有限と無限

第24話

 指の先から頭のてっぺんまで浮足立つような春の日だった。早朝の空気は温もりに包まれやわらかく、鳥のさえずりで天気が申し分ないことがわかる。


「酒楽さま、首をまっすぐに。寝ないでください」

「ん……」


 鏡台の前で半分寝かけている少年の髪を梳き、今日これから起こることを伍仁は考えていた。祝水しゅうすいうたげの日である。後宮の者は準備に忙しく、黒官たちもこの日ばかりは宴に駆り出され、警備が弱まる。そう酒楽は言っていた。


うたげの最中に抜け出せれば御の字だが、そうでなくともその後は各宮で祝会となるからな。私が遠出しても怪しまれない、その隙に――』


 逃走経路は、黒官の魔醜座ましゅうざが酒楽に貸与した後宮の地図で、有望な箇所がいくつも見つかった。普段はその近辺に警備がいるのだが、お祭り騒ぎの今日はみな気が緩み、警備も手薄になっているはずだと酒楽はいう。

(上手くいくだろうか)

 計画に問題はない。これまで彼が「うまいくいく」と言ったことは全部(最終的には)成功している。そう頭では理解しても、一抹の不安をぬぐえない。

 天気がよすぎるせいかもしれない。先日までの冷たい長雨は止み、土の匂いが心地よい。晴れやかなその気候が、逆に嵐の前の静けさに思えるのだ。酒楽の髪を動きやすい形に結ってやり、そういえばと思い出した。幼い酒楽が廿野つづみのの家で誰かに暴行を受けたことがあった。


(あのときもたしか春だった。今日みたいに、誰もが浮足立つ穏やかな日に)


 ぎゅっと巻き絞めた髪が痛かったのだろう。酒楽はびくりと目をさました。鏡越しに睨んでくる。


「痛いぞ――どうした?」

「いえ。いい加減に目を醒ましていただかないと」

「なら、そう言えばいいだろう」

「言っても起きないでしょう。酒楽さま、お耳を」


 不機嫌な少年の片耳に、桐箱から耳飾りを出しつけてやる。伍仁の本体である翡翠の大玉飾り。人の親指ほどもある丸玉には龍が彫られ、紫の房飾りが豪奢に揺れている。酒楽はいつも伍仁の本体を身につけ、大切に扱ってくれる。眠るときや風呂に入るとき、そのほか耳飾りが痛みそうな場合には、丁重に桐箱の中へしまわれるが、それ以外は肌身離さずその耳にある。彼が翡翠の大玉に触れる丁寧な手つきを思い出すと、面映ゆい気持ちになる。

 大切にされている。まず間違いなく。

 翡翠飾りを扱う少年の手が慎重であればあるほど、伍仁は自らが必要とされていることを実感してきた。


(酒楽さまにとり私は大切な存在なのだ。もしかすると、他の人間の誰よりも)


 その悦ばしい考えは、けれど同時に多大な不安ももたらしている。先日、酒楽の叔父である拾野波路じゅうのはじと、酒楽が話していたときのことだ。波路は小刀で酒楽の利き手を斬りつけた。その狙いが翡翠飾りで、酒楽がそれを庇ったのだということは、そばにいた伍仁にもすぐわかった。付喪神の伍仁は、本体の翡翠飾りが傷つけば消滅してしまう――それを知る酒楽は、一も二もなく利き手を鋭い刃の前に差し出した。幸い怪我は浅かったが、目の前でそれを見てぞっとした。酒楽のなかで伍仁の存在が大きければ大きいほど、それは致命的な弱点となりうる。

(私の存在が酒楽さまの弱みとなり、足を引っ張りかねない。それだけは避けなければ)


「どうした、不安か?」

「いえ、まあ。不安がないと言えば嘘になりますが」


 酒楽は口の端で笑っている。


「案ずるな。ここから出て行くだけなら簡単なことだ。お前もいるのだから」


 余裕綽綽の酒楽に羽織を着せかけ、伍仁はその耳で揺れる翡翠飾りを見つめた。大玉に龍の彫りが施された耳飾り。今日の酒楽は、黒地に金桜が散る豪奢な羽織を身につけている。伍仁が選んだ最上の着物は、片耳の翡翠飾りともよく合っていた。これなら、宴の席でも見劣りしないだろう。むしろ憧憬の視線を多く集めるはずだ。


「大丈夫だ。逃げ道は私の頭の中にある」


 万事任せおけと豪語する酒楽に、頷くことしかできない。幼い日より成長したといっても、自分から見れば彼は子どもだ。

(過保護と言われても構わない。けれど私は――)

 春の陽はどこまでも手ぬるく不安をあおる。知らず自分たちが破滅に近づいている気がして、伍仁はこっそり身を震わせた。

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