第6話

 明け方、宮の戸を叩く音で伍仁は目がさめた。


(眠ってしまった) 


 酒楽に抱えられていた腕をぬき、ねぼけ眼をする。無意識に戸を開けた伍仁はぎょっとした。


「やあ。廿野酒楽はいるかな?」


 しまった。寝ぼけていたから反射的に戸を開けてしまった。驚くべきことに、けれど伍仁は話しかけられていた。誰も伍仁の姿を見ることはできないはずなのに、だ。

 白みはじめた空を背景に、金衣をまとう青年が笑っていた。歳は二十ほどだろう。長い黒髪をうしろでひとつにまとめている。背は高く、くっきりとした目鼻立ち。口もとは薄情そうな笑みだ。印象的なのは青い瞳で、ガラス細工のように透き通るきれいな水色だった。その爛々とした異様な輝きはひときわ目をひく。風にくゆる甘い香り――ただものではない。高貴な人間のもつ威厳と圧迫感がある。


「なんだ、いないのか廿野酒楽は」

「あ、いえ」


 まだお休みになられています、そう断る前に青年はひょいと室内を覗きこんでいた。


「寝てるのか。へぇ、あれが名高い廿野酒楽? 思っていたよりずいぶんと――」


 無粋に部屋を覗かれたこともそうだが、その言葉の余韻に嫌なものを感じた。酒楽の寝顔はひときわ幼い、可憐で無防備なものだ。青年が興味深そうにつやを含む瞳で見ているのが気に食わない。


「何の用です。かわりに私がうかがいます」


 体で無理やり視界を遮ると、青年は長い睫を瞬かせる。まるで今そこに自分の存在をはじめて認めたようだった。


「君は誰かな。廿野酒楽は、宮にひとりでいると聞いていたけど」


 身が強張った。これは決定的にまずいことになったかもしれない。


「そういう貴方こそ誰です。訪問するにしても、こんな明け方になんて無礼ではありませんか」


 青年は何事か黙考し首をかしげていたが、やがて不自然なほどにっこりと笑う。


「いや、すまなかった。これを彼に渡しておいてくれ」


 手渡されたものに危うく叫びそうになった。酒楽の春画だ。なくなった最後の一枚の。


「この近くで拾ったんだ。署名が入っていたから……くくっ、そんな顔しなくても誰にも言わないよ。じゃあまた」


 あっさりと背を向けた青年をすばやく見やった。殺すか。誰にも言わないという言葉を信用できない。誰もいない、今ここでなら簡単にくびり殺せる。今なら――、


「伍仁」


 聞きなれた声に身が固まった。酒楽がのそのそ起き上がり、怪訝な顔で歩いてくる。


「なんだ、誰と話してた?」


 ぼんやりとした酒楽は腰のあたりに抱きついてきた。ねぼけまなこの酒楽は無意識にこうして甘えてくることがある。


「なんでもありません。酒楽さま、熱があるのですか?」


 覗きこんだ少年の瞳はうるみ、とろんとしている。すんすん空気の匂いを嗅ぎ、恍惚と頬を染めている。またたびに近づく猫のようだった。


「いい匂いがする。なにか、わからないが不思議な……お前のほうから」


 匂い。その言葉に衝撃をうけた。雷が落ちたような閃きで、先ほどの青年の正体がわかったのだ。


「まだ眠ってていいですよ。昨夜は遅かったのですし」

「う、ん」

「ほら」


 強制的に寝台に転がすと、酒楽はまたすうすう眠りだした。そのあどけない寝顔を青年は見ていたのだ。


(水いろの瞳にくゆる香り)


 彼は新帝、柘榴帝ざくろだ。この国を統べ、酒楽の行く末をも左右できる立場にいる、厄介な人間のひとりだ。数週間前に代替わりしたばかりの新帝の顔を、酒楽も自分もまだ知らない。けれど確実に、彼がそうだと伍仁は断言できた。たとえば、こんな夜更けに貴人の宮を訪れたこと。不貞を疑われかねない無作法だが、柘榴帝なら明け方にどの宮を訪れても問題ない。それに、酒楽の言っていた「不思議な香り」だ。


(あれが薫香くんこう……?)


 人間の理性を溶かしてしまう至上の匂いを、この国の天帝は身にまとうと聞く。前帝・鳳梨帝からはそんな香りはしなかったので、てっきり眉唾の類だと伍仁は思っていたが、どうも本当だったらしい。そっと酒楽の寝顔を覗きこめば、その頬はうっすらと赤くなっている。たったすこしの残り香でこれなのだ。薫香の威力は人に絶大であるようだ。今後はどうやって酒楽をその幻惑から守るか、気を配る必要があるかもしれない。そういえば、と伍仁は思い至った。柘榴帝には伍仁の姿が見えていた。不思議な力をもつといわれる天帝には、つくも神の姿も見えるのか。薄情そうな笑みと、酒楽を見たときの目のいろの変わりようを思い出す。


「……たかが人間のくせに」


 窓の外が明るくなりはじめている。立ち上がると、寝台横の姿見に映る無表情な自分自身と目が合った。二十歳くらいの青年がこちらを見ている。その背に黒くまとわりつく怒りや殺気、色濃い負の気配。窓から光が伸びてきて、部屋が明るくなるにつれ、黒い気配は影のように薄まっていく。ただ見えなくなっただけだ。いつもそこにある。陽が高くのぼる前に、伍仁は厨へ向かうことにした。もう数時間もすれば酒楽も起き出してくる。何か食べさせなければならない。


「滋養のつくものを、――そうだ。菓子も探しておかないと」


 季節は春、花ひらくころだ。ご飯を食べさせたら菓子をもち、庭園へ散歩に行くのもよいだろう。出不精の酒楽にも、少し外を歩かせなければなるまい。やわらかな風が前髪を撫ぜていく。酒楽のことを考えて歩けば気分も向上し、後宮の花々の間を歩く足取りも軽やかになる。


(酒楽さまが安寧であるなら、他のことはどうでもいい)


 昨日死んだ者も、これから死ぬ者も等しく塵芥だ。今の自分にとっては、酒楽との落ちついた安寧な時間こそがすべてなのだった。

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