レプタイルの空


 廃工場の屋根は塩害が進んで赤錆びている。直射日光をたっぷりと吸ったそれは素足で踏めばさながら、白雪姫の妃が穿いた灼熱した鉄の靴のようだろう――

 けれどいまそこで鍛錬をする男はそうした身体感覚をも喪失しているのか、もしくはそんな認識を遙かに突き抜けた機能でもそのからだに付与されているのか、その有様はくるくると旋転する黒いつむじ風のようだ。

 黒い。

 その日光の熱を余すところなく吸い取った黒が、ニコラス・ネイルズの目を刺した。カトル・カールの面々が身を寄せているこの廃工場に、無事な窓は殆どない。硝子が割れて風雨の吹き込む虚ろな眼窩めいた様が並ぶ第一工場から、第二工場にあたる建物の屋上で男がなにか奇妙な振る舞いをしている様が目に付いたのだ。


(素振り、か?)


 のぞきこむ視界の下方では、男の武器たる血を通わせた硝子の刃が暗くきらめいている。灼けた屋上に直立する両脚の足運びは、おそろしくしなやかだ。それは垂直の壁面に爪を立てる黒豹の動作にも似る――二本脚でさながら人のように歩きながら、親しげに握手をかわすことさえできる、しかし人喰いの猛獣のたたずまい。ニコラスはこの都市マルドゥックの地下に流れ着いた拷問集団に於いて、消去法で自然まとめ役のようなことをしているこの男――火打石フリントと呼ばれる彼のことをだいたいそう定義づけている。

 交わした言葉は、少ない。

 これから増えるだろうという気も、あまりしない――ニコラス自身が当時まだ、そう思っていた。

 夏だった。

 工場の片隅では"仕事"が進行中で、今日の担当はリッキーだった筈。茹だるような熱気、建物内部にしみついた血と糞のにおい、衣服がたっぷりと吸った自分自身の汗もまたねばりつく血と錯覚される一瞬がある。なんとなく下を見下ろしたまま、シャツの襟もとに指をかけてゆるく風を入れながら、ニコラスは何故だかその瞬間、冷たい水のことを考えている。

 水。容器は表面いっぱいにひんやりと汗をかき、無機質なペットボトルの蓋を捻るとき、表面の凹凸が指の腹に食い込むだろう。その容器の中の液体はきんと冷えきって、喉の乾いた粘膜を切るような爽快さとともに駆けくだるだろう。できるだけ子細に、あらゆる感覚を思い描きながらもまだ、ニコラスは眼下でくるくると旋転するつむじ風に見入ったまま動こうとはしない。


◇◇◇


 回転する円錐。


 回転する円錐。


 数多の円錐が山脈のように連なる地平。


 空はあまりの青さに金属のように白く灼けている。やがてはそこに爆撃機の翼影が落ち、恍惚の虚無が訪れる一瞬――それはフリントの世界にとって、脳内に繰り返し繰り返し再生されるとともにあの瞬間から自分自身に用意されている、当然の帰結だ。


 振り翳す刃には精油の黒い流体が通い、日差しに反射するごとに複雑にきらめく。それは透明な硝子のうちの毛根のようだ。古めかしい軍刀は呼吸とともに自身の腕の一部と区別がつかず、握りしめた柄から続くその末端の切っ先までが指先の延長のように意識される――それが纏う風も、己の一部であるようだ。彼はいつもここで確信を得るのだ――自分もまたこの世界にきりきりと回転する、黒い円錐のひとつであると。

 あしゆびでつま先立ち、擦るような足運び、旋転する都度目にうつる風景は万華鏡のように無限に変化し、しかしなにひとつ変わらない。長時間の緊張を強いられた太股の筋肉にかすかな痙攣を覚える。ふ、と息をつき、しとどにしたたり流れる汗をようやく意識した。そうして、己の腐り爛れた果皮を思わせる皮膚をも。

 いままであんなにも一体であった世界から、あっけなく薄紙のように引き剥がされてゆく感覚――彼は、それがいつでも、うっすらと悲しい。しかしことばの上で悲しいといえど、はて、果たしてこれは常人のいうところの悲しいという情動と同じものを指すのか、どうか。――


「なあ、あんた爬虫類か」

「?」

「ずうっとそこにいるだろう。日に当たってないと体が動かねえとか、なんかそんなの?」


 シャツの裾をぐいと無造作にまくりあげて汗を拭くさなか、頭上に降ってきたのはそんな言葉だ。窓から身を乗り出し、肘をついてこちらを見下ろす頭には、脱色して根元に黒みを残した金髪がちらめく。


「そういうことはない」

「へえ。意外」


 フリントはその黒豹めいた首筋をかしげて、ちょっとその言葉の意味について考え込む――脳に入った爆弾の破片の影響か、彼の会話のテンポは多少人よりずれることがある。彼自身、それを気にすることもあまりなかった。生きた人間と会話を交わすよりは、刃を交わすことのほうがまだ多い。同胞である拷問集団の面子もまた、言葉を交わしあうというよりラジオノイズめいた無数の言葉がすれ違っているという方がより相応しかった。

 現在の自分たちの雇い主である青年はあきれたふうに肩をすくめ、大雑把に振りかぶられた腕から放たれた放物線が描く軌跡――それは白昼の太陽の真ん中をよぎって、彼はアイスブルーの瞳をぎゅっと細めた。眩しい。

 ぱしんと音をたてて反射的にてのひらに受け止めたそれは、未開封のミネラルウォーターだ。


「?」

「水。いらねぇの?」

「いや、頂こう。だがなぜ?」


 ふはっ、と青年は息を吐くように笑った。「さあ? でも、いるんならやるよ。まあ、お近づきのしるしってやつかも――爬虫類さんにさ」


 爬虫類ではないと言った気がするのだが。

 首をかしげているうちに、ニコラスはさっさと窓から頭をひっこめて背を向ける。その唇の端になぜとはなく笑みが浮かんでいることなど、自分自身では知らない。また首をそらして上にかすかに見える庇越しに彼を仰いでいたフリントも、それを見なかった。

 それでもひとしきり、彼はそれを幾分か不思議そうにてのひらでもてあそぶ。その重みを確かめるように。

 相変わらず、頭上から容赦なく降り注ぎ、あしうらからはじりじりと照り返す熱波。その陽光が容器を透き落ちて、足下ではゆらりと海月のような光が揺れる――しばしそれを見つめ、それから、かしりとキャップに白い歯を立てた。何もかもが黒く、或いは腐ったような斑を描く彼の肉体の中ではそればかりがまっさらな白だ。

 捻じ開けたペットボトルから喉の奥の闇を勢いよく流れくだる水は、その歯に染みるばかりに冷たい。


 夏だった。


 背をもたせかける廃工場の壁、頭を預ければそこを伝って、誰かの軋るような悲鳴がか細く尾を引いては途切れる。

 密林に恐竜たちが闊歩するのにも似た、むせるような空気が彼の足下には詰まっている。まだなにもかもが始まったばかりの、原始の季節。

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レプタイルの空 滝坂融 @taki3ka

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