第23話
黒衣の商人は、「いやはや」と清酒をあおり苦笑している。
「急に話しかけ、申し訳ない。実は昨日も、ここで酒を呑んでおったのだが。貴君は先日、
「はあ。
「痛み止め。ふうむなるほど、他に求められた材料はございますかな?」
なぜ、そのようなことを教えねばならないのか。不審が顔に出たのだろう。黒衣の商人は「いやはや」と、えびす顔を笑ませている。
「私には漢方・草木薬の心得がございます。その作らんとする薬の種類がわかれば、調合に必要な材料をここから、――私の商売道具からですが、お分けできるやもと思いましてな」
そう言った商人は、重たげな木箱を荷から取り出した。なるほど、自分相手に商売をしようという心算らしい。
「残念ながら、さほど手持ちがなくて」
「物によっては無料でさしあげてもよいですよ。余っている材料もありましてな」
やけに食い下がられ、面倒くさい。しかたなく酒楽に頼まれたものを告げ、適当にあしらい帰ることにした。
「これまでに頼まれたのは、
「ふうむ。ときに貴君の
「は?」
「いやはや、実に漢方・草木学に通じておられる。さぞ高名で徳のある御仁でしょうなあ」
「高名もなにも、まだ五歳ですよ。才気あるゆえに何を考えておられるのやら」
酒楽のことを思い出すと自然、ため息が出てしまう。彼に頼られない己の無力を嘆く心と、酒楽に危害を加えた者への燃え滾る怒りが、伍仁の内には並列してある。どちらかへ偏らず、混じり合わぬ感情が常に存在している。ひとたび産まれた感情の芽は、問題が解決するまで永遠と残り続ける。人ならば時の経過とともに薄れゆくものだが、付喪神たる伍仁には、今日あったことのようにいつまでも新鮮な感情だった。
(酒楽さまを害した者を許さない。殺してやる。……けれど私ではお役にたてない。私は信用に足らないのだろうか)
暗くなった空気に何を思ったか、商人はひと言、
「美しい」
「はあ?」
「いや、面目ない。私は二面性をもつ物事が大好きでしてな。美と醜、残虐さと慈悲深い仏心、愛心と無関心。たとえばこれら漢方にしてもそうでしょう。扱い方しだいでは毒にも薬にもなる。善悪を越え、混沌のなかで入れ替わる優劣のなんと鮮やかで
「さ、さあ」
「貴君の主は『痛み止め』を作られるそうですな。材料から鑑みるに、さぞや強力な『痛み止め』になるでしょう。しかしそれでよいのか。痛みとは、生ある者の特権です。感覚を麻痺させればさせるほど、それは人の身から生を奪ってしまうことになりませんかな? それが漢方の美しい点でもあるわけですが、安易に薬に頼るのは、あまりおすすめできかねますなあ」
「さあ。私には、わかりかねます」
伍仁は逃げの体勢に入っている。もうなんでもいいから帰ろうと踵をかえしたとき「ああ、お待ちを」と、遠くから呼びかけられた。えびす顔の奥でねっとりした黒目が笑んでいる。
「ときに貴君、この辺りで大玉の翡翠飾りを見られたことは? 探し物をしているのですが、骨董屋にもないと言われたものでして――」
伍仁は振り返らず逃げだした。全速力である。
(変な奴に出くわしてしまった)
とくに「翡翠飾りを」と告げられたことが気持ち悪い。まるで己の存在を見透かされているようだった。息をきらし戻ると、草木をすり鉢でつぶしていた酒楽が怪訝な顔をする。
「どうした?」
「い、いえ。そうだ」
宝物庫の隅から、自分の本体である翡翠飾りをとってきて、酒楽に箱ごと渡した。
「これ、目につく場所へ保管しておいてくれませんか?」
「かまわないが、なぜ」
「片時も離さずおそばに置いておいてほしいのです。私にとって一番大切なものですから」
「ふうん」
手を止めた酒楽は、耳飾りをその用途通り耳につけようとしてやめた。飾りへ器用に糸を通すと、自身の首にかける。
「これでいいだろう。めにつくばしょにある。傷つけないように、ちゅういしよう」
「感謝します」
ほっと息をついたところでふと、部屋の隅に画の具と筆が放り出されたままなのを見つけた。出かけている間にもそれらが触れられた様子はない。もう酒楽は画を描かないのかもしれない。そう思えば、なぜかひどく残念だった。
春の雨はそれからしばらく続き、酒楽はそのたびに頭が痛いと言っては寝こんだ。響く雨音と、埃をかぶっていく筆と画の具、描きかけの画。いくら「画を描いてみては」と勧めても、酒楽は筆をとらなかった。ただ降りしきる雨を倦み、画筆を眺める目には怯えがあった。すこしずつ命を細らせていく幼子を見るのは、伍仁にとっても地獄だった。酒楽が今でも雨音を嫌うように、伍仁もあのとき以来、雨の日がすこしおそろしい――。
жжжж
うす明かりに目が覚める。伍仁が真っ先に目にしたのは、机に広げた白紙に画を描く少年の姿だった。
十五歳の酒楽だ。
うぐいす色の着物を袖まくりし、画を描くのに夢中になっている。
気づかず頬をこすったのだろう。黄や赤の絵の具が愛らしい顔に筋をつくっている。画に向かう目は真剣で、精悍な顔つきだった。
一瞬、自分のいる場所がどこだかわからなくなる。
明け方に近い時間のようだ。部屋に明かりは手燭だけで、あたりはうす暗い。どうやら酒楽を看病していて、眠りこけてしまったらしい。椅子に座っていた身を起こすと、いつの間にかかけられていた上掛けが落ちる。
ここは後宮。画聖・酒楽に与えられた宮の中だ。
(そうだ、酒楽さまはもうあの宝物庫を出られた――)
