第21話

 ――雨音が聞こえてくる。

 宝物庫はいつの間にか暗くなり、しとしと雨の気配がしみこんでくる。砂袋のようになった自分の体が、湿気で生気を抜かれていくようだった。


「ごめんなさい酒楽、母さまを許してちょうだい。こんなことしたくなかったのよごめんなさい、痛かったでしょうかわいそうに」


 母親の怒りの嵐は収まっていた。投げ出された酒楽の身を抱き寄せ、彼女は泣き崩れる。動くこともできない酒楽の眼前には、ざんばらの黒髪だけがあった。抱きしめられるたびに殴られた箇所が痛んだが、されるがままになっていた。


「ごめんなさい、でもお前が悪いのよお前が画なんて描くから描いちゃだめってあれほど言ったのに、わかるでしょう殴る私の手も痛いのよお前が悪いから母さまも傷ついているの悪いお前をしつけなくちゃならない母さまもつらいのよ、聞いているの酒楽」

「……はい」

「お前が悪いのよ私の言うことを聞かないから本当に悪い子、なにもかもお前が悪いのよそうでなければお父様が経典作りになんて向かわれるはずがなかったお前のせいなのよお前の画のせいなの、だから描いてはいけないと言ったでしょう、それなのに言いつけを破ってお前が悪いのよ、聞いているの酒楽」

「……はい」

「どうしてお前なんかが産まれてきたのかしら私の子ならもっと良い子のはずなのに、なぜお前のような子が産まれてきてしまったのかしら、お前はまだ私を苦しめ続けるのすこしは生きていることを申し訳ないと感じてくれないかしら、お前が生きるのを許している私につくしてくれないかしら、聞いているの酒楽」

「……はい」


 なぜ、自分は生きているのだろう。

 すすり泣くような恨み言を聞きながら、思い出したのは伍仁のことだった。

 はじめてこの場所で付喪神を見つけたとき。孤独と退屈に疲弊し生きることを諦め、首を吊ろうとした目の前に、突如救いの手が伸ばされたのだ。曾祖父の手記で読んだことのある付喪神だった。その本体となる翡翠飾りは宝物庫にしまわれていたから、きっと彼がそうだろうと思った。そうであればいいと思った。

 助けてほしい。そう思いをこめ縋りつこうとしたのに、付喪神は無情にもその手を振り払った。もうどうしようもないのだと、助けてほしいとそう何度も縋りついた末に、情に篤い付喪神は自分の元へ来てくれた。幼子のわがままにどうしたものかと呆れ顔で、けれど酒楽は救われたのだ。

(ぜんぶそうだった……)

 美味しいものも、面白いものも。珍しい話や、小うるさい注意にしたって。どんな些細な伍仁との出来事にも、自分の存在価値があった。付喪神は自分を見てくれたのだ。ひとりの人間として、彼との対話のなかに生存価値を見出せた。画を描くのとはまったく異なる、生きる意味だ。

 赦されている。

 思考も感情の機微も強制されない。普通に会話ができること。

(お前がいてくれたから、今日まで生きてこられた……)


「お前なんか死ねばいいのに」


 去り際に母親から投げつけられる言葉はいつも同じだった。鉄格子の牢が重く閉じ、うす暗い闇と雨音だけが脳に満ちていく。木の床が冷たかった。

 さむい。

 目を閉じた。

 ひとりだ。

 ひとりきり、暗闇にいる。


「酒楽さま」


 目を開くと、視界がうすらぼんやりと滲んでいる。よく見えない。瞼が殴られ、腫れているのだ。緑色の衣が見えた気がして、ほっと力がゆるんだ。手を伸ばす前に抱き起こされている。暖かい。


「酒楽さま」


 伍仁の声だ。

 暖かな温もりに目を閉じる。

 付喪神がいる。戻ってきてくれたのか。

(もう、大丈夫)

 伍仁がそばにいてくれる間は、きっと自分は生きていられる――。

 

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