第3話

 女宮と男宮をへだてる巨大な河は、夜遅くなると墨を流したように暗くなる。その波間の上に芸舎の船が一隻、明かりをともし浮いていた。遊舎貴人が用意させた中型船には屋根があり、障子を閉めれば部屋としても機能する。しずかな船内に酒楽が足を踏み入れると、中に艶やかな貴人が座していた。


「なぜ呼ばれたか分かるな、廿野酒楽」


 前置きもなく発せられた声は怒気に満ちていた。女宮の踊り手である遊舎貴人は「踊聖ようせい」の名にふさわしい美人だ。目元にするどくひかれたべに、髪が踊りでつかう型に結われているのは、さきほどまで練習をしていたせいだろうか。よく見れば、衣装もうす絹の舞衣の上に羽織を身につけただけの薄着だった。春画の件を耳にし、急いできたのかもしれない。伍仁の姿は酒楽以外には見えないので、眺めまわす視線を感じたわけでもないだろうが、遊舎貴人は扇で顔の下半分を嫌そうに隠してしまった。ほっそりとした指で扇を操る挙措も優雅だ。汚物をみるような目であることだけは残念だが。酒楽は平然ととぼけてみせた。


「さて、なぜ呼ばれたものやら。ところであなたの宮では、こんな夜更けに黒官をつかい人を呼びつけるのが流儀なのですか?」

「なっ、無礼な! 画家風情が」


 色めきたったのは遊舎貴人の背後に控えていた侍女だった。酒楽は口角をつりあげる。


「無礼? 急な呼び出しにもこうして足を運んだのだ、礼はつくしていると思うが。それに画家風情とおっしゃるが、後宮での芸事の種類に優劣はない、あるのはくらいの上下のみ。でなければ主観にのっとり、踊りの嫌いな私なぞは、舞踊家のことを卑下してしまうでしょうなあ。ただひらひらと、頭を使わずに動いていればいいのだろうと」


 場が真空になったようだった。あまりの言いようにみな絶句している。 つらつらと酒楽は喋り続ける。


「しかしそうならないのは、国の創始者である烏羅磨うらま大公が『後宮での芸事はすべて平等』と定められたからです。私はあなたの芸を尊重するし、あなたも私の芸を尊重する、そうでしょう? ちょうど私たちの位は貴人で同格だ、なら何を無礼とあげつらう必要がありましょうや」

「しゅ、酒楽さま……」


 見かねて伍仁は声を出した。怒っているのか。そういえば寝起きの酒楽は常に不機嫌だ。こんな風に立て板に水で喋り出すのも、彼の機嫌が悪いときの癖だった。目も向けず少年は蚊を払うような仕草をする。いいから黙っていろということらしい。不自然なその動作を船内の誰も気にとめなかった。頭に血がのぼり、それどころではなくなっているのだ。侍女がすわと立ち上がりかけたのを、遊舎貴人が鋭く止めた。


「下がりゃあ! 邪魔するんじゃないよ」


 ものすごい勢いで睨みつけられた侍女は、しおしおと静かになる。おそろしい。芸事で名のある貴人はみな気位が高いが、目の前の遊舎貴人も並々ならぬ気迫を内に抱えているようだ。


「廿野酒楽。私は気が長いほうじゃない」


 遊舎貴人は船内の人払いをさせた。控えていた数名の者、先ほど叱責された侍女、それに船内の武装した黒官たちにも全員に外へ出るように命じる。 女宮のほうへ出て行った黒官たちは数名が川岸に残り、残りは帰っていく。川岸に留まった黒官たちは、遊舎貴人と酒楽に間違いがないか外で見張る役目だ。障子が閉じれば個室となった船内に遊舎貴人と酒楽、それに透明にちかい存在の伍仁が残される。酒楽は、出て行く黒官たちの様子をしばらく眺めていたが、遊舎貴人が春画を床に叩きつける音に視線を戻した。


「これは、どういうつもりだ」


 しわの寄った春画、そのすぐ横に遊舎貴人は抜き身の短刀をつき刺した。 船を伝う振動に思わず竦みあがってしまう。ほの明かりに研ぎ澄まされた刃が白く、つめたい光を放っている。


「しゃ、酒楽さま。どうか冷静に」


 伍仁はそっと短刀のそばに近づき、いつでも止められるようにと構えた。遊舎貴人の目つきを見れば、いつ激情し斬りかかってきてもおかしくない。 酒楽は一瞬馬鹿を見るような目をしたが、春画へと顔を戻した。


