった。伍仁は、自らを抑えつけてくるうす紅の神威に、無意識のうちに逆らっていた。微弱ながら伍仁も付喪神である。知らず抗ってしまったのだろう。空間のなかで、伍仁とうす紅の女神の神気がかち合う。巨大な相手の意識が、伍仁という異質な存在に気がついた。


 ――そこにいるのは誰ぞ。我が威に従わぬは。我が意に染め!


 くれないの風が怒涛のごとく押し寄せ、衝突する。


「ッ――!?」


 ぴしりと嫌な音がし、空間が割れた。

 目の前が暗くなる。巨大な神威に押し負け、逆らうこともできなかった。そのまま伍仁は吹き飛ばされてしまった。


(伍仁?)

 急に消えた温もりに、酒楽は背後を振り返った。そこに見慣れた付喪神の姿はない。すばやく辺りを見回すが、どこにも小うるさい伍仁の姿はない。

(どこに……?)

 無意識に翡翠飾りに触れ、ぎょっとする。そっと外してみる。丸玉の翡翠にうすくひびが入っていた。割れてはいないが、斜めに入る稲妻型の瑕疵きず。伍仁の姿はどこにもなかった。忽然と一瞬で、目の前から消えてしまったのだ。

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