第13話
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――酒楽が彼のことを思い出すとき、真っ先に考えつくのは黒一色の衣だった。
豪奢な絹を黒く染めた、ふんわりとした衣。風に透けるほど薄い、夜の空気に似た衣だ。
五年前、酒楽の家を訪れた裕福な商人は、そんな黒羽織を着ていた。
酒楽が閉じこめられていた座敷牢へやってきて、顔を見るなりこう言った。
――その翡翠の耳飾りが欲しい。
伍仁はそのとき、ちょうど外へ出ていた。買い物を頼んでいたのだ。
「いやです」
酒楽の応えは、ただの子どものわがままだった。相手は強引に耳飾りを奪うこともできただろう。けれど彼は、穏やかに告げたのだ。
――私と勝負をしよう。おぬしが勝てば、なんでも望みを叶えてやる。そのかわり、おぬしが負ければその翡翠は私のものだ。
酒楽は頷いた。退屈していた。
碁や将棋、兵法や知識比べにしたって、勝てる自信があった。大抵の勝負ごとでこれまで大人相手に負けたことがなかった。すると商人は「酒楽の望みがなにか当ててみせる」という。
「いいでしょう。ただし答えは一度きりです」
間違えば終わり、そう告げても男は余裕の笑みだった。
わかるはずがないと澄ましていた目の前に、男は袖口から小瓶をとり出してみせた。見せつけるように静かに置かれる。
人さし指ほどの透明な小瓶には、琥珀色の液体が入っていた。
一瞬、蒸留酒のように見えた。
子ども相手に酒を出すとはどういう了見か。相手の顔をそう窺い見たとき、酒楽は自らの敗北を悟ったのだ。
その小瓶には死がつまっていた。
――猛毒の『
無意識に伸ばしかけた指が届く前に、男は小瓶を引っ込めた。
「……くれるのでは?」
――私は勝った。この小瓶をやるとは言ってない。
翡翠を、と伸ばされた手に、だから酒楽は立ちあがった。
「わかりました、私もついてゆきます。この翡翠はもう、私ごとあなたのもの」
男はなにか言いたげだったが、拒まなかった。
それが五年前のこと。
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「――それで、きみの家族のことだけれど」
かくりと、飛びかけていた酒楽の意識が戻る。
微睡みかけていたらしい。
体調は最悪だし、背後にぴたりと座る伍仁が袖で鼻と口を覆ってくるので、背にある温もりが心地よく、眠たくなってしまうのだ。
近すぎる伍仁との距離感に抵抗はないが、かえって幼少のころにその膝に乗っていたことを思い出し、ゆり籠の中にいるような気分だった。
(必要ないというのに)
伍仁はこうすると言ってきかなかった。柘榴帝が目の前にいるので薫香避けだという。袖で鼻と口をふさがれているので、伍仁の服に焚きしめてある白檀の香りしかしない。寝台の横に腰かけた帝は、伍仁に抱きかかえられた自分を見て苦笑いだ。
「大丈夫? 体調が悪いなら、また日を改めようか」
「いえ、申し訳ございません。続きを」
帝はなぜか伍仁を窺うように見る。付喪神が頷く気配があった。堂々とした付喪神の声が聞こえてくる。
「大丈夫です。酒楽さまは、駄目なときには駄目と仰られます」
なぜ、帝と直接に話しているのか。誰の許しをえて。
(いつの間に気安くなったんだ。かってなことを)
妙に帝にくだけた調子なのが気に食わない。先帝のこともあるし、本当なら伍仁と柘榴帝を会わせたくなかったが、こうなってしまえばしかたない。
柘榴帝は水色の目でちらと様子を窺い、「いいのかな?」という表情で口を開く。
「廿野酒楽。きみの家族は無罪とする」
「えっ」「なんと」
これには伍仁だけでなく酒楽も驚いた。先帝殺しは重罪だ。拾野波路は自分の親戚、さらに言えば、その他の一派とも遠戚にあたる。本来なら、それらすべてを滅殺されているところだ。犠牲者は数百人に及んだだろう。年若い帝は、拾野の家のみを罪に問うと決めたらしい。ゆるやかな微笑みには余裕すら浮かんでいる。柘榴帝の声は、春風のように穏やかで優しい。
「もともと、俺は先帝が嫌いだった。拾野波路にはむしろ感謝したいくらいだが、俺の命も危うかったわけだし、罰さないわけにはいかないからね」
「波路は見つかったのですか?」
「いや。拾野の一族はもぬけの殻だ。用意のいいことに」
帝はため息をついている。
波路の裏で糸を引いていた人物はわからないままだ。
新しく即位した柘榴帝に取り入ろうと、これからすり寄ってくる者のいずれかだろう。政敵が分からないのは不気味だった。
(後宮内にもその一派がいるはずだが)
これからわかるかもしれない。そう忠告しようとして、帝のため息が聞こえ、酒楽は言葉を変えた。
「いかがされました。なにかお悩みでもおありですか?」
「ああ、いや。君を見ると思い出す人がいてね」
帝のため息は切なさで甘く濡れている。
(恋煩いか)
国の頂点に立つ身なのだ。もうすこし自重してはと思ったが、そういった自由も許されないことを思うと同情を禁じ得ない。
(私を見て思い出すということは、同じ年頃の少年少女か。背格好や顔立ちに類似点がある?)
