第11話
拾野波路の住まう宮は、早くも明かりが落とされていた。
「邪魔するぞ」
酒楽が答えを待たずにあがりこめば、机のそばで酒を飲んでいた叔父は平然と笑む。
「お前か。もう画は描けたのか?」
「必要ない。よくも私を利用してくれたな」
「あぁあ、ようやく気づいたか。やはりお前は頭がいい。けれど画聖ではないな。画をもってこなかった」
「戯言を」
「戯言? いや真実だ。お前はあれほど俺に侮辱されても画を描き、持ってこなかった。真の画聖であるなら、どんな場合でも画を第一に考えるべきだ。たとえ己の命がかかっていようがな――だがお前は結局、保身に走る。お前にとっての一番が画じゃないからだ」
酒楽は言い返さなかった。一理あると思ったのだ。
暗い部屋で窓からさしこむ一条の光が、おぼろげに叔父の姿を浮かび上がらせている。窓の外に、伍仁が呼び寄せた兵が今にも現れないかと窺ってみたが、その気配がないのでしかたなく口を開いた。
「私がやった首飾りを、鳳梨帝へそのまま贈ったな?」
「俺がもらったものをどう扱おうが勝手だ」
「……そうだな。あのとき、帝にも伝えておくべきだった」
柘榴帝の言っていた呪いの首飾りとは、酒楽が波路へ贈ったものだ。
五年前、波路が才人の位を賜ったときの祝いの品で、適当に商人に見繕わせたものだった。それを波路はあろうことかそのまま「酒楽からの贈り物」として先帝に献上してしまったのだ。
(鳳梨帝はあの首飾りをいたくお気に召していた。だから水をさすようで訂正できなかった)
またいつもの嫌がらせだろうと思っていたのだ。贈り物が気に入らなかったから、目につく形で鳳梨帝へ投げてよこしたのだろうと。
「波路、お前は
叔父は喉奥で笑っている。どうやら正しい答えだったようだ。
(もっとわかりやすい毒なら、早く発見できたのに)
だからこそ、あえて見つかりにくいそれを選んだのかもしれない。効果も薄いが、長年触れ続ければ確実に死に至る毒を。
緑線砂は近年、外国で発見された物質だ。
酒楽がその存在を知っていたのは、誰も読まないような先進医療の書を読んでいたからだった。緑線砂の知名度は低く、科学はおろか、医療の専門家からも国ではまだ話を聞いたことがない。発見されたばかりで未開拓の物質なのだ。
(わかっているのは、空気中に有害微粒子を出し続けること)
そしてその有害微粒子は、夜の暗闇のなかにあってはうつくしい緑の輝きを放つ。
「波路、お前は緑線砂を首飾りに塗布したんだろ。顔料として使うというその発想には驚いたが……先帝はそれを五年ものあいだ身につけ、結果として、健康を害することになった」
伍仁から話を聞き、先帝の遺体の様子に確信を得た。
(骨が極度に脆くなる。とくに首回りと顔の骨が崩れてしまった)
緑線砂が先帝の身体のその部位にずっとあった証だ。波路は「ふん?」と目をすがめて言う。
「たかが首飾りのひとつで。緑線砂はそんなに有害じゃない。身につけ続けても、五年じゃ人は死なないだろう」
白々しく叔父はとぼけてみせる。誤魔かしきれると思っているのだろうか。余裕綽々の叔父の表情を見るほどに、不快な気分が強まった。
「もちろん、それだけじゃないはずだ。五年前、お前は安寧宮の内装を手がけていたな。壁に描かれた装飾、塗装、風景画。椅子に机、調度品のすべてを一新したのは波路、お前だった」
拾野は工芸品に強い家系でもある。五年前、後宮に入った波路がまず着手したのは、安寧宮の内装の刷新だった。安寧宮は天帝の後宮での執務室、そして寝所でもある。波路はその壁一面に、手ずから見事な風景画を描いてみせたのだ。誰にも真似できない、曇りがすみに光る風合いの見事な山水画である。先帝は画を気に入り、安寧宮の寝所にこもり眺めることも多かったと聞く。有害な緑線砂が使われたその画のそばで、何日何か月も過ごしていたことになる。そしてそれは、今でも安寧宮にそのままある。
「天帝の寝所、安寧宮の明かりはけして落とされない。後宮の慣例でそう定められている。だからお前は、そこに緑線砂を塗布したんだな。明るければ蛍火は見えない、見つかる心配もない。けれどひとたび火を落としてみれば瞭然だ。あの部屋は目もくらむほど、うつくしく輝くはずだ」
それは死のともしび、呪いの緑光だった。
あと数年見つかるのが遅ければ、柘榴帝の命も危うかっただろう。
ここへ来るまでに、伍仁に安寧宮の灯を消し、柘榴帝にそれを見せるように伝えてある。緑一色に染まる部屋に帝が何を思うか。
(波路の罪は重い。逃れようがない)
叔父は酒精を上品になめ、笑って言う。
「それで。お前はこの俺様を柘榴帝につきだすのか。本当にそれでいいのか? 天帝殺しは重罪だ。俺の罪が明らかになれば、拾野家だけじゃない、お前の家族もみな殺しだぞ」
天帝への害意は最も重い罪だった。死よりもつらい拷問を受け、罪人の一族は滅殺されるのが決まりだ。
「私は柘榴帝を救った。私の家族は助かるかもしれない」
「どうかな。お前ひとりは助かるだろうが、家族にまで恩赦をというのはありえない。くくっ、俺にはわかるぜ。お前はこう考えている。『すくなくとも自分は助かる』――相変わらず冷たいやつだ。拾野の家は親戚だし、連中もお前にはよくしてやったろう」
「そうだな。お前以外は」
諸悪の根源が何を言うと思ったが、叔父は余裕の表情だ。
「構わんさ、気にすることはない。俺はもともとそのために後宮へ入ったんだからな。このことは、拾野の人間ならみな知っている。家の意向で俺は後宮へ入れさせられた」
鳳梨帝を殺すために。
五年前から計画されていたことだと、叔父は笑って続けた。
「けれどお前はちがう。廿野の家はお前の後宮入りに反対していた。なにせあれだけお前を溺愛する一族だからなあ。お前はやさしい家族をも無情に切り捨て、後宮へ入った。あげくのはて一族が滅殺されるというときに、自分だけは助かるという目算をたてている。本当に血の通った人間か疑わしいな」
酒楽はそっと目をふせる。
(あれを溺愛と言えるのが、こいつのすごいところだ)
むろん嫌味だとわかっている。すくなくとも自分にとって実の家族とは忌まわしく、そこから逃れるようにして後宮へきた部分もあるのだ。薄暗がりに見える叔父の笑みは、悪夢のように艶めいていた。
「酒楽、ただ家を離れるだけなら後宮でなくてもよかっただろう。お前ほどの腕があればどこへなりとも画家として向かえたはずだ。けれどお前は、後宮を選んだ。なんのために?」
波路はしずかに盃を置く。見透かすような視線が暗がりできらめいている。叔父はもう笑っていなかった。
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