第3話

 僕が目を覚ました時、嫌に薬品臭い部屋にいた。

 ここが病院だと気づくまでかなりの時間を有した。それこそ、たっぷりと三〇分はかかったと思う。白を基調とした部屋を見て、とりあえず天国とはこんな場所であるのかと悟ってみたり、自分の身体があることを知って、死後にも肉体はあるんだなあと考察してみたりした。個室だったからよかったものの、もし誰かに見られてたらと思うと、赤っ恥ものの失態である。


 結局、目が覚めてから三〇分後に来たナースを見て、ようやく、自分の誤りを認識するに至った。

 わけも分からず、いくらか質問しようとした僕の機微なんかに気づくことなく、彼女は部屋を出て行った。まるで、死人が生き返ったかのような形相だったが、僕はそんなに酷い状況だったのだろうか?

 そこまでして、僕がどうしてここにいるのかの経緯を何となく察することができた。そして、それと供に溜息がもれた。


 あーあ、また死ねなかった。


 自分に近しい人に、いや、それ以前に今しがたここを出て行ったナースでさえも聞かれれば怒られるに違いないであろう発言だった。だが、それが本心なので仕方がない。一応、日本国憲法でも精神・思想の自由は保障されていたはずである。思うだけでは、罪にはならないのだ。

 故に僕は日本国民に与えられた権利をこれでもかと言うほど駆使して、内心だけで何故死ねなかったのかと嘆く。

 電車に轢かれるという絶好の機会をどうしてものにできなかったのかと、自分自身を呪う。この呪いで死ねればいいのだが、流石にその程度では死ねそうもない。というか、ここまで来たら僕は死期を完全に逃してしまったというほかない。


 今年で数え年二四になるという、まだまだ青年だと言い張っても通れそうな、僕であるが、死にそうになったことはかなりある。首つり自殺を試みれば、もやしとさえ形容される僕の身体にさえ縄は耐えきれなかったし、焼身自殺を試みても、ガソリンを全身に塗りたぐり、準備満タンの僕を馬鹿にするかのごとく湿った燐寸は火をつけさせてはくれなかった(そのうち、気分が乗らなくなって止めた)。

 自殺を試みたのは今までにこの二回だけだが、自転車に轢かれて、歩道に強かに頭をぶつけたこともあったが、精密検査では特に問題なかったと診断され、ただただ痛い思いをした。

 思えば思うほど、死に損なっていることに気づく。まだこの三回の他にも地味ながらも二回ほど死にそうになったことはあったが、それらは語るほどもない低レベルなものなためここでは省略させていただく。

しかし、その度にさながら見えない力が働いているかのように、僕は生き残るのであった。

 ブラック会社の対極をなすような勤務先に対しては、心苦しい限りではあるが、労災で死ぬしかないんじゃないかという結論に至ったこともある。なんならそれは今もまだ継続中の作戦である。僕は平日休日問わず意識を失うまで仕事をしている。気がつけば、そんな日々をもう半年も繰り返していた。


「おやおや、お目覚めになられましたか!」


 白衣を着た、いかにも不健康そうな男が先程のナースをつれて僕の前に現れた。白衣を着ていなければ、君こそ今すぐにでも手術した方がいいんじゃないかと、十人に訊けば八人が指摘し、残りの二人がすぐさま緊急手術を始めそうな顔色である。


「ははは。私の顔色を見て、お前こそ患者の立場だろとでも思いましたか? 安心してください。ここに来た患者は皆口を揃えてそんなことを言うのです」


 全く安心できる話ではなかったし、何が思い白いのか分からなかったけれど、彼はこれがさながら極上のギャグであると言わんばかりに笑った。

 ッヒッヒッヒ! 女の子がすれば可愛らしく映る引き笑いをここまで、邪悪なものにできるとは。

言葉に詰まっている僕に対して、彼はさして気にするということもなく、話を始めた。


「いやあ、貴方は運がよろしい。さながら、隕石が貴方に直撃するぐらいには、運がよろしいのです。いったい、どれほどの因果があればこうなることやら。電車に衝突して貴方は生き残ったのですから」

 隕石に当たる確率の低さだけを取り上げて幸運だと言っているのだろうが、絵面を思うと完全に不幸の部類であった。あり得ない死に方という風にネット記事でまとめられても文句は言えない。

「……それはそうと、どうして僕は生き残ったのでしょうか?」

「ははあ。生き残ったですか……なるほど。これは中々に治療のしがいがある患者さんだ。ですが、そうも行かないのです」


 僕の表情と発言の意図を見透かしたように笑った彼であったが、すぐさま残念そうに、肩を下ろした。


「貴方には、精密検査をして身体に問題がないことを証明した後、すぐにここを引き渡していただく必要があるのでございます。では、お立ちになってください」


 僕は彼に言われるがままに、彼の後を付いていった。僕の質問に答えずに話を進めたというのに、我ながら誠実な人柄である。もっとも、医者という社会的地位が、彼の態度と顔色を帳消しにしているだけかもしれないが。

二人とも悪いということもあって、もし僕達にすれ違う者があれば、誰もが死に神とそれに連れて行かれる死人だと想像するであろう。

 これまた白を基調とした廊下を歩きながら、彼は僕の置かれた状況をまるで川の流れのように途切れることなく説明した。彼も僕の問いかけをまるっきり無視したと言うわけではないようだった。


「いやあ、実際貴方は非常に運をお持ちですよ。ええ、まあ、貴方に言わせれば悪運とでも言わなければならないのかもしれませんけれど。しかし、それでも少し異常なんですよ、貴方は。ああ、すいません、人柄私はあまり言葉を選ぶということができないたちでして、異常等の少々直接的な言葉は流してくださると幸いです。ともあれ、異常なのですよ、貴方は。電車に轢かれれば普通は死にますからね。それこそぶつかった瞬間に、四肢断裂どころか下手したらミンチですからね。いくら、停車しようとしていたからと言っても、貴方の死は免れないものでした。ところで、何か運動とかってしています? ああ、少し前まで体操を……。なるほど、じゃあ、一応筋は通るんでしょうね。もっとも、それは通ると言うだけで、それだけなのですが。私からすればさながら呪いのように生きておられるという所感を抱くんですけどね。ともあれ、電車に激突された貴方でしたが、幸いなことにミンチにも四肢断裂といったようなことも起こらず、そのまま十数メートル吹き飛ばされました。ええ、普通の人ならここで死んでしまうでしょうね。でも、貴方はその持ち前の運と身体の柔らかさによって致命傷をさけるどころか、受けた衝撃を地面に全て伝えながら転がったんですよ。ええ、数カ所の擦り傷を抜かして貴方は無傷です。武道に秀でた達人でも難しいという受け身を、貴方はしかも意識を失った状態で完璧にこなしたんですよ。いやあ、脱帽ものの行為ですよ。ああ、一応申し上げておきますと、貴方が気を失ったのは単純に恐怖からくるショックですよ。それにしましても、貴方は相当な運を――悪運をお持ちだ。まるで貴方の後ろの背後霊が守っているかのごとき所行です。あ、ここでございます」


 彼はそこで話を終えて、扉に指を向けた。ここがどうやらレントゲン室のようであった。なあにすぐに終わりますよ、と彼は近くの椅子に腰を下ろした。

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