第18話

 それから数日雨は続き、酒楽はずっと布団にくるまり過ごしていた。頭が痛いというのでさすってやるが、いっこうに楽になる気配がない。薬をもってこようかと悩んでいたら、酒楽は不要だと言う。


「やまいじゃない。ただ、雨音がうるさくて」


 宝物庫の中に響く水音はかすかだ。外は穏やかな春雨で、笹の葉ずれに似た優しい音が聞こえるばかり。静けさのなかに響くほんの少しの水音を、酒楽は全身で拒んでいる。布団のなかで丸くなり、ぼそぼそと言う。


「外にでられないのに、どうして外の音を聞かねばならない。うるさい、……うるさい、……もう、聞きたくないのに」


 雨音は外を感じさせる。うす暗い蔵の中にいても、否応なく音は入りこんでくるものだ。牢にいる酒楽が、天から落ちるその水滴を浴びることはない。曇り空を眺め水たまりを駆けまわり、雨上がりの情景を見ることもない。丸まり布団の中で身を抱える幼子は、手に入らぬ外界のすべてを拒んでいるようだった。

(これはよくない)

 布団の塊と化した幼子に、だからはっきりと告げてやった。


「外へ出ましょう。誰にも見られなければいいのです」


 けれど酒楽は頑なだった。けして牢から出ず、外の世界を拒み続けている。雨が止んでからもその顔は青白く、幼子の生気は少しずつ冷たい牢の中で失われていくようだった。

(このままではいけない。やり方を変えなければ)

 ある日、酒楽の目を盗んでこっそり外へ出た。町から焼きたての菓子を大量にもってきて、それを酒楽の前に広げてみせる。


「なんだこれは?」


 差し出された包みに幼子は目を丸くしていた。


「よもぎ饅頭、餡のつまった蒸し饅頭、干菓子に塗りせんべい、みたらし、酒蒸し饅頭、他にも色々です。街に美味しそうなものがたくさんあったので。お好きな物をどれでもどうぞ」

「買ってきたのか?」

「ええ、まあ」


 嘘である。自分の姿が人目につかないのをいいことに、すこしずつ屋台から失敬してきたものだ。酒楽は胡散臭そうな視線をよこしたが、好奇心と甘い匂いには負けたようだ。ひとつ、ふたつと菓子に手が伸び、止まらない。甘味が好きらしい。塩辛い菓子よりも、蒸し饅頭やあん饅に頬をゆるめている。


「お気に召しましたか?」

「ん、……これはなんという菓子だ?」

月餅げっぺいです。街で流行っているようで、いろんな種類が売られてましたよ」


 本来は中秋節ちゅうしゅうせつの頃に多く出回る菓子だが、どうやら現天帝が秋に向け、新たな菓子開発を促しているらしい。屋台には時季外れの菓子がずらりと並べられていたのだ。

 月餅の種類は多く個性に富む。代表的な木の実を使うものから白餡、黒胡麻、椰子の実餡、紹興酒に栗の入ったもの、すみれの砂糖漬けを使ったものまである。酒楽は月餅が気に入ったようで、食べ終わった後も包み紙をいじましげに眺めていた。


「街にはもっとたくさん種類がありましたよ。いかがです、一緒に足を運んでみませんか?」


 幼子はつられたように顔を上げた。淀みに濁る目が一瞬きらめくが、すぐに伏せられてしまう。


「いい」

「でも」

「おまえの考えはわかる。むだだ、やめろ」


 もそもそと布団に潜りこむ酒楽は、誘惑に必死に耐えているようだった。いくら人より聡いとはいえ幼子だ。甘味につられた姿にはたしかな手ごたえがあった。根競べなら負けないと、それからもしばらく外へ出ては酒楽に甘味を与え続けた。はじめは頑なに渋っていた酒楽も、毎日繰り出される甘味攻撃には懐柔されていった。ついには、「木の実の月餅が一番好きだ」という言葉まで引き出せた。


「つくもがみ。おまえは伍仁月餅ばかり買ってくるな」


 ある日、目の前に並べられた木の実の月餅の小山を見て、酒楽がそう鋭く指摘する。甘味を食すこれまでの様子から、それが一番好きなのだと察し、伍仁月餅を多く運ぶようにしてきたのだ。その好みを看過され、酒楽は不満そうだった。月餅をむんずとつかみ取り、じと目で睨んでくる。


「お嫌いでしたか?」

「きらいではない」


 もぐもぐとひとつ目の伍仁月餅を咀嚼し終わり、酒楽はふたつめに手を伸ばそうとしている。以前に比べると表情は明るく、痩せ細っていた身もいくらかましになっている。日々の努力の成果だとこっそり喜び、内心ほくそ笑んだのがばれたか、酒楽はむくれてしまった。


「これで勝ったとおもうなよ」

「はい?」

「わたしはただ、……おまえがこんなに伍仁月餅ばかりもってくるから、しかたなく」

「はいはい」


 何を言われても幼子の負け惜しみにしか聞こえない。月餅をりすのように頬張る酒楽は、年相応に愛らしく微笑ましい。

(そういえば、撫葉さまも幼いころ、甘味がお好きであられた)

 微笑ましく見ていると、目をすがめた酒楽が満月に似た形の月餅をかざしてくる。月餅ごしに睨まれてしまう。


「伍仁」

「はあ。伍仁月餅がお気にめしたのですね」

「ちがう。おまえのなまえ、今日から伍仁だ」

「はあ? 私の名は――」


 言いかけ口をつぐむ。撫葉の手記を読んだ酒楽は、自分の名が「翡翠」だと知っている。あだ名をつけてくれたのだろうか。酒楽は口の端で笑っている。


「『翡翠』など、おまえにはぎょうぎょうしくて似合わん。おまえなぞこの『伍仁』でじゅうぶんだ。そういえば、どことなく似ている」

「どこがです」


 満月を模した菓子は丸い形だ。伍仁月餅ほど太っていると言われた気がして、自分の姿を見下ろしてしまう。酒楽はそっぽを向き月餅を食べている。


「伍仁、菓子がなくなったぞ」

「ちゃんと噛みましたか? それより私のどこが太っていると? 丸くなどないでしょう」

「しるか。いいからはやく菓子をもってこい」

「今日はもう駄目ですよ、甘い物ばかり食べて夕ご飯が入らなくなります」


 開き直った酒楽は、以前よりも積極的に菓子を食し、ねだるようになってきた。伍仁にとっては喜ばしいことだ。食べることは生きることだ。たとえそれが菓子であれ、それだけ酒楽の生きる活力を引き出せたことになる。

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