第17話

 拾野波路は、黒髪のうつくしい青年だった。

 濃紺と金糸の絢爛な羽織を着こなし、彼はさっそうと現れた。いかにも世慣れした風で、人生を謳歌しているものの余裕が見受けられる。見た目もよく、才もあり年若い。未来は明るいと疑いなく信じている、そんな微笑みを口の端に浮かべていた。座敷牢の前に現れるなり、彼は閉じこめられた酒楽を見て失笑する。


「いいざまだな、酒楽」

波路はじ。かわらず、しゅみの悪い着物だな」

「ふん」


 拾野波路は、ふところから酒楽の手紙を取り出すと、ひらひら振ってみせる。


「お前が助けてくれというから来てやったんだぞ。いいのか、そんな態度で」

「いいも何も、ほんとうのことだ。それにお前、けむり臭いぞ。たばこはやめろ」


 板間にちょこんと座る酒楽のつむじを見て、青年は口をひん曲げる。


「相変わらず気に食わん餓鬼だ。この前、死んでおけばよかったのに」


 やり取りを横で眺めていて、ぎょっとする。「この前」というのは、酒楽が屋根から落ちたという時のことだろう。生死に関わる大けがをし、ここに閉じこめられるきっかけとなった出来事だ。

(いくら不仲といっても、これは――)

 五歳の少年に向ける言葉ではない。拾野波路からの敵意はすさまじい。酒楽は、人選を間違えたのではないだろうか。


「まあいいさ。お前もこれで懲りたろう」


 ほらよ、と青年は鉄格子の鍵を針金で開けた。扉がゆっくりと開く。


「望み通り助けてやったぜ。どこへなりとも好きなところへ行きな」


 酒楽はぴくりとも動かなかった。


「そうじゃない。わたしがここから出て行っても、もんだいは解決しない。わかっているだろ」

「なんだ。鍵は開いたんだから、好きに出ればいいじゃねぇか」


 苛々と拾野波路は眉間にしわを寄せる。それまで嫌味なほどに余裕たっぷりだったのに、酒楽が落ちつき払い座っているのが腹立たしいようだった。酒楽はまるで正反対で、冷静に大きな黒目を瞬かせている。


「わたしはお前に、扉のかぎを開けてほしいわけじゃない。ただ外へ出るだけなら、いつだって出られるんだ」

「じゃあ出ろ」

「波路、母さまをせっとくしてくれ。わたしをここから出してくれるよう、はなしてみてくれないか」


 小さく貧乏ゆすりしていた青年の動きが、ぴたりと止まった。


「……お前、馬鹿か。それをこの俺様に頼もうってのか?」


 小首をかしげた酒楽は、言われた意味がわからないようだった。拾野波路は重々しく息をつく。


「はっきり言うぞ、断る。ああ、これはべつに嫌がらせじゃない。お前に対する心情とは無関係に、俺様には断る理由がありすぎるのさ。なぜ? いいさ教えてやる。まずこの俺様は忙しい。今日ここへ来るにしたって、家の用事をこっそりすっぽかし来てるんだ。お前は知らんだろうが、拾野の家は今、大わらわなのさ。当主の跡目争い、政界への進出、それに一族の後宮入りの話も――おっと、関係ない話だったな。とにかく、古臭い経典づくりに打ちこむお前ん家とは違って、うちは今後の発展のために大切な時機だ。そんな時に、廿野家の問題にまで首をつっこんでいられるか? とくにお前の母親は……美人だが、難物だと聞くぞ。俺が説得したって、二、三度話して聞くような相手じゃないだろう。冗談じゃない」


 青年の言葉は矢継ぎばやで止まらない。早口でまくしたてられる言い分を、酒楽は黙って聞いている。


「それにしたって、お前は間違ってるぜ、酒楽。こんなところに閉じこめられて、まだあの母親の許可を得ようってのか。出たければいつでも出ればいい。どうしてそんな狂った女の言いいなりになってる。ここから出て、たとえ誰が傷つき死ぬことになっても、お前はやりたいようにすればいいのさ。その権利がある。行くあてがないというなら、拾野の家は喜んでお前を迎え入れるだろう。お前にはそれだけの価値がある。むかつくことにな」


 酒楽はぴくりとも動かなかった。苛ついたように青年は言葉を重ねる。


「この家を捨てろよ、酒楽。廿野家はもうしまいだ、見てればわかる。狂ってやがる。ちっぽけなお前ひとりが、この牢から守れるものなんてないんだぜ。家に留まれば、背負う重みでいずれお前自身も潰されっちまう」


 ともに来いと、開いた扉の向こうで青年は酒楽に呼びかけた。辛辣な言葉を吐いてみせても、幼い酒楽のことをやはり案じているのだ。酒楽はけれど首を振った。


「もんだいが解決しないかぎり、わたしはここにとどまる。お前が提示してくれただけの自由をつかむ価値が、わたしにあるとはおもえない」

「――そうかい」


 すっと拾野波路の視線が冷たくなった。底冷えした怒りだ。


「酒楽、お前を見てると心底苛つく。絞め殺してやりたくなる」


 鉄牢を思い切り蹴りつけ、拾野波路は足音荒く去ってしまった。開け放たれたままの牢の扉を、酒楽は動かずにじっと見ていた。


「……よかったのですか?」


 青年の言う通り、ここから出て行くべきではなかろうか。幼い子供が、自分より年上の乳母や母親のことを気にかけてやる必要もない。


「つくもがみ。扉の鍵をしめておいてくれ」


 目をふせた酒楽は、布団の中へ潜りこんでしまった。彼が唯一頼りとしていた親戚との交渉はどうやら派手に決裂した。ここから出る道筋がまたひとつ消えてしまったことになる。

 すこしずつ下がってきた室温に、湿気が混じりはじめていた――雨が降り始めたらしい。春先のこの時期は、空気を濡らすやわらかな雨がしばらく続く。宝物庫の中まで響く水音を嫌がるよう、酒楽は布団をかぶり丸まってしまった。

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