第8話

波路はじめ! くそ、腹立たしい!」


 昼から夕方にかけ、酒楽は大量の顔料づくりにいそしんだ。倉庫代わりにしている部屋は顔料素材で足の踏み場もない。鉱物、草木、積み上げられた貝殻や色虫の袋――すべて新たに商人から取り寄せたものだ。部屋の真ん中で、酒楽は臼に入れた鉱物を砕いている。金槌で鈍色の塊をつぶすたびに、あたりに硬質な音と少年の恨めしげな荒い呼吸が響いた。


「くそ、許さん! 波路っ、今日という、今日はっ、絶対に!」

「酒楽さま、お水をもってきました」

「ん……」


 金槌を置いた酒楽は汗だくだった。怒りをぶつけ砕いた鉱石はうつくしい紫の顔料になるという。ただの黒い石ころに見えるのに、その色が変わることが伍仁には不思議でしかたない。


「すでにお持ちの顔料ではだめなのですか?」


 急きょ酒楽が取り寄せたのは、いずれも普段使わない顔料素材ばかりだ。

 拾野波路は二日で画を描いてこいと言ったのだ。猶予もないのにどうしていちから素材を取り寄せ、顔料をつくる必要があるのだろう。水を飲みほした酒楽は、ほうと汗をぬぐっている。額や頬にはりつく栗色の髪がつやめかしい。日にさらされない肌とあわせ、少女に似た妖しさがあった。


「伍仁よ、やつの得意な画風はなんだ?」

「え? 風景画ですか」

「そうだ。画の良し悪しは顔料の発色できまる。とくに風景画はその際たるものだ。ここに取り寄せた顔料は全部、波路が使っているもの。商人に金を握らせ確かめたから間違いない。私はこれらを完璧に使いこなし、やつ以上の風景画を描いてそれでやりこめる」

「はあ。なにかお手伝いしましょうか?」

「いらん」

「でも、それを砕くのは難儀でしょう」

「うるさいな。ひとりでできると言ってる」


 伍仁は適当に頷いておいた。これ以上言っても無駄だ。

(拾野波路のことになるといつもこれだ)

 前にも似たようなことがあった気がする。酒楽がまだ城下の別邸にいたころ、後宮へ来る前のことだ。酒楽の実家・廿野つづみのと、波路はいzの家・拾野じゅうのは同門他派だ。一門はふたつの点で世に広く知られていた。


(ひとつは絵画・工芸美術で名高いこと。そしてもうひとつ、一族内の仲がとても悪いこと)


 家同士で威を競い憎しみあって分派したのが廿野や拾野の家だった。そういった経緯もあり、叔父・拾野波路と酒楽は昔からお互いをけん制しあってきた。歳がひとまわりも違うのだから仲良くやれないかと思うのだが、拾野波路は子ども相手にも容赦なかったし、酒楽は年のわりには可愛げがなかった。顔を合わすと喧嘩になり、お互いを罵りあってきた。今日のように「画で勝負」といった揉めごとも、思えば酒楽が小さいころにはままあった気がする。

(最後に揉めていたのはいつだったろう)

 ぼんやり考えながら窓を開けようとした。部屋の空気はこもっているし、夕方の涼風を入れれば楽になるだろうと考えたのだ。窓枠に手を伸ばしかけたとき、察した酒楽が鋭く言う。


「開けるな! 温度と湿度を一定にたもつ必要がある」

「はあ……難儀なもので」


 不機嫌に睨まれ手を引っこめた、その指先が机の端に積まれていた小袋に当たった。あ、と思ったときにはすでに遅い。白い粉が入った小袋は勢いよく床へ落ち、部屋中に白塵が飛び散った。空気に充満する白い顔料の粉。粒子は細かく、一瞬で視界を白く染めあげた。酒楽が盛大に咳きこんでいる。


「けほっ、……う、愚か、ものがっ」

「すみません! すぐ掃除しますから」

「ごほ、うっ――れより、まど、……ごほっ」

「酒楽さま?」


 二、三歩部屋の出口へ向かいかけた酒楽は、その場にばったりと倒れた。


「酒楽さま!?」


 腹を抱えて丸まっている。青ざめ呻く様子からは下腹部が痛むように見えた。


「え、どうし、どうすればっ!?」

「ぅ、……たい、ぃを……」

「痛い? 痛むのですか!?」

「ぃ、しゃ……うぅぅ、馬鹿」


 医者。そうか待医たいいだ。


「待っててください! すぐに、すぐに誰か連れてまいります!」


 倒れた酒楽を部屋から連れ出し、とりあえず寝台に転がしてから風のように宮を飛び出した。

 動転し、慌てていたのだ。

 自分の姿が誰にも見えないことを失念していた。

 後宮で自分の存在を知るものは限られているというのに。伍仁の姿を見ることができるのは、酒楽以外にはただひとり――。


柘榴ざくろさま! お助けください!」


 天帝の寝所・安寧宮あんねいきゅうは、夜でも明かりが煌々と灯されている。ひと晩中明るいままにしてある執務室に滑りこむと、柘榴帝は机で書き物をしていた。そこに帝がいるかは賭けだったが、運が良かった。

 ほっと息をつくと、帝の手がはたと止まった。

 横に控えていた黒官には自分の姿が見えないようだ。開け放してある扉から春風が吹きこんだように感じられただろう。むしろ黒官は手を止めた柘榴帝を訝るように無言で見た。


「柘榴さま、大変なのです! 坊ちゃまが、酒楽さまが急に倒れてしまって、とにかく待医を宮へ遣わしてください、どうか急いで」


 柘榴帝は眉を寄せていたが、筆で伍仁を示した。


「えっと。君はたしか――」

「伍仁です! 酒楽さまに、廿野酒楽にお仕えしております」

「伍仁?」

「いかがされました、陛下」


 控えていた黒官が怪訝と帝の示した筆先を眺めやる。

 年若い帝は黒官の顔をまじまじと見た。


「いや……お前には見えない?」

「何がでしょう?」

「ああ、そうか。いや、蠅が飛んでいた。すこし気になって」

「陛下、どちらへ?」


 立ち上がった帝は輿こしを用意するように言った。


「待医を急ぎ連れてこい。それに私の薫香くんこう避けの黒羽織も」

「お体の具合がよろしくないので? でしたら外出は……」

「私ではない。いいから」


 そう押し切った帝の水色の瞳はしっかりと伍仁を見ていた。


「廿野酒楽の宮へ向かう」

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