第9話

 酒楽への処置は適切に行われた。

 柘榴帝が伴った待医・りゅう先生は、後宮のなかでも名医だったらしい。顔色の悪い酒楽を見るなり見事に原因を看過してみせた。


「毒物でしょうな」

「毒?」

「急性の症状です。直前になにか、口に入れたものがあるはずです」


 柘榴帝の鋭い視線を受け、伍仁は首をかしげる。


「とくになにも召し上がってませんでしたけど――あ」


 そういえば。柘榴帝を隣室の入り口へと案内する。酒楽は何も食べていなかったが、白い粉の顔料を大量に吸いこんだのだ。柳先生は床に積もる白粉を見るなり眉をひそめた。


「これでしょうな。間違いありません」

「これは何だ?」

白鉛はくえんです」


 嫌そうに鼻息をもらし、柳先生は隣室を一瞥して告げる。


「白鉛の顔料は、この世で一番うつくしい白が出ると言われております。しかし元をたどれば人体に有害なもの。色のために健康を害すなど愚かなことです」

「それほどに有害なのか? なら、どうして」

「ひとたび画となってしまえば、さほど有害ではありません。適切な距離を保ち、目で見て皮膚で触れぬのならよいのです。過度に接さなければ構いません」


 けれど画家は触れないわけにはいかない。色を塗るだけでなく素材から顔料をつくる工程でも肌に触れ、飛沫を大量に吸いこむ場合もある。


「この部屋にあるものは、――」


 柳先生は嫌悪感をむき出しにし、酒楽の工房をぐるりと眺めた。


「有害なものばかりに見えますな。自然界にあり鮮やかな色が出るものは、人体に毒となる物質が多いのです。画聖ともなればその取扱いには、細心の注意が要ること分かっていたはず」


 柳先生の侮蔑するような声に伍仁は肩を落とした。酒楽が倒れるきっかけを作ったのは自分だ。

(情けない。私は酒楽さまの邪魔をしてばかり)

 そういえば先の春画のときにしたって、自分が窓を開けていたからあんなことになったのだ。なにひとつ酒楽の役に立てない。落ちこんでいる間に、柳先生はてきぱきと酒楽に毒消しの薬を煎じ飲ませていた。酒楽は二度ほど嘔吐したが、後宮の名医は「これでよい」と満足げだ。


「症状は落ちついています、陛下。私はまた明日、様子を窺いに参ります」

「ああ、うん。ご苦労さま」


 柳先生が帰り、柘榴帝も帰るのかと思いきや、帝はおつきの者たちを先に帰らせると、なぜか寝台の横に陣取ってしまった。人払いが済んでから、眠る酒楽をぼんやりと眺め言う。


「そう気を落とさずに。君のせいではないのだろう?」

「はい。あ、いえ」

「君のせいなの? まあ、故意ではなかったようだし仕方ないね。大事にいたらなくて良かった」

「あの。ありがとうございました。酒楽さまを助けていただいて」

「構わないさ。座って。話がある」

「私にですか?」


 柘榴帝は物憂く酒楽の寝顔を眺めていたが、伍仁が寝台のはしに腰かけるのを見て口を開いた。


「人じゃないね」


 一瞬、誤魔化そうかと考えて諦めた。今のは問いじゃない。確認だ。


「私は付喪神です。酒楽さまが幼少の頃より、お仕えしております」

「名は、伍仁?」

「はい。驚かれないのですね」

「不思議なことには慣れているんだ。君の姿が見えたのも、俺が天帝になったからだろう。この身にまとう薫香くんこうにしたって、最近まで無かったものだし」


 自嘲するように帝は自らの手を見ている。この国の天帝は、尋常ならざる力を得るという。それまではただ人であったのが、その地位についた瞬間に、神にも等しい能力を得るのだと──適当な話だとこれまで聞き流していたが、こうなってくると認めざるを得なかった。目の前の柘榴帝には不思議な力がある。伍仁を見ることができるし、人を惑わす香りを、本人の意志とは無関係に放ってしまうようだった。「そういえば」と伍仁は内心首をかしげる。今日は薫香の匂いがさほどしない。以前会ったときには、もっと強い匂いだったと思ったが。鼻をひくつかせるのを見て、柘榴帝は喉の奥で笑った。


「今日は薫香避けの黒羽織を着ているんだ。この身は香りで居場所がばれてしまうから、人目を避けたいときにはこの羽織を着て歩くのさ」

「さようでしたか」

「鳳梨帝もそうだったろう?」

「え?」

「先帝は彼をずいぶん気に入っていたそうじゃないか。人目を忍んで来るとき、この黒羽織をまとっていただろう」

「さあ……言われてみれば、そうだったかもしれませんが」


 実は、先代の鳳梨帝とまともに顔を合わせたことがない。

(来訪がわかると酒楽さまはいつも私に『隠れていろ』と言って隣の部屋に押しこめたから)

 考えてみれば、先帝にも自分の姿が見えていたのかもしれない。先帝は酒楽と会っても碁を打つだけだった。好々爺のような先帝は酒楽を孫のように気に入っていたし、伍仁も「酒楽に害がないのなら」と、特に関心をもってこなかった。

(けれど、この男は違う)

 柘榴帝はあきらかに酒楽に興味がある。視線の色からそれが伝わってくる。だから彼を酒楽にできるだけ近づけたくなかった。


「そうだ。先帝といえばおもしろい話があるよ」


 やや強引な話運びにはなにか含みがありそうだ。

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