第15話

 酒楽と出会ったのは十年前のことだ。

 その頃、伍仁は仕えていた主の死とともに、本体である翡翠飾りの中へ戻り、眠りについていた。人間の世界に飽いていたし、人の死に触れすぎ、疲れてもいた。とくに酒楽の曾祖父、撫葉むようの死は、衝撃的な出来事だった。どれだけ情をもち、誠心誠意つくしても、人の身は儚く消えてしまう。酒楽の曾祖父・撫葉の死は、かつてなくそれを思い出させてくれた。そうして眠りについていた意識が、ふと他人の気配で揺り動かされた。

(子ども……?)

 最初に気づいたのは幼子の気配だ。意識だけで探ってみる。幼子は、近くで踏み台に乗り、なにか取ろうと高所へ手を伸ばしていた。


「う、うぅぅ……あと、すこし、……あっ」


 台から足を踏み外したのだろう。か細い悲鳴と荷箱が崩れるけたたましい音がしばらく響く。木箱が石床へ落ち、古書が何冊も降りそそぎ、薬瓶がど派手に割れる音だ。思わず目を開け、自らを実体化させていた。先ほどの幼子、死んでしまっただろうか。

 突如現れた己の姿を、幼子は崩れた荷の間で茫然と眺めていた。どうやら無傷のようだが、無人だった場所へ人が現れたことで、かなり驚いている。

(そういえば、撫葉さまがはじめて私を見たときにも、こんな反応だった)

 つい昨日のことのように思い出され、苦笑してしまう。撫葉はもういないのに。刺すような感情の痛みに、気づかぬ振りをしようとする。これだから現世は厭わしい。ちらと見下ろすと、幼子がまじまじと見上げてきていた。叫ばれる前に消えようと思ったら、舌ったらずな声がした。


「おまえ、撫葉のつくもがみか?」


 ぎくりと身が凍った。

 付喪神と看過されたことにも驚いたが、それより「撫葉」の名を、こんな幼子に呼び捨てにされたことに怒りをおぼえた。

 瞬間的な激情に任せ、その首をつかみ締め上げた。

 幼子はしばらく宙で足をじたじたさせたが、やがて力を抜くと抵抗をやめた。じっと目を開き、自らを宙吊りにする男を観察している――異様なことだった。苦しむでももがくでもない、ただこちらを見ている。まだ四、五歳ほどの幼児が、まるで恐怖を感じていないみたいに。

 大きな黒目と目が合った瞬間、幼子を手近な荷の上に降ろしていた。忌むべき物を触った気がした。なんとなく手を擦る。気分が悪かった。幼子は荷の上でしばらく咳き込んでいたが、落ちつくと掠れた声を出した。


「すまなかった、おどろかせて。おまえをいためつけたり、しないぞ」

「誰がっ、――」


 怒鳴りそうになるのをこらえる。まるで自分が、子ども相手に怯えているような言いぐさだ。幼子はこてりと首を傾けた。


「撫葉のしゅきとは、ずいぶん印象がちがうな」

「なに?」

「つくもがみの『翡翠』は冷静でさといと、かかれてあったから」


 そう言って懐から取り出されたのは、綴じられた手記だった。流麗な字は間違いなく撫葉の手によるもので、彼の生きた日々のことが詳細につづられてある。


「いつの間に、こんなものを……」


 美しい字が心につき刺さった。

 過ぎ去った暖かな日々が、『翡翠』という付喪神の存在とともに書かれている。これは撫葉が昔感じたこと、彼の記憶のすべてだ。幼子は舌足らずに言う。


「それを読んだから、お前はきっと、ここいるだろうと思っていた。つくもがみ。曾祖父に仕えたというのなら、わたしにも仕えぬか」

「なに……お前、撫葉さまのひ孫か?」


 その通りと幼子は頷く。撫葉とは似ても似つかない、不気味さがある。

 栗色の髪を肩まで伸ばし、後ろでひとつにくくっている。四、五歳くらいでまだ幼すぎて、性別の区別もつかない。……話し言葉から、男児だろうと推察する。産まれてから日を浴びていないように白く、子どもにしては無邪気さや、可愛げがない。微笑めばさぞ愛らしかろう顔は無表情で、感情の機微も窺えない。ただ大きな栗色の目が、老成した光を湛え、瞬いている。歳に似合わぬ物言いや知性は妖怪じみていて、人ならざるつくも神をも身震いさせた。幼子は構わず、堂々と言い放った。


「わたしは、撫葉のひ孫で名を酒楽。廿野家つづみのけのちゃくなんである。つくもがみの『翡翠』よ、わたしに仕えよ」

「っ、なぜ私が」

「わたしに仕えよ」

「馬鹿らしい」

「撫葉には仕えたのだろう。わたしにも仕えよ!」

「だから嫌だと言っている」

「なぜだ、なぜわたしには仕えぬのだ。言うことをきけ!」


 しだいに駄々をこねる調子になってきて、幼子を見ればやや涙目になっている。

(なんだ、可愛らしい顔もできるじゃないか)

 縋りつくような視線に慌てて目をそらした。冗談じゃない。危うく情がわきそうだ。


「わたしに仕えよ!」

「やめろ、離しなさい。まとわりつくな!」


 幼子は荷台の上に立っており、その視線はちょうど己と同じ位置にある。逃がすまいと肩口に抱きつかれる。涙で濡れた顔を服につけられそうで、慌てて引きはがした。そうしてもみ合ったとき、ふと周囲を見て思う。この部屋は、──なにかおかしい。

