第22話
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「酒楽さま」
傷だらけの幼子は眠ってしまい返事がない。伍仁はその身を布団へ寝かせ、傷をたしかめて、頭が焦げつくような怒りをおぼえる。
いったい誰がこんなことを。
すこし目を離したうちに、酒楽は気絶するほど殴られている。
うす暗い部屋に倒れた幼子を見て、驚きで放り出した菓子が部屋の隅にまだ転がっていた。冷たい部屋で眠るその姿に、過去に仕えた撫葉のことを思い出した。人は死ぬ間際にくったりと動かなくなる。目を閉じた人間の身から力が抜け、徐々に冷たくなっていくのだ。眠る酒楽の体温をたしかめ、彼を揺り起こしたい衝動にかられる。このまま起きないのではないかと疑ってしまう。撫葉のように。これほど小さく幼い身体なのだ、きっと簡単にだめになってしまうだろう。情を移すまいとしていたのに、いつの間にかまったく反対の考えを持つようになっている。
(私が守ってやらないと)
こんなに脆く幼い命はきっと簡単に消え去ってしまう。
牢の鍵が開く音がした。振り返ると、乳母が薬と包帯を手に入ってくる。
(ッ! お前が――)
お前が酒楽をこんな風にしたのか。
お前が。お前がお前が。
ゆるさない酒楽をこんな風にお前が。
沸騰した怒りで伸ばしかけた手を、けれど乳母に届く寸前で止めていた。老婆はさめざめ泣いていた。痛ましそうに酒楽を見て、震える手で傷の具合をたしかめ、手当てをしている。その小さな背を見て、彼女ではないのだとわかった。酒楽をこんな風にしたのは乳母ではない。では誰の仕業か。
(やはり殺しておくべきか)
目を眇め、乳母の様子を観察する。害を加えたのは老婆でなくとも、彼女がいるせいで酒楽がここから出られないというのなら、いっそ始末してしまったほうがいいかもしれない。そうすれば、なんの気兼ねもなく酒楽は自由に出て行ける。いっそこの屋敷にいる者全員を殺してしまおうか。そうすれば酒楽とふたり、どこへなりとも向かえるのではないか。拾野波路は「うちに来ればいい」と言っていた。そのほうが今後のためにもなるのではないか。
「うにん……」
手当てを終え、乳母が出て行く物音で目覚めたのだろう。意識が戻った酒楽に呼ばれ、考えは中断する。
「っ、酒楽さま! 大丈夫ですか、痛みますか?!」
眉を寄せた幼子の顔は腫れている。青黒く変色した目元や、血の滲む口を見るにつけ、いっそう怒りが増した。その内心を知ってから知らずか、酒楽は見えづらそうに目を瞬かせ、小さな声で言う。
「たのみが、……」
「何でも言ってください。誰を殺せばいいのです?」
「ころす?」
何がおかしかったのだろう。酒楽はふと視線を和らげる。腫れた顔でわかりづらいが、笑っている。
「もってきて、もらいたい物がある」
酒楽は
「からだが、痛むんだ。痛みどめをつくるから」
「わかりました。他には、菓子などはいかがです。何か要りませんか?」
「なにも」
そう告げた酒楽があまりにも無表情で、不安になった。
「要り用の物はすぐに取ってきます。……けれどその前に、教えてくれませんか」
誰が暴力をふるったか。この屋敷の使用人か家族か、それとも親戚か。まったく関係ない人間なのか。ふつふつと滾る怒りを察したのだろう。酒楽は答えず目をふせた。
「すこし、ねる」
「酒楽さま」
「はやく、もどってきてくれ。ひとりは……」
言い切る前に寝落ちてしまった酒楽に、内心の怒りをもてあました。彼がひと言、願いを告げてくれさえすれば、自分は誰でも殺める。この牢からも連れ出してやれるのに。
(今は疲れているのだ。体力が回復してから、もう一度問うてみるしかない)
こうなった原因を作ったのが誰か。それが明確に分かれば、酒楽の静止など聞く耳をもたない。その者を殺し、彼をここから連れ出すだけだ。
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酒楽の傷は中々癒えず、伍仁はしばらくそばでやきもきしていた。最近は食欲も増え生気に溢れていたのに、今の様子は出会ったころのように頼りない。青白い顔は人形めいていて、表情は動かなくなってしまった。瞳は茫洋として、菓子もろくに食さなくない。時々頼まれる「お使い」をこなしながら、伍仁はできるだけそのそばについているようにした。すこし目を離した隙に消え去ってしまう。そんな気がしてならない。
「酒楽さま、久しぶりに画でも描かれてみては?」
日がなぼんやりとしている酒楽にそう提案したのは、すこしでも生気を引き出したかったからだ。酒楽がなにより画を描くことを楽しんでいたことを思い出したのだ。
(誰に暴力をふるわれたか聞いても答えてくれないし、らちが明かない。なんとかしないと)
身に傷を得てから、幼子の心は凍りついてしまった。頑なに何かを拒み、己を守ろうと縮こまっているのを、以前のように伸び伸びとさせてやりたかった。画でも描けば気も晴れるのでは――そう思ったひと言に、酒楽は過剰に反応した。ぎくりと身をすくませて、怯えた顔をする。
「画は、かかない」
「なぜです?」
「いやなんだ。もう飽いた」
「酒楽さま、私は――」
「それより
「ベニインゲン? でも」
「はやくいけ」
酒楽は布団にくるまり、それ以上の会話を拒んでしまう。なんともいえない澱を抱えながら、しかたなく街へ頼まれたものを探しに走った。
(何を隠しておられるのだろう)
自分はそんなに信用に足らないだろうか。さもありなん、己は耳飾りの付喪神だ。人ですらない。考えてみれば、これまで酒楽が自分という存在を自然に受け入れていたほうがおかしかったのだ。
(いくら人に似るとはいえ、人ではない。だから嫌われてしまったのか)
街中で薬屋台の前に立ち、頼まれた赤い蔦の実をひと房手に取る。ため息がこぼれていた。薬になる材料ばかり集めさせられている。なにか甘味でも持って帰ったほうがいいのかもしれない。今の酒楽には、体より精神の傷を癒すほうが急務に思える。
(どうすればお役にたてるのか。私は――)
「ほう、今日は
振り返ると、茶屋の出店に恰幅のよい男が座り、じっと見つめていた。座る椅子の上に大荷物があるから、商人かもしれない。やけに上質な黒衣を着て昼間から清酒をのみ、にこにこしている。一瞬あたりを見回し、間違いなく自分が話しかけられていると気づき、困惑した。まさか「自分が見えるのか」と聞くわけにもいかない。
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