第2話
消えた春画は夕方になっても見つからなかった。
後宮は広い。木々も多い。
茜色に暮れなずむ道の真ん中で、歩きつかれた酒楽はついに立ち止まってしまった。頑として動こうとしない、散歩を嫌がる犬のようだった。
「もう疲れた。宮へもどる」
「は!? だめですよ」
「なぜ?」
伍仁は人の背の高さの塀にのぼり周囲を見ていたが、慌てて酒楽のそばへ飛び降りた。
「誰かの手にわたる前に見つけないと、死罪です!」
「いいじゃないか、拾ってもらえば。それから対処すればいい」
「対処って」
「あの春画は空想の産物じゃない、私がこの目で見たことだ。貴人同士のむつみごとを、天に広くしらしめる度胸のあるやつが拾ってくれれば、面白いんだがな」
伍仁は呆れてうんざりとしてしまった。
「まさかとは思いますが。ここ最近、夜に頻繁に外へお出になられていたのはそのためで?」
「今ごろ気づいたか。この後宮で春画の題材にはこと欠かぬぞ」
愉快だと笑う酒楽は、袖口から自作の望遠鏡を取り出してみせる。なるほど、それを使ってよなよな彼は覗きをしていたわけだ。悪趣味すぎる。
「しかし、画には酒楽さまの署名が入っているのですよ? 見つかれば言い逃れはききません」
「誰に見つかるかにもよるだろう。画を拾った者は私か、描かれた本人に話を聞きにいく可能性が高い。題材のほうへ向かった場合、本人にとっては死活問題だ。むしろ必死になって隠蔽しようとするだろうさ」
「まあ、そうかもしれませんが」
天帝以外とのむつみごとは、後宮では禁じられている。それこそ見つかれば即死罪だ。後宮には男女あわせて数千人が仕えるが、そういった過ちを招かぬよう、居住区は男宮と女宮にきれいにわかれている。往来も巨大な人工川により制限されているくらいだ。それでも、年ごろの才人たちが集められた場だ。なんとか人目をしのび、逢瀬を重ねようとする猛者たちもいるにはいるのだろう。酒楽が描いたのは、それら死を覚悟し艶事にのぞんだ貴人たちの姿だった。
「はやく回収しないと、もう先帝はいらっしゃらないのです。下手なことをすれば危ういですよ」
あの春画が人手にわたれば、確実に面倒になる。酒楽はすでにみまかった先帝には可愛がられていたが、新帝の柘榴帝にはまだ会ったことすらないのだ。代替わりしてからは後宮内での立ち位置もあやふやだった。柘榴帝の寵愛を得ぬまま面倒事にまきこまれたら、確実に誰もかばってくれない。
「私の地位を案じているのか? 案ずるな、誰もあのぼんくらに守ってもらおうなどと期待はしていない」
「ぼ、――なんと恐れ多い」
「事実だろ。この酒楽に碁を挑みにもこない。先代の
「あなたのところに来ないからといって、碁が嫌いだとは限りませんよ。碁聖のほうへ行かれているのかも」
「天下の碁聖より私のほうが強いぞ。十勝零敗だ。後宮の者なら誰でも知っている」
ふん、と少年が見上げた空は、紫から紺碧に染まりつつある。春宵のかすみ月のそばには一番星が出て、あたりはなんとも風情ある空気になっている。折よく琴と笛の音が聞こえてきたのは、ここが
「やかましいな」
「酒楽さまは楽を解されませんか」
「空気の振動、ただの音波だ。嫌でも聞こえてしまうのに、誰に断りもなく弾くのは迷惑だ」
「間違えました。酒楽さま、風流を解されないので?」
「解しているとも。ただそれをいつ味わうかは、私が決めることだ。こんな風に無理やり音を押しつけられれば腹立たしい。もし、私の宮がこの近辺なら、楽舎を爆破していたかもしれないな」
「なんと」
物騒な、という言葉はのみこまれた。砂利を踏む音がして、物陰から突如、少年が現れたのだ。
「あの、
酒楽は驚いたのだろう。一瞬固まったあと、じろじろと少年を眺めた。 幸いにも、酒楽と伍仁が話しているのは聞かれなかったようだ。現れた少年は大人しく話しかけられるのを待っていた。
「お前は誰だ?」
「
お見知りおきを、と優雅に礼をする彼は新米楽人のようだった。紅服をそつなく着こなし、真っ直ぐに酒楽を見つめている。美丈夫ぞろいの後宮のなかでも、ハッとさせられる凛とした面差しだ。歳は酒楽と同じくらい、十四、五か。同じ年頃といっても、見るかぎり酒楽とは性質が大きく異なる。酒楽は猫に似ている。見た目も愛らしい、甘やかしたくなる顔つきなのだが、目の前の蓮という少年はしっかりとした信念のある、芯の通った凛々しさがあった。華美でなく質素なうつくしさ、柔でなく剛の気だ。
(なんだ……?)