 うす暗い部屋だ。おそらく、廿野家の宝物庫なのだろう。付喪神である己の本体は、高価な大玉の翡翠飾りだ。撫葉の死後に、蔵にしまわれていてもおかしくはない。問題は、蔵奥にひと間続きの居住空間があったことだ。きんと冷えた黒い板間には寝具と机、洗い桶に水差し、尿瓶までも置かれている。ぐるりを見回しようやく気づく。この宝物庫に出口はない。窓は日が入らぬよう高窓になっているし、あそこから出入りはできない。宝物庫に扉はあるが、その手前に鉄格子がつけられていた。ちょうど居住空間から出られぬよう、外部へ続く扉へ向かえないようになっている。


わらし、ここに閉じこめられているのか?」


 びくりと幼子の身が震えた。


「――だったら、なんだというのだ」


 荷台の上に座り込んだ幼子は、片手で涙をごしごしやった。縋るようだった目はもう冷静さを取り戻している。


「童、なぜこんなところにいる?」

「しるか。お前はわたしに仕えないのだろう。とっとと失せろ」


 そう言って、荷台からとび降りた酒楽は、盛大に着地に失敗していた。


「う、うぅぅぅ……」


 崩れた荷の上に頭から落ち、割れた薬瓶の破片で腕を切っている。とろくさい。着地の失敗で足もくじいたようで、よろよろと居住空間の板間のほうへ戻って行く。


「待て、童。質問に答えぬか」

「わたしは、童じゃない」

「酒楽といったか。なぜこんなところに入れられている?」

「あっちいけ」


 ふてくされたように寝具にもぐりこんだ酒楽は、布団のなかで丸まってしまった。外では雨が降っているらしい。かび臭い宝物庫の空気はひんやりと湿気を帯びてきた。しばらく様子を窺ってみたが、酒楽は布団から動かないし、外から誰かが近づいてくる気配もない。

(あれだけうるさく物音を立てたのに、家の者は誰も来ないのか)

 宝物庫に閉じこめられた子供が、中でどうなっていても良いのか。静けさと雨音に耐えられなくなり、自然とため息をついてしまった。


「おい、童。酒楽。怪我の手当てをしてやるから」

「消えろ」

「そのままにしてはおけないだろう。転んだとき、怪我をしたろう? ほら腕を」


 布団のうわかけに手をかけると、中からくぐもった拒絶の声がした。


「お前はわたしに仕えぬのだろう! ひつようない、あっちに行け!」


 いったいこれをどうすればいいのだろう。撫葉のひ孫と聞かされれば、このまま放置しておくことなどできない。


「わかった、お前に仕えてやるから」


 撫葉はもっと素直で聞き訳がよかった。純粋で繊細だった元あるじの幼少期を思い返すと、酒楽はかなりひねている。布団からそろりと顔をのぞかせた幼子は、すると嫌そうに言った。


「けいご」

「なに?」

「撫葉にはけいごだったはずだ。しゅきに『翡翠は丁寧で礼節を重んじる』と書いてあったぞ。わたしにもけいごを使え」


(この餓鬼。人が下手に出れば)

 ぐっとこらえて息を吐き出した。幼子相手につっかかっても仕方ない。


「……さようでございましたか。これで満足ですか? 酒楽さま、ほら腕を」


 じと目でしばらく値踏みした後、酒楽は「ん」と腕を出す。


「血まみれじゃないですか!?」


 ざっくりと上腕を切った傷は深く、だくだくと血が流れ出している。痛くはないのか。たった五歳ほどの子がこれだけの怪我をし、痛みに泣かないのは奇妙だった。酒楽は落ちついていた。むしろ慌てている自分を見て、あきれ顔で欠伸をしている。


「これしきのことで人は死なない。たいしたことない」

「何を馬鹿な! 人など簡単に死んでしまうのに」

「もっとひどい、……けがもしたこと、ある……」


 酒楽は微睡みはじめている。清潔な布と洗い桶にあった水であくせくしている伍仁が馬鹿みたいだ。

(この歳の子どもが、『もっとひどい怪我もしたことがある』?)

 安らかな寝息を聞きながら腕の応急処置を終え、眠る幼子を前に弱りはててる。仕えるとは言ったが、そんな義理もない。このまま消えてしまってもいいのだ。

(けれど、撫葉のひ孫がこんな場所に閉じこめられているなんて)

 消えるにしてもせめて事情を理解し、酒楽を安全で健全に過ごせる場所へ移してからにすべきだ。そうでないと撫葉も浮かばれない。

 酒楽が盛大に崩した木箱や薬瓶の破片を整理しているとき、ふとさらなる疑問をおぼえる。踏み台に乗り、酒楽が手に取ろうとしていたものは何だったのだろう。崩れた荷の位置からその場所を予想し、屈んだ視点から見上げてみる。何もなかった。酒楽が手を伸ばしただろう場所には、本棚もないただの空間が広がっている。唯一手に取れるとすれば――。


「まさか、な」


 異様な考えにぞっとする。

 梁の上から垂れ下がる荒縄。手の届きそうな距離で揺れるその先は、誰がそうしたのか丸い輪になっている。見ようによっては、絞首台の縄のようにも。そんなはずはないと思い、けれど考えたら気になって、ますます酒楽を捨て置けなくなった。情がわく前にはやく離れるべきなのは、重々わかっていたのに。

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