「これは、どなたが見つけましたか?」

「男宮にいた黒官のひとりだ! 顔見知りだったからよかったものの、でなければ殺さねばならぬところだった。なぜこんな、私になんの恨みがある!?」

「恨みなどありませんよ。しかし黒官を殺すとは物騒な――私も殺すと?」

「そうしてほしいか?」

「私を殺せば、あなたも捕まり殺されますよ」

「案ずるな。お前を殺し私も死ぬ」


 遊舎貴人は本気だ。春画に描かれ辱めを受けたままでいるくらいなら、酒楽を殺し自死するとその目は告げている。名誉のため、あるいは紙に描かれたもうひとりのためかもしれない。伍仁はそこに描かれている女性が誰だかわからなかった。遊舎貴人の相手は貴人ではない、位の低い側女の類だ。これほど遊舎貴人が激高しているのも、地位の低い相手の身を慮ってのことかもしれない。急に遊舎貴人が憐れになってきた。これは全面的に酒楽が悪い。誰だって秘め事をこうもつまびらかに描かれ、それが人手を伝わり戻ってくれば気分が悪い。幼き日よりそばにいる自分はまだ酒楽の味方だが、それでも謝るべきだと思った。


「酒楽さま、はやく謝罪を。ほら!」


 半眼になった酒楽はふと眠そうな顔をした。本当に眠いのかもしれない。


「酒楽さま!」


 すうと目を閉じかけた酒楽はすると次の瞬間、遊舎貴人に微笑みかけた。ふんわりと。


「なぜ、と聞かれましたな。わかりきったこと、あなたが美しいからです」

「なに……?」


 怪訝と眉をよせる遊舎貴人の横で、伍仁はあんぐりと口を開けていた。謝れと言ったのに何を言い出すのだ。


「遊舎貴人、私は真に描くべきものしか描きません。先日、たまさか天河のほとりを歩いていた折、私はこの究極の美を見ました。目が離せなかった。踊聖(ようせい)とうたわれるあなたの姿に、すっかり惹きこまれてしまったのです」

「見えすいた世辞を」

「いえ、世辞などではありません。誰が死罪になると知り、生半可な気持ちでかようなものを描きましょうか。私はすっかり魅了されてしまったのです。いまここで美を記さねば画聖としての名が廃ると思いました。いけないこととは知りつつも、気づけば画筆を握りしめて――不快な思いをさせてしまったことは謝ります、申し訳ない。この画は、誰に見せるつもりもなかったのです。ただ部屋で色塗りを終えこっそりと乾かしていたものを、件の鎮官が見つけて持っていってしまったのでしょう。なにしろこの廿野酒楽はあなたの美を十全に描く腕をもっておりますからなあ。見た者がこの画を欲しくなっても、いたしかたないかと」

「ふざけるな! 私を馬鹿にしているのか!?」


 遊舎貴人は頬を真っ赤に染め、扇を酒楽へ投げつけた。まともに頬で扇を受けた酒楽は痛みに顔を歪めたが、すぐに微笑みを取り戻した。


「いえ、とんでもない。けれどお怒りもごもっとも、気がすまぬというのならどうぞ、今ここで私を殺されるがよろしい。黒官に大罪人として引き渡されても構いません。ただその前に、ひとつだけお願いを聞いてはくれませんか」

「願い?」


 ひくりと遊舎貴人は頬をひきつらせる。これまでの怒りと混乱のせいか、頬は紅潮し目がうるんでいる。心なしか酒楽を見下ろす目が甘みを帯びている気がして、伍仁はひとり仰天していた。酒楽は愛らしい顔をしている。 歳も十五と若く、黙っていれば万人に好まれる可憐な少年だ。夜更けに密室で、叡明と名高い酒楽に「うつくしい」と褒め殺されれば、その心に隙ができてもおかしくはない。酒楽はほの暗い笑みを浮かべていた。


「あなたを描きたいのです。今ここで春画などではない、踊聖・遊舎貴人の、最高の美人画を描かせていただきたい」


 遊舎貴人は酒楽のことを上から下まで三度は眺めた。疑念がありありと見てとれる。


「お前、誰の美人画も断っていると聞くぞ?」

「これまで描いてくれと言われた方には、お断りしてきました。美人画にふさわしい美ではなかったもので。かの美蛾娘びがじょうに頼まれたときですら、丁重にお断り申し上げたくらいです。けれどあなたは美しい。最高の一枚に仕上がるでしょう」