背後から回されていた伍仁の腕がぎゅうと強くなる。
「駄目ですよ。あげません」
思わずぎょっとし、素で振り返っていた。
「はぁ? お前なに言って」
「坊ちゃまは私のです」
「伍仁! 無礼だぞ」
強くたしなめようにも抱えこまれて動けない。もともと腕力で伍仁に勝てた試しがないのだ。柘榴帝はくつくつ笑っている。
「君たちが羨ましいよ。大丈夫、彼には借りがある。嫌がることはしない」
「ちがいます、これは」
誤解だ。この体勢で説得力もないが、伍仁とは家族のような関係なのだ。
(祖父が孫を甘やかすようなもので。こいつがべったりだからこんなことに)
付喪神たる伍仁の感情は人とはちがう。好きと思えば好き、嫌いになれば徹底的でその中間がない。だから広い意味での「好き」が重度の「好き」に映るだけだ。そうは思っても説明するのも難しく、誤解を解いたら解いたでややこしいことになりそうだった。黙りこんだのをどうとったか、帝は「邪魔したね」と立ち上がった。
「そうだ、きみたちに何かお礼がしたい。欲しいものを祝水の宴までに考えておいてくれ。宴にはくるんだろう?」
去り際に見た柘榴帝の目の
はっきりとはしないが、崩壊の兆しを見た気がしたのだ。頭の中に集められた数々の情報が、もやとなり帝の行く末を暗く塗りつぶしていく。そんな気がする。
(まだ分からない。情報が足りない)
こういった予感は存外あたる。無意識に脳が計算してみせた未来予測は、かなりの場合真実が含まれている。
思い出したのは木組みの玩具だった。一本一本、木板を抜いていくと最後には倒れる寸前になる。いまの後宮とこの国は、ひょっとしてその状態に近いのかもしれない。
「坊ちゃま、質問があります」
「坊ちゃまよせ。もういいだろう、離せ」
「なぜ後宮へ来たのです?」
伍仁はふたりになった後も離れなかった。ゆるめられた腕に身をよじると、間近に覗きこむ黒い瞳がある。
その目の奥は暗く沈み、どろつく澱に似て見通せない。
執着しているのだろうか。
自分という人間が珍しかったから、玩具のように考えているのかもしれない。退屈させない、動いて喋る玩具。伍仁にとって酒楽とは、そんな存在なのかもしれない。齢千年を超える付喪神の考えなどわからない。
(けれど私にとっては、――)
伍仁がいなければ、後宮へくることもなかった。
伍仁がいなければ、あの家で生き延びることもできなかった。
伍仁がいなければ。
彼だけがいつも味方であり、自分が生きようとする意味だ。
「後宮へ来たのは、鳳梨帝にそう望まれたからだ。それにあの家を出たかった。お前も知っているだろう?」
「それは、そうですけれど。酒楽さまは、ここを出たいのではありませんか?」
「必要ない。いま気づいた」
(いずれこの後宮は崩壊する)
それがいつのことかはわからない。けれど今日得た確信はゆるぎなく、その未来を間近に見たいとさえ思う。
なにかが壊れていく過程、その瞬間を知りたいのだ。巻きこまれても構わない。木を一本一本抜き外していく木組みの玩具や、鳳梨帝の差し出してきた小瓶の毒と同じことだった。伍仁の存在とは対極のものに、もうずっと昔から惹かれてやまない。
「何がわかったんです?」
伍仁はきょとんとしている。その顔に、嘘でなく笑みをかえすことができた。
「ここも存外悪くない。菓子もあるし、お前もいる」
甘味でも食しながらただ待っていればいいのだ。
ひたりと歩み寄ってくる、その一瞬が訪れるまで。
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