雨の展望
第14話
雨は三日三晩降り続いていた。
春先の時期にしては珍しい、伍仁ですら心配になるくらいの雨量だった。雨傘をさし、伍仁は足早に酒楽の宮へと帰路を急ぐ。
「はやく帰らないと……!」
濡れないように抱えているのは、厨でくすねてきた大量の菓子だ。もちろん、酒楽が食べるようである。
雨の日の酒楽は体調が悪くなる。体質かもしれないが、昔から雨が降ると気だるげに、一日中布団にくるまっている。食欲も落ちてしまうので、彼が唯一拒まない甘味をせっせと、その口へ突っこむ係に伍仁は徹する。ほんのすこしの雨をも嫌がる少年を、今回の長雨はひどく苦しめた。寝ている隙を見計らい出てきたが、できれば起きる前に戻ってやりたい。全速力で宮へ帰ってきた伍仁は、宮の入り口で慌てて身を隠す。
「それでは、失礼いたします」
扉を開け、宮の中から人が出てきた。黒一色の
(あれは、――
後宮には、黒官と呼ばれる神職がある。ひろく神事を行い、ときに武をもって
伍仁にとっては、けれど黒官たちは普通の人間にすぎない。その他大勢と変わらず、伍仁の姿は黒官たちには見えないのだから。けれどただひとり、あの魔醜座だけは苦手だった。魔醜座は、黒官たちをまとめる立場にいる。そのせいか、いつも異様な気配がするし、なんとなく存在を感づかれている気がしていた。だから伍仁は、魔醜座のことはできるだけ避けるようにしている。万が一姿を見られでもしたら、面倒なことになる。
酒楽は部屋にこもりがちだし、公式の行事にはあまり参加しない。黒官との接点もなく、魔醜座と内密に話す用など見当たらない。それなのに、どうして今日にかぎって、魔醜座は宮へ来ているのだろう。それも、まるで伍仁の留守を計ったように狙って──。
退出の礼をする魔醜座へ、見送りに出てきたらしい酒楽の声が聞こえた。
「次に来るときには、必ず
魔醜座は無言で一礼し、去っていく。
気配が完全に消えたのを見届けて、伍仁はようやく宮へ入った。
「なんのお話だったんです?」
「遅い。どこへ行ってた」
じろりと酒楽に睨まれ、弁明するように、濡れた衣から菓子を取り出した。
「厨へこれをとりに。銀華糖ではありませんが、酒楽さまのお好きな
「ふん」
それで許されると思うなよと、不機嫌な顔に書いてある。雨の日の酒楽は、自分がそばを離れるのをことさらに嫌がるのだ。無断で宮を出たことがよほど気に食わなかったのだろう。むすりと机の上を片付ける少年に、伍仁は神妙に、しおらしく話しかけた。
「それは何ですか?」
机いっぱいに広げられていたのは、古地図のようだった。川や山、城下が描かれた詳細なものだ。後宮内の地図もある。
「魔醜座がもってきた。治水に関する知見をと請われてな。体調が悪いから後日といったら、これを押しつけられた」
地図を丁寧に片づける動きは気だるげで、無理をおしているのがひと目でわかる。あとは片づけておくと申し出ると、酒楽はあっさり引き下がった。そのまま寝台へ潜りこんでいる。立ち上がるのも億劫なのだろう。酒楽は寝ていたところを叩き起こされ、不調をおして魔醜座に会ったようだ。伍仁は腹が立ってきた。宮まで押しかけてきた黒官の存在が厭わしい。
「なにかお手伝いできることはありますか?」
「ない。あたま」
「はいはい」
布団からはみ出たまろい頭を、寝台の横に座り撫でてやった。余程疲れているのか、酒楽はまどろんでいる。
「なにかお召し上がりになりませんか? そうだ、厨で
「いらん。……あたま」
手が止まると撫でるように催促される。頭が痛むのだろうか。待医を呼ぶべきか真剣に悩んでいたら、眠たげな酒楽がぼんやり零した。
「かみふれびと」
「え?」
「この世には、神に愛された者が、たしかにいるのだな……」
魔醜座は、治水についてだけでなく、ここ数日降り続く長雨の原因についても話したという。いわく、後宮の「神触れ人」が――後宮にいるというい、神に愛された人間数名が、神威を借りて雨を降らせているのだと。
「真に神がいるのなら、……なぜ……」
「酒楽さま?」
うすい目蓋が降り、寝息が聞こえてくる。眠りに引きずりこまれた少年の言葉が、伍仁には何かわかる気がした。
神はなぜ
神に愛された「神触れ人」が降らす雨に、酒楽はいま苦しめられている。
持つものと持たざるもの、その線引きを、彼は幼いときから考え続けてきたに違いない。
(そういえば、酒楽さまと初めて会ったのも雨の日だった)
叩きつける雨に空気のすべてがしめり気を帯びる午後、伍仁はその幼子と出会ったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。