 ひくりと、遊舎貴人は笑みをうかべかけた。後宮の美蛾娘といえば、見た目こそ美しい魔性の姫だが、残忍な性質と傲慢さからみなに恐れられている権力者だ。酒楽は彼女のことを〝悪鬼″と評していた。


(人を殺すことを何よりの楽しみとする、人でなしだと)


 富も権力もある美蛾娘こそが実際、今の後宮の支配者であり、彼女に逆らった者は片端から殺されてしまう。酒楽は美蛾娘に目をかけられているので、多少の我儘は許される立場にいるが、その他の者はみな誰しも、大なり小なり被害をこうむっている。遊舎貴人も思うところがあったのだろう。酒楽が「美蛾娘の美人画を断った」と聞くと、語調をすこし和らげた。


「噂にたがわず豪気なやつだね。そこまで言うなら、一枚と言わず何枚でも描かせてやるさ――ただし春画は二度と描くな」

「おそれいります」


 酒楽は懐から綴じ紙と鉄筆を取り出した。


「それは?」

「私の開発した絵筆です。鉄を削って色を出すので、水に濡らす必要がありません。いつでも手に取り、どこででも画を描くことができるのです」

「なるほど。それであの宵も私を描いたというわけか」


 愚かな、と口調は刺々しいが、遊舎貴人はすっかり機嫌をなおしていた。心なしか頬は染まり、酒楽を見る目は蕩けている。


「酒楽さま、これが狙いだったので?」


 うんざりと伍仁が問えば、酒楽は絵を描く振りでちらりと笑みを寄越してきた。悪戯っ子の笑みだ。そもそも、金が要り用だったから酒楽は春画を売ろうとしていたわけで、並べ立てた遊舎貴人への美辞麗句に真実はひとつもない。いいように相手を言いくるめ、人好きのするかんばせで欺いているだけだ。そうしなければ窮地に陥っていたかもしれないが、遊舎貴人の潤む視線をみると複雑な思いになる。


(酒楽さまは他人をどうでもいいと思っている。誰がこんな子に育ててしまったのか) 


 そのそばに一番長く仕えたのはもちろん自分だが、思いやりある子に育つように気を配ってきたつもりだった、それなのに。大体、酒楽は自分以外に気を許せる者がいないように思う。実の家族とは疎遠だし、これという友もない。頭が良すぎるから、天才がゆえだとこれまでは考えてきたが、どうもそれだけではなさそうだ。酒楽は他人に対して情をもてないのかもしれない。人に興味がない。だから周囲の人間を道具のようにあつかい、欺くことをなんとも思わないのだ。ただそれだけを見れば最低なのだが、伍仁には思いやりをみせたりもするのでわからない。完璧に情のない人間というわけでもない。


(酒楽さまは私にやさしい、人一倍だ) 


 本音をみせるのも心から笑うのも自分とだけ。全身全霊で甘えられ、好意を表現されるのは嫌ではない、むしろうれしい。それがどういった類のものであれ。けれど酒楽が情をみせるのは自分にだけなのだ。それはなぜなのか。なぜ――己が人間ではないからか。伍仁だけが必要とされ続けるなら、酒楽は一生伍仁だけのものだともいえる。我儘な独占欲が顔を出し、わけもなく恥ずかしかった。熱くなった頬をごまかそうと障子扉へ目をむけたとき、慌ただしい気配を感じた。なにか外で揉めている、誰かくる。室内のふたりが異変に気づいたときにはもう、断りもなく障子が開かれていた。とっさに遊舎貴人の前に置かれた春画を自らの懐におさめていた。ぎりぎり誰の目にもとまらなかっただろう。人目に触れないように隠すなら今しかなかったのだ。酒楽が苦虫を噛みつぶした顔で一連の動きを見ている。厄介なことになったとその表情にもろに出ている。


「ずいぶんと楽しそうじゃ。妾も混ぜておくれ」


 傾城の美女、後宮の悪鬼。呼び名はいくらでもあるが、そこに悪夢のような麗人が立っていた。すそ衣を太ももまで切り上げ、すらとした生足を見せびらかしている。豊満な肉体に文句なしの美貌。紅をひいた口もとがゆるやかに吊り、興奮を宿した黒目は殺気に満ちている。


「美蛾娘(びがじょう)、さま……」


 遊舎貴人の声はおびえ震えていた。無理もない、すでに千人を殺したと噂される後宮の支配者・美蛾娘は、出会うだけで死を呼びよせる存在だ。 甘い死臭があっという間に船に満ちていく。

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