第5話

 宮につき、眠りからさめた酒楽は、猛然と画を描きはじめた。「何をしているのか」「休んでは」と聞いても「黙れ」の一点ばりだ。真夜中をすぎて外は白みはじめている。伍仁ですらくたびれているのに酒楽は画が完成するまで休まなかった。ただ一度だけ、夕方に会った蓮楽人が春画の一枚を見つけて訪れてきたときには、さすがに筆を置いた。蓮楽人は酒楽を見るなり、怪訝と顔をしかめた。


「ずいぶんとお疲れのようですね。すいません、こんな夜更けに」

「いや、よく見つけてくれたな。どこにあった?」

「この宮から離れた建物の裏手です。植えこみの中なので、誰にも見られてはいないかと」

「助かる」


 蓮楽人は約束どおり、隣室にあった火薬をごっそりと持ち帰った。持ちきれぬ分はまた後日とりにくると言うので、伍仁は「いったい何に使うのか」と仰天したが、酒楽はどうでもよさげに頷いただけだった。その後も酒楽は画を描き続け、遠巻きにうかがっていた伍仁はやっとそれが何の画かわかりはじめた。遊舎貴人の美人画だ。見事な筆さばきで仕上げてしまうと、酒楽はようやく筆をおく。もう駄目だと寝台に倒れこんでいる。


「なにも今日描いてしまわなくても」

「だめだ。いま描かねば……わすれて、しまう……」


 酒楽が描いたのは遊舎貴人の最後の姿だった。黒い水面に浮かぶ鮮やかな布、虚しく空をかく白い腕。まさに美蛾娘が所望したとおりの美人画に仕上がっている。


「私のせいだ。私が、あのとき」


 半分夢うつつの酒楽はつぶやきながら寝落ちそうだ。伍仁は寝台の横に腰かけ、髪をすいてやり「そんなことは」と言いかけてやめた。そうかもしれない、そう思った。おそろしいことだが。考えてみれば、美蛾娘が現れたときに酒楽は驚かなかった。厄介なことになったという顔をしたが、その目のなかにひとかけらの驚きもみえなかった。


(そういえば、酒楽さまは船を出る黒官の様子をよく見ておられた)


 黒官たちは美蛾娘とつながっている。後宮へ入りすでに五年、聡い酒楽は当然それを知っている。船から女宮のほうへ降りた黒官たちは、おそらく美蛾娘の宮へ報告に行った――そう悟った酒楽には、美蛾娘の来訪がわかっていたのではないか。すくなくとも予想はしただろう。遊舎貴人の美人画を描いているところへ美蛾娘が来れば、どうなるか。


(酒楽さまは、美蛾娘の画を断わり続けていた。にもかかわらず、遊舎貴人を描いたとなれば)


 美蛾娘は酒楽に甘い。立場が悪くなるのは遊舎貴人のほうだ。おそらく、どちらでもよかったのではないか。遊舎貴人を説得できればよし、そうでなくとも美蛾娘が来れば、酒楽の身の安全は守られる。


(どちらに転んでも助かる、そのように計算されていた――……)


「伍仁」


 はっとした。思考に沈みこむあまり、髪を梳いていた自分の手は止まっている。酒楽が身を起こし、こぼれ落ちそうなほどに目を開き凝視してくる。自分が何を考えていたのか悟ったようだった。


「遊舎貴人を殺したのは私だ。軽蔑したか?」

「……わかっておられたのですね。あの場に美蛾娘が来ると」

「いつ来るかまではわからなかった。来ないかもしれないとも思った。画を描きさっさと立ち去るつもりでいたのに、来るのが早すぎたのだ」

「そうですか」


 意図的ではないにせよ、酒楽のせいでないとは言いきれない。もっと必死に遊舎貴人を救おうと思えばできたはず。それを酒楽はしなかった。殺そうと思ったからではない、ただ無関心だっただけだ。他人の命に、自分以外の人間に。


(酒楽さまのありようは、いずれご自身に災厄を呼ぶ。私がなんとかしなければ)


 けれど伍仁は諌める言葉をもたない。疲弊した少年はすでにこたえたように見える。すくなくとも今宵かぎりは。


「伍仁、軽蔑するか? これが私なのだ」


 酒楽は己の片袖をぎゅっとつかんできた。寝不足で隈の浮く両目がすがるように、じっとそこにある。


「私は――」

「見捨てないでくれ。私には、お前だけなのだ」


 寸の間、からかおうかと考えて止めた。これはよくない。口調があまりに真剣だ。


「馬鹿なことを。私はただびとではない。価値観も人間とはちがいます。たったこれだけのことで見限ったりしませんよ」


 伍仁は翡翠飾りの付喪神だ。齢千年を超える自分にとり、気に入った者以外の命など塵芥にすぎない。それこそ冷淡さでいえば酒楽にも勝る。酒楽は誤解している。いくら伍仁が人の命の大切さや道義を説いても、それはあくまで、人間である酒楽のためだ。真にそうしなければならないと考えているわけではない。酒楽が人らしくあれるよう、付喪神である自分の悪影響を受けないようにと、ことさら人らしく振舞っているだけであって、それを「伍仁はやさしいのだ」と勘違いされている。


「坊ちゃま、もうお休みになってください。おそばにおります」

「ん……」


 酒楽は自分の片腕を抱えるように眠りにつく。逃げるとでも思ったのか。 寝台の下に腰かけ、その様子をただ眺めていた。


(酒楽さまのために何人死のうが構わないのに)


 そういえば、消えた春画の最後の一枚はどこへ行ってしまったのだろう。 その回収に必要なら、拾い主を殺してきてもいい。できるだけ酒楽に気づかれぬよう、期待に添うように優しいありようを装い続けるのは、伍仁にとって実に厄介なことである――……。

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