力強い眉、その下の少年の目を見たとき、伍仁は嫌な気配を感じた。その背によからぬ想念が見えたのだ。もっとよく見ようと目を凝らすと、それは黒い炎、うらみつらみの情念のように思えた。
「蓮楽人。私になんのご用かな?」
「叡明なる廿野酒楽さまに、こんなことを申し上げるのも心苦しいのですが」
「口上はいい。要点を」
「近ごろ、大量の火薬を買い占められたとのお噂を耳にしました。それをすこし分けていただきたいのです」
「おもしろい」
「酒楽さま!?」
思わず叫んでしまったのを、酒楽は当然無視した。
「蓮楽人、火薬を何につかう?」
「それは」
「いや、無粋だったな。いいだろう、すこしと言わずいくらでもわけてやる。ただし条件がある」
「条件?」
「実は探しものをしていてな。これだ」
酒楽が懐から取り出してみせたのは、自作春画の一枚だ。なにを言われるかと固まっていた蓮楽人は、それを確認するや呆気にとられた顔をした。ぽかんと丸くなる目は年相応に幼くみえる。
「これは。――この画は、酒楽さまが?」
「そうだ。今朝がた窓を開けていたら、これと似たものが外へ飛んでいってしまった。見つからなくて困っている」
「はあ」
「それも三枚も」
「三枚も」
蓮楽人は反応に困っていた。実物とみまがうほどの春画から目をそらすこともできず、唖然と画の中にいる貴人の名を彼は口にした。
「
「おっと、このことは内密に。なくなった春画を一枚でも見つけ届けてくれたら、いくらでも火薬を分けてやろう。私の宮はわかるな? よし、ではまた」
さっさと踵をかえした酒楽は気づかなかっただろうが、伍仁は見た。蓮楽人が夢から醒めたように驚き、顔を真っ赤にしているところを。無理もない。年ごろの少年にあの春画はきつい。酒楽が見せたのは男の楽人同士がむつみあう、一種えぐみある画だった。楽舎にいる蓮にとっては顔見知りの痴態だったようだし、さぞびっくりしたことだろう。ひきかえ、その痴態を観察し、平然と画におこしてしまう酒楽はやはりおかしい。正気が疑われる。
「酒楽さま、つかぬことをおうかがいしますが。もしや、何らかのご病気をめされているのでは……」
「言いたいことはわかるが、黙れ。私はそういう次元で生きてない」
重くため息をついた酒楽は「疲れた」とごちた。
「おぶってくれ。もう一歩もあるけない」
「構いませんが、人が来たら降ろしますよ?」
体力のない酒楽をこれ以上歩かせるのは無理だろう。そう判断し少年を背負ってやった。ほどなくして背中から寝息が聞こえ始める。陽もくれ、すでにとっぷりと闇が空からおりてきた。夜目のきく伍仁はしかたなくひとりで、酒楽を背負ったまま春画を探したが、角を曲がる直前で少年を揺り起こすことになった。
「酒楽さま、起きてください」
「ん……なに、なんだ」
「人です。宮の前に
夜闇に明るい火明かりが複数。黒装束で武器を手にする彼らは、後宮で唯一武装を許された神官、
「夜分遅く失礼、廿野酒楽貴人に、急ぎ伝えたい要件がございます――!」
黒官たちはものものしい雰囲気で、閉じた酒楽の宮の門扉をたたいている。ただごとではない。
「酒楽さま」
止めようとしたのに、背から降ろしたとたんに酒楽は目をこすり歩いていってしまった。
「何事だ? 廿野酒楽はここにいるぞ」
「っ、失礼。
遊舎貴人。女宮で地位の高い才人のひとりだ。
「はなし? 私にはないが」
「あなたの画のことでお話があると仰せです」
ぴしりと空気が固まった気がした。画のことで、それはつまり。
「ふうん。一枚は見つかったかな」
酒楽は大あくびをし、観念したように黒官たちについていった。
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