第4話

「めずらしい取りあわせよのぅ。遊舎貴人と廿野酒楽。なんじゃ、画を描かせておったのか?」


 酒楽はこうべを垂れ、床の一点を見つめ黙っていた。遊舎貴人のほうがおびえ恐縮している。


「は、はい。美蛾娘さま、ご機嫌うるわしゅう」

「よい、楽にせよ。近くを通りがかっただけじゃ、すぐ帰る」


 かすかに安堵の息をもらした遊舎貴人の横を通り過ぎ、美蛾娘は酒楽の手元をのぞきこんだ。


「何を描いておる、美人画? 見事なものじゃ」

「おそれいります」

「廿野酒楽よ、妾のことも描いてはくれぬか。以前は日が悪いと断られてしもうたが、今日は時があるのであろう?」


 酒楽は床を見たまま逡巡し答えた。


「おそれながら、今日は遊舎貴人さまとのお約束で手一杯でございます。美蛾娘さまとはまた、日を改めさせていただければと」


 この答えに遊舎貴人と伍仁はぎょっとしたが、美蛾娘は意外にも寛大だった。


「あいかわらず面白いやつ。よい、妾はおぬしが気に入っておる」


 美蛾娘は右手の障子戸を開けはなし、船べりに優雅に腰かけた。揺らぐ黒い水面に月が浮かんでみえる。おだやかな風がさらさらと、やさしく川沿いの柳葉を揺らしていた。


「よい夜じゃ。遊舎貴人、あれが見えるか?」

「は、はい?」

「あれじゃ。ほら川べりの」


 機嫌のよい美蛾娘は外の景色を指さしていた。真っ暗な川岸、遠くに見える橋の近くだ。


「どちらでございましょう?」


 美蛾娘は、おずおずと近寄ってきた遊舎貴人の衣をむんずと掴み、川へつき落とした。


「っ!?」


 派手な水音に酒楽が顔を上げる。遊舎貴人は溺れていた。川の流れはゆるやかだが、衣がまとわりつきうまく動けないのだ。船のそばに控えていた侍女たちが慌てて助けようとしたのを、美蛾娘が止めた。


「ほほほ、うつくしい舞であることよ。見よ、廿野酒楽。今こそ遊舎貴人の描きおさめであるぞ」


 水がはげしく波打ち、遊舎貴人のまとう紅金の衣が黒い水面に金魚のように広がった。


「た、たす……けっ……!」


 水音の合間にかすかな悲鳴がきこえる。白く伸ばされた手が空を掻くのを、川べりの黒官たちはただ眺めている。川へ助けに行こうとしたおつきの侍女たちは、黒官たちに押さえられた。


「いけません酒楽さま!」


 伍仁はとっさに叫んでいた。茫然と酒楽は腰を浮かしかけていた。静止も聞こえたかどうか、川を見てほぼ無意識に動こうとしたようだ。


「でもはやく、助けに――」

「ほほほ、なにを馬鹿な」


 美蛾娘は酒楽の横にするりと近寄った。蛇のようにしなだれかかり酒楽の動きを止めている。


「よく見よ。遊舎貴人のいちばんうつくしい姿を用意してやったのだぞ。美人画を描くのであろう? だから手伝ってやったのじゃ。やはり美人画というからには、一番うつくしいころあいを描かねばなあ。ほれどうじゃ、うつくしかろう? くく、溺れておる! あんなにもがいてさぞ苦しかろう。ほれ、何をしておるちゃんと見やぬか。はやく描かんと沈んでしまうぞ」


 美蛾娘は酒楽に目をそらすことも許さない。棒立ちになった酒楽の顔をやさしく固定し、溺れている遊舎貴人へと視線を縫いとめた。


「あ、……」


 酒楽は白い顔で遊舎貴人が溺れるのを眺めていた。頬は強張っているが、ぎりぎりで理性を保っている。目に浮かぶのは知性の光で、恐怖や動揺には染まりきっていない。すぐそばで笑む美蛾娘は、酒楽が恐怖にのまれる瞬間を見たいようだった。伍仁は以前、美蛾娘に会ったときのことを思い出していた。そのときに酒楽が言ったこと。


