廿野些事―春画
冷世伊世
第1話
「飽いた。ここを出たい」
それが
またかと思った
隣室から出てきた可憐な少年は、寝台に転がり呆けたように天井の
「いつも申し上げておりますが、身なりには気をつけてくださいよ。ここは天下の後宮なのですから」
「馬鹿馬鹿しい」
は、と鼻であしらった酒楽は、十五の少年にしては細すぎる腕を宙へ伸ばした。白く骨ばった指は筆をもつにはいいが、武道などの争いごとにはむかない。べつに剣を持つ必要もないし、構わないといえば構わない。けれど、もうすこし肉をつけてもよいのではと伍仁は思う。その痩せ加減をみるたびに、つい酒楽の好物を用意してしまう。つまり甘味、茶菓子、
「
「ええ、いま準備しておりますとも、坊ちゃま」
「坊ちゃまは止せ」
むぅと尖らせた口もとがしだいに角度をあげていく。鋭かったこげ茶の瞳が和らぎ、伍仁がいそいそと寝台脇に茶菓子を運ぶころ、酒楽は腹を抱えて笑っていた。不気味だ。
「……なにかおかしいので?」
「伍仁よ。お前、今いくつだ?」
「私でございますか」
寝台の向かいに大きな姿見があり、そこにうつる自分自身と目があってしまった。緑一色の衣を着て、長い黒髪を後ろでまとめた二十代くらいの青年が、呆れ顔でうんざりとしている。鏡の中の自分は疼痛をこらえるよう、黒目をついとふせた。
「正確にはわかりませんが、今年で千五百歳ほどかと」
「くくっ、ならお前にとって私はまだ赤子のようなもの。そうだろう?」
「はあ、まあ」
「しかしな、人間は十五にもなれば自立し成人している。この酒楽とて、才を認められて叡明とうたわれ後宮へ入り、すでに貴人の
黙ってうつむき茶を淹れることにした。屁理屈だ。どうでもいい。要するに子ども扱いするなと言いたいのだろう。
「正式な名でと仰いますが、そういう酒楽さまは私を伍仁と呼ぶじゃないですか」
「なんだ嫌か? 一度も否定しないから、嫌ではないのかと思った」
「本名のほうが良いか?
「けっこうです。なんとでも」
かってにしてくれと思ったら、起き上がった酒楽が悪戯っ子のように覗きこんでくる。彼の左耳で揺れる特大の耳飾り、親指ほどもある翡翠の丸玉が自分の本体だった。百年を経た名器には魂がやどり、小さな神が棲みつくといわれている。伍仁は、翡翠の耳飾りの付喪神だ。元は酒楽の曽祖父につかえていたが、曾祖父の死後、かびくさい蔵で眠っていたところを、小さき日の酒楽に叩き起こされたのだ。
(『私に仕えよ』と、五歳の幼子に言われたときは、どうしてやろうかと思ったが)
小憎らしいその子どもが、並外れて明晰な才人であり、それゆえ生きづらく苦労を重ねる身だと知ったとき、伍仁は彼に仕えると決めた。どうせ人間はすぐに死ぬ。もって八十年生きればいいところだ。奇想天外な酒楽はたびたび面倒に巻きこまれ、そのしりぬぐいをしてやるたびにそう思い耐えてきたが、その辛坊もそろそろ限界かもしれない。
(思えば、ここへ来るまでにも面倒を起こされてばかりだった……)
酒楽は並外れた頭脳と画の腕を買われ、わずか十歳で後宮入りしている。
この五年、神童ということで周囲から妬みそねまれ、そのたびに自分が暗躍し骨を折ってきたのだ。すべては後宮で、酒楽が安寧に暮らせるようにするために。それなのに、飽き性の酒楽は最近「後宮を出たい」と言い出した。一度後宮入りした者が外へ出るのはまず無理だった。逃げようとすれば即死罪だし、酒楽はなまじ有名なのだ。
国を長らく統べた先代の天帝から、酒楽はかなりの寵愛を受けていた。見込まれたのは才覚であって色香ではない。けれど、周囲からはそう思われていない。現に「廿野酒楽」について問えば、「先帝の愛妾」とすぐに答えが返ってくるようなありさまだった。後宮にいるものはなにも、全員が全員天帝と伽をするための妃候補というわけではない。音楽・絵画・知戯に詩歌など、芸術に優れたものを天帝は後宮に集め、住まわせている。酒楽などはその典型で、先帝の
(その鳳梨帝も、亡くなられてしまった)
伍仁はその崩御のときのことを、今でも苦々しく思い出す。数週間前、急逝の知らせとともに代替わりしたのは、息子の
伍仁としては、このまま酒楽にはおとなしく後宮で過ごしてほしいと思っている。面倒を起こさず安全な地で、安寧な暮らしを送ってほしいのだ。ひっそりと後宮で黙って暮らせば、
「伍仁、この黒いのは何だ?」
早くも菓子を手にとり、半分かじった酒楽が、菓子の断面を覗きこんでいる。
「
つくも神の伍仁の姿は常人には見えない。だからこうして、宮廷の厨から天帝用につくられた菓子を、いくらか失敬することもできる。どうせ食べきれないくらいに作るのだ。2、3個消えても怪しまれない。
「ふうん」
