第16話
酒楽と一緒に過ごすうち、分かってきたことがある。それはこの家の者たちが、彼を丁重に扱っているということだ。食事や衣類の替え、きれいな水など必要なものは日に三回、朝昼晩と時間を決めてきっちり運ばれてくる。けして粗末な暮らしではない。たとえば、食事は豪邸の主が食すような贅沢品で、赤漆の盆に盛られたものがいくつも運ばれてくる(好き嫌いの激しい酒楽はそのほとんどを残す)。朝晩差し入れられる着物はうす絹を重ねた上布で、その衣一枚で農民はしばらく生活に困らないだろう。洗い桶の水にはほんのりと香油が足されていて、つみたての花びらが浮いていることもある。大臣のような暮らしだが、酒楽は宝物庫の暮らしに満足していないようだ。当然だ、いくら待遇がよくともここにいる限り、牢の中の囚人と同じなのだから。
「なぜ外へ出ないのです?」
彼ほど聡ければいくらでも外へ出る機会はあっただろう。日に三度、食事を運んでくるのは寡黙な老婆ひとりで動きものろい。彼女が移動している間には牢の鍵は開きっぱなしになっている。なんなら力づくで逃げることもできるのだ。酒楽の答えは淡々としていた。
「あれはわたしの乳母だ」
夜、運ばれてきた
「彼女はわたしにつくしてくれている。よくしてくれているんだ。わたしがにげれば罰される」
「だからって、ずっとここにいるのですか? あの老婆がさほど貴方に尽くしているようには見えませんが」
このまま閉じこもる生活が、成長期真っ盛りの子どもに良いはずがない。真に酒楽のことを考え「つくしている」のなら、こんな生活を続けさせるはずがないのだ。
(それにあの老婆、ひと言もしゃべらない)
いつも俯きがちに必要な物を運んでくるだけで、挨拶のひとつも寄越さない。酒楽に話しかけられて頷くことはあるが、ただそれだけだ。自分が現れるまで酒楽はひとりだったのだ。話し相手になってやろうという情もないのかと、老婆に対してはあまり良い印象を抱かなかった。
「つくもがみ。わたしの乳母がきらいか?」
「嫌いというか。愛想もありませんし」
鶏肉の皿から慎重に野菜をとり除いていた酒楽は、顔も上げずに呟いた。
「乳母はしゃべれないんだ。のどをつぶされたから、ひとことも声をだせない」
「潰された……?」
「母さまに」
ため息をついた酒楽は食欲が失せたのか、箸を丁寧に盆へ戻した。鶏肉と野菜がきれいに分けられている。
「おととし、わたしは屋根の上からおちて大けがをした。本当にひどい怪我だったんだ。母さまはそれを乳母のせいにした」
酒楽がここへ入れられたのは、そのすぐ後のことらしい。屋根から落ちたのは乳母の監督責任、子どもを外へ自由に出したのがいけないと、母親はこの宝物庫に息子を軟禁した。乳母が泣いて謝り、どうか考え直してくれるようにと頼むと、母親はその喉をつぶし酒楽の世話係にした。
「乳母は、なんどもわたしを逃がそうとしてくれたよ。廿野家にしんせきは多いから、いくらでもひきとり手はあるだろうと。でもわたしがことわったんだ。ただでさえ、わたしのせいで声をなくしてしまったのに」
これ以上迷惑をかけられないと、たった五歳の子どもが言う。
「話はわかりました。が、貴方の母親の考えはおかしくはありませんか?」
子どもが外で怪我をしたから、我が子を宝物庫へ閉じこめる。さらに乳母の喉を罰としてつぶし、世話係につけることで、酒楽の逃げる気までそごうとしている。なんというか、異様だ。極端にぶれすぎた思考は狂人を思わせる。
「母さまはたしかに、すこしおかしい。わたしのことになると、はどめがきかなくなるみたいだ。それこそ、ここにある宝物のように。傷ひとつつけないようにしておきたいらしい」
「父親はどうなのです?」
「むだだ。あったこともない」
「亡くなったのですか?」
「ちがう。『
知らないと首を振ると、縷々と酒楽は教えてくれた。
『八十経典』とは、人がその生涯をかけて編み出す最高の芸術品だという。百八の経文を十二か月の間書き、それを何十年も続けてつくられる。急げば五十年ほどで済むものだが、それを記す間はひとりでいなければならない。修行にも近い行為なので、完成した経典には最高の値がつけられる。
「一種のしゅうきょうてき意味あいがあるから、父さまは部屋からでられない。わたしが産まれたときにはもう、経典のさくせいに入っておられた」
廿野家は、昔から芸術・工芸で稼いできた家系だった。撫葉が生きていたころは歌集の作成が主な事業だったが、今は画業や経典作成のほうへ転向しているらしい。経典の記し方には個性も出る。酒楽が言うには、ただ字が書かれているわけではなく、廿野家が作成するそれは、画や飾りをふんだんに使ったものになるらしい。
「それは、出来上がれば巨額の財になりそうですね」
「成功すればな。かんせいひんは、王宮へおさめられる予定だ」
「なるほど、……家の舵取りは誰が行っているのです?」
当主不在のいま、廿野家にとっては試練の時だろう。何十年も財をつぎこむ経典の作成が失敗すれば、家は立ち行かなくなる。酒楽の母親が不安定に見えるのも、そういった家の舵取りを一手に引き受けているせいかもしれない。叔父や叔母など他に誰かいれば母親の重荷を減らしてやれる。そうすれば、酒楽もここから解放されるかもしれない――そう期待したのだが、見透かしたように笑われてしまった。
「むだだぞ。家のことは、ぜんぶわたしがおこなってきた。表向きは母さまの仕事だが」
「誰か、他にいないのですか?」
「廿野家にはだれも。しんせきなら話せるのがひとり」
「その人に助けてもらいましょう。現状を説明し、ここから出してもらうのです」
「でも……」
「ずっとここにいるわけにはいかないでしょう。私がその人を連れてきますから」
「連れてくる?」
酒楽の目の前で、錠の降ろされた鉄格子をすり抜けてみせる。振り返ると、牢のなかで幼子が目を丸くしている。
「私は付喪神です。どこへなりとも思うところへ向かえます。その人の名と住まいは?」
「おまえの姿は、他のものにも見えるのか?」
「さぁ、おそらく見えないと思います。撫葉さまが生きておられたときにも、他に私が見える人には出会いませんでした」
現に酒楽の乳母には、自分の姿が見えていない。撫葉のひ孫である酒楽には稀有な素質が受け継がれたのだろう。
「では」と少年は頷く。
「てがみを書こう。ここへ来てくれるように、たのんでみる」
「相手は誰です?」
「わたしの叔父で、
「それは……」
酒楽はくいっと口角を上げる。笑んだ黒目のなかに、挑むような光がちらついている。
「わたしは嫌われているんだ」
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