うす暗い牢のなかへ、頼まれた漢方の材料を運んでいたのが、つい先日のことのように感じられる。「痛み止めをつくる」と酒楽が言っていたあの日からすぐ、酒楽の後宮入りが決まったのだ。廿野家の牢を出て、拾野波路とともに、城下の別邸へ移動し、三年近くもの間、次の後宮入りの日取りがくるまで研鑽を積んだ。懐かしくも鮮やかな日々。
あれから少しずつ、酒楽は生気を取り戻していった。画筆をまた取るようになったのだ。きっかけが何だったのかはわからない。ただ宝物庫を出るとき、酒楽が決然とした顔だったのは憶えている。伍仁を見て「大丈夫だ」と、力強く頷いてみせたあのときの、幼い必死の表情。
「なんだ、起きたのか?」
画を描いていた酒楽の頬は上気していた。額を拭う少年の爛々とした目をよけ、遠くの雨音に耳をすませた。
「雨が――」
「ああ、まだ止まないな。うるさすぎて寝るに寝れん」
「画を描いていたのですか?」
「暇だからな」
起き上がり机を覗きこむと、大判の上質紙には見事な桜の木が描かれていた。傘のように開くしだれ桜で、雨上がりの青空のもと、盛りの花を零しかけている。それが、廿野家の宝物庫の横にあった桜だと、すぐに気がついた。
(酒楽さまは大きくなられた。雨の日でも画筆をもてるくらいに)
牢のなかでただ縮こまり、怯えていた幼子が今の姿に重なり見える。なぜ彼が後宮へ来ようと思ったか、その真相は聞き出せずじまいだ。けれどそれが、今とても大切なことのように思えた。何度聞いても決定的な答えはもらえず、はぐらかされてしまうのだが。
(あの日、誰に害を加えられたのかを聞くのと同じだ)
酒楽は答えたくないことには答えない。だから必要以上に問いを重ねても無駄だろう。けれど、知りたいという欲求は常にある。酒楽のことなら何でも知りたいし、把握しておかねばならない。それが彼を守ることに繋がるからだ。頬についた画の具を布で拭ってやりながら、雨音を遮るように告げた。
「酒楽さま、ここを出ましょう」
「? なんだ、急に」
「急ではありません。ここにいることが貴方のためになると、ずっとそう思ってきました。だから留まるようにと告げてきたのです」
けれど、この場所もすでに酒楽には相応しくなくなったのかもしれない。最近の彼を見ればとみにそう思う。
幼子の成長は早い。雨音に怯えていた酒楽に、廿野家の宝物庫は相応しい場所ではなかった。そこから出た酒楽が大きく成長し、伸び伸びと画を描けるようになったように。この後宮をもう出て行くべき時なのだろう。外の世界にこそ、彼の見るべきものがある。この場所は、以前の酒楽には真新しいものばかりで適していたが、今となっては狭くなりすぎた。逆に負の気配に縛られている気がしてならない。廿野家の牢にいた時と同じく、否、もっとたちの悪い透明な形で、日々酒楽の生気が失われていくような気がする。
「坊ちゃま、本当に大きくなられました」
「年寄りくさいな。坊ちゃま止めろ」
茶化そうとした酒楽は、笑いを引っこめた。すこしは真剣さが伝わったのだろうか。
「貴方なら、外へ出る方法は簡単に思いつくことでしょう。何も恐れることはありません。私とともに行きましょう」
「でも、……」
「ここを出て、世界を見ましょう。山河を描き、自由に世界を旅するのです。各地の美味を食し、気に入った土地があればそこへ住みましょう。おわかりでしょう。廿野の牢の中へ戻るのではない。貴方はより広大な場所で生きるべき人です」
酒楽は口を閉じ、澄んだ瞳でじっと見つめてきた。真意を見透かそうとする少年のまなざしに、力強く頷いてやる。
「大丈夫です。誰にも見られなければいいのです。廿野家の宝物庫からだって、簡単に出られたでしょう?」
酒楽はひくりと笑いかけた。何かを思い出したようで、その口がへの字になる。深々ため息をついた後、面倒そうに頭をかいている。
「気楽なやつ。お前はなんにも知らないから」
「なんですか。わかりませんよそりゃ、教えてくださらないと」
「知らん。自分で考えろ」
「言うだけ言ってそれはずるいでしょう。何なんですか」
しつこくまとわりつくと、酒楽は一枚の紙を目の前に突き出してきた。地図だ。
「なんですこれ」
「後宮の地図だ。
「えっと」
「馬鹿だな、これは機密事項だぞ。この地図には誰も知らないような抜け穴や地下通路が書かれてある」
その意を汲み取ると、酒楽は口の端で笑っている。
「お前の言う通りかもしれん。考えてみれば、ここに留まることは無意味なのかもしれない。いつだって、お前の言う通りだった」
お前の言うことは正しいと。そう晴れやかに笑う少年の頬を、窓から差しこむ朝陽が照らしている。雨音は止んでいた――湿り気を帯びた雲は消え、窓からの光に生気が満ちている。
「祝水の宴の日、ここを出よう」
自信満々に笑う酒楽は、夢で見ていた幼子とは似ても似つかない。小憎らしくて聡明にすぎ、時々おそろしいほどに抜けている。五年、十年と積み重ねてきた年月が、しゃんと伸びた背や、得意げな顔を形成したのだ。苦しみも悲しみも、傷や痛みも乗り越えてきた。消えることなく、伍仁の記憶のなかにはまだ、そのすべてがある。そっと酒楽の頭を撫でてやった。
「大きくなりましたねぇ、本当に」
「馬鹿にしてるのか、やめろ!」
そのそばにあれることが、今は何より誇らしかった。
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