恍惚と蕩けた目になる酒楽は、ふたつめの菓子に手を伸ばそうとしている。その手を慌てて止めていた。
「なんですかこれ」
酒楽の両手のひらが真っ黒に汚れていた。気がつかなかった。
「放せ。向こうの部屋で火薬いじりをしてたんだ」
「手も洗わずに菓子を?」
「うるさいな。気になるのはそこか」
「え?」
「なら、お前が食べさせろ」
あ、と口を開けた少年はまるで餌をまつひな鳥だ。呆れるやら情けないやらで、そういったことにはもう慣れた気もするし、伍仁は手ずから菓子を運んでやった。ひとつ、ふたつと酒楽は甘味をかみしめ、堪能する。
「ご満足ですか?」
「ああ。お前の能天気さには呆れてしまったが」
「どういう意味です?」
ひくりと自分の頬がつるのがわかった。なんだというのだ。これだけ尽くしているのに、言いがかりもいい加減にしてほしい。酒楽はぼんやりと窓を眺めていた。部屋の小窓が全開で、のぞく青空から春先の強風が吹きこんでくる。風に前髪をあそばせていた酒楽の足元に、窓際の机から紙が数枚飛んできた。部屋中に置かれた書が風にあおられ、バタバタ騒ぎ出す。異様に風の強い日だった。
「窓が開いているぞ」
「はあ。春めいた心地のよい風ですね。酒楽さまも籠ってないで、お外へ出られてみては?」
すると酒楽は生ごみを見る目を向けてきた。なんなのだ。なにか意にそぐわないことがあるときや、自分が失態をおかした際の目つきだった。
「一刻前、私は『窓を閉めろ』とお前に言ったはずだが」
「あ、はい。そうでしたね。でもすこしは換気しないといけませんから」
部屋には古書が多い。埃っぽい書に囲まれた部屋にこもるなら、せめて時おり新鮮な空気をと、気をきかせたのだ。言っている間にも強風が吹き、部屋中の紙という紙があおられる。古書がばたつき巻物の古地図が倒れ、窓際の机にあった紙が数枚、外へと流されていく。
「あ、飛んでしまいましたね。私がすぐに集めてまいります、のでっ……!?」
立ち上がり、窓際につまれていた紙を見て息がつまった。春画があった。 それも大量の、見覚えのある筆づかいと描き口の。明らかに酒楽の手によるものだ。出来映えは誰が見ても絶賛するほど見事だ。立派な芸術作品だ。それはわかっているのだが。
「な、ななななな、なんという」
「馬鹿が。だから窓を閉めろと言ったろ。乾かしてたんだ」
隣にきた酒楽は机上の紙を飛ばさないように押さえ、枚数を確認している。少年のつむじを見下ろし、伍仁は怒りのあまり深呼吸をくりかえした。
(落ち着こう、落ち着いて。私がなんとかしなければ)
努力むなしく、酒楽が手にした一枚を見た瞬間に、伍仁は悲鳴のように叫んでいた。
「まさか、それは
「ああ。なんだ、興味があったか?」
ほら、と差し出された春画に思わず口から呻きがもれた。
「なぜ、このような」
後宮での春画の作成、所持は御法度、死罪だった。城下でも禁制品として裏で売買されるような代物を、酒楽はあろうことか天帝のお膝元で、大量作成していた。
(それも名のある貴人ばかりの!)
酒楽の手にする画を、見れば見るほど酸素がうすまっていく。紙のなかでいやらしく絡まっている男女・女女・男男――いずれも誰それと判別できるほど、位の高い貴人ばかりだ。気品ある昼日中の姿からは想像もできない艶姿だ。しかし、画を見ればそれが誰かは一目瞭然。なまじ酒楽は腕があるので、題材が誰か判別できてしまう。
「見つかれば死罪です! どうして」
「知らんのか? 春画は金になるぞ」
「銭!? 食うにも着るにも困ってないでしょう。俸禄だってあるのに」
「火薬を買うのに金が要ったんだ。後宮暮らしだからと出入りの商人に足元を見られた」
一瞬、伍仁はその言葉に固まった。
(そういえば、隣室には大量の火薬があった。酒楽さまはここ最近、ずっと火薬いじりをされている。それもこっそりと。なんのために……?)
酒楽が気だるげに息をつく。
「どうやら、今から外へ出るしかなさそうだ」
「は、はぁ?」
「足りんのだ。三枚」
その瞬間こそ、伍仁は意識が飛ぶかと思った。消えた春画とは、さきほど窓から飛ばされていったあれだろう。三枚も。もう一度酒楽のもっている画を見る。長方形の紙の左すみに、彼はいつも署名を残している。どんな作品にも必ずだ。そしてもれなく、この春画にも「廿野酒楽」の文字が堂々とあった。おそらく飛んでいった、天下御禁制品の春画にも。
「あーぁ、面倒くさい。お前のせいだぞ」
伍仁は声もなく酒楽の首根っこを引っつかみ、部屋の外へと駆け出していた。暖かな陽射しののどかさは、一瞬にして忘れ去られた。
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