「酒楽さま」


 その視界を遮るよう船べりに立つ。遊舎貴人の姿はこれで見えなくなっただろう。酒楽と目があった。すがるような色をしている。恐怖に崩れる一歩手前だ。


「お気をたしかに。その女はあなたが、怖がったり驚いたりするのを見たいだけです。弱みを見せてはなりません。以前そうあなたが仰ったのではないですか」


 美蛾娘は残酷な女だ。人の苦しみが最上の悦びである彼女にとり、酒楽は得がたい玩具なのだと、前にそう彼自身が言っていた。


(酒楽さまはいつも冷静で常人より理性の幅が大きい。美蛾娘はその強固な理性をなんとかして恐怖で崩してみたいのだ) 


 悪鬼とおそれられる美蛾娘が酒楽にだけ甘いのもそのせいだ。普通なら「美人画を描け」という頼みを断った時点で、酒楽は殺されていてもおかしくない。それを何度も断わり続けて寛大にも許されているのは、ひとえに酒楽が恐怖に屈する瞬間を待っているからだ。後宮へ入った日からつかず離れず、ことあるごとに美蛾娘は話しかけてきて、贅をこらしては甘やかし、ひとさしの惨たらしさを残していく。酒楽が冷静であるかぎり、美蛾娘がその命を奪うことはない。けれど反対に、すこしでも恐怖を見せれば殺される可能性が高い。後宮に入り、早々にそれを看過した酒楽は、美蛾娘の前では無機質に見えるように気をつけていた。感情をなるだけ表に出さず瞳の光を消してしまうのだ。冷静に、ただ理知的に動く人形のように。伍仁はじっと酒楽の目を見つめささやいた。


「大丈夫、いつでもおそばにおります」


 案ずるなと想いをこめ見ると、酒楽は潤む目をかくすよう瞼をふせた。 瞬きのあと現れたのはいつもの彼だ。両目にうつる理性の光、感情を廃しゆるぎない知識の熾火おきび


「――ほんに、おぬしは面白いのう」


 言葉とは裏腹に美蛾娘は興味をなくしたように酒楽から離れ、船べりに近づき外を見る。水音はすでにおさまっている。振り返らなくとも遊舎貴人が溺死したことはわかった。侍女の慟哭に耳をすませ、美蛾娘はうっとりと笑っていた。


「さて、今宵も愉快な余興であった。ときに廿野酒楽、おぬし柘榴帝にまだ会っておらぬであろう? 近々、女宮で祝水しゅうすいうたげがあるぞ。そこへ今宵の美人画をもってまいれ。ついでに帝にご挨拶すればよい」


 酒楽は目をふせ床の一点を見てお辞儀をする。両手を顔の前に、頭をすこし低くする正式な宮廷の挨拶で、この場合は感謝の意だ。美蛾娘はくつくつ笑い踵をかえした。最後に流し目でくれられた視線が「諦めぬぞ」と言っているようで、伍仁は身震いしてしまう。美蛾娘と黒官が去り、完全にその気配が消えても、しばらく酒楽は川面を立ったまま眺めていた。そこに浮かぶ艶やかな布と遊舎貴人の死体。


「大丈夫ですか?」


 びくりと身を震わせて、少年はようやくため息をついた。


「ああ……つかれた」

「帰りましょう。あの角までは、とりあえず歩いてください」


 意図を悟った酒楽はよろよろと船を降り、人目につかぬ角まで歩くと背にもたれかかってきた。


「着いたら起こしてくれ」

「構いませんよ? そのまま寝台までお運びしますので」

「起こせ。まだやることがある」

「やること……?」


 背負ったとたん寝息が聞こえてきてどうしようかと思う。ここから酒楽の宮までは遠くない。伍仁はできるだけ時間をかけて歩くことにした。人目を避け、遠回りにそっと少年を運んでいく。せめてすこしでも長く休めるように――。

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