第5話 新しい可能性
いつか嗅いだような優しい石鹸ような香りが鼻腔をくすぐる。それになんだか暖かい。
私はゆっくりと瞼を開く。
最初に目に映ったのは、傾いた夕陽とそれに照れされる滑らかな白い髪。
「あら、起きたの」
「エーレさん・・・・・・」
エーレさん振り向いてこちらに目を向ける。
「あなたが特訓中、急に倒れるから、私、凄く心配したのよ」
「ごめんなさい」
左眼を確認すると、そこにはしっかりと眼帯の感触があった。たぶんエーレさんが付けてくれたのだろう。
「・・・・・・きっと私がやり過ぎたせいで」
突然、エーレさんがそんなことをぽつりと呟いた。
「そ、それは違います!私が普段使わない左眼の力を急に使ったから、その負荷に耐えられなかっただけです。エーレさんのせいなんかじゃありませんっ!」
どこか寂しそうに話すエーレさんに私は慌てて弁明する。
「でも、力を使うように言ったの私・・・・・・」
「それはエーレさんが私の為を思って言ったことです。・・・・・・だから、あまり自分を追い詰めないで下さい」
「・・・・・・分かったわ」
返事をしたエーレさんは私をおぶって、夕焼けで赤く染った草原を歩いていく。
後ろを振り返ると、そこには高く聳え立つカルレア山があった。
エーレさんは私をおぶったまま、山道を下ってきたのだろう。
ここから街まではかなり距離がある。
これ以上エーレさんに迷惑をかける訳にはいかない・・・・・・。
「エーレさん・・・・・・、降ろしてください。私はもう大丈夫です。一人でも歩けますよ」
「だーめ、遠慮なんてしないでもっと甘えてなさい」
私が背中から降りようとすると、エーレさんは逃がさまいと私を背負い直し、しっかりと私の太ももを手で支えた。
もし、私にお母さんがいたらこんな感じだったのだろうか。そう思わせるほどにエーレさんの声音は優しくて、心地いい。
「では、お言葉に甘えてもう少しだけこのままでいます」
私はエーレさんの背中に顔をうずめる。
「素直でよろしい」
そう言ったエーレさんの顔はこちらからでは見えない。でも、声で上機嫌であることは窺えた。
エーレさんは一定のリズムを刻んで、風が靡く草原をそのまま進み、ようやく街の光が見えてきた。
街まではもう少し時間がかかりそうだ。
エーレさんは長いこと私をおぶっているけど、私の体重そんなに重くないよね?
考え出すときりがない。エーレさんに聞いてみよう。
「エーレさん、私、重くないですか?」
「そうね・・・・・・、ちょっと重いかしら」
「そんなっ!?」
「冗談よ」
エーレさんは少し振り向いて、私の驚いた顔を横目で見ると、くすりと笑った。
「エーレさんの意地悪・・・・・・」
「ごめんなさい。つい、からかってみたくなっちゃって・・・・・・」
私がぽしょりと呟くと、エーレさんは微笑んで謝罪を述べる。
これはお仕置きが必要ですね・・・・・・。
「そんな悪いエーレさんにはこうだっ!」
「ひゃっ!?」
私は完全に油断していたエーレさんの小さくて
不意に耳を甘噛みされたエーレさんはくすぐったさに身をよじる。
噛んだ口端から零れた唾液がエーレさんの首を伝い、白いうなじを濡らす。
「あっ、やめてクライスト・・・・・・くすぐったいから」
エーレさんは甘い声を漏らして、頬を上気させる。その姿はあまりに
一度甘噛みをやめ、今度は
エーレさんは耳垂れをなぞられる度にビクッと体を強ばらせ、
「い、いい加減にしないと、怒るわよ」
くすぐったさに耐えかねたエーレさんは顔を真っ赤にしたまま、怒気のない声で呟いた。
これ以上やって、エーレさんに嫌われたくはないので唇を離す。
唇と耳の間には透明な糸が伝う。
エーレさんは息を荒くして、先程まで舐められていた箇所に手を置いた。
「こんなに濡らして・・・・・・クライストのばか・・・・・・」
やっぱりエーレさんは可愛いなあ。
完全に日が暮れ、瑠璃色で染まる空の下。
オレンジ色のネオンによって淡く耀いたアルタイナに向け、エーレさんは休むことなく歩き続けた。
翌日。
再び『カルレアの花苑』に訪れた二人は、昨日に引き続き特訓を開始した。
道中で行われた山の麓までの競走は今回もエーレの勝利で幕を閉じた。
「今日は開幕から眼を使いなさい」
「・・・・・・分かりました」
言われるがまま左眼を覆っていた眼帯を外し、右の黒い眼とは異なる赤い瞳が姿を現した。
「さぁ、来なさい!」
「はあああああああああああああッッ!!」
クライストは前傾姿勢でエーレの真正面へ突っ込む。
構えていた剣を横に振り切って一閃。
エーレは木刀でその一撃を防ぐ。
「もっと体重を剣に乗せなさい。腕だけで振っても大した威力は出ないわよ」
「はいッ!」
次の瞬間、エーレさんの左アッパーが私の腹部に命中する軌跡が見える。
クライストは跳躍し、先読みしたアッパーを回避しつつ、エーレの肩めがけて蹴りを繰り出す。
エーレは空振りに終わったアッパーの勢いを利用し、その場で右旋回。
クライストの蹴りを右腕で防いだ。
防御を先読みしていたクライストは空中で更に左旋回し、後ろ回し蹴り。
決まるかと思ったその蹴りはエーレの眼前で止まっていた。
エーレの左手がクライストの後ろ足首を掴んでいた。
――しまっ!?
エーレさんは掴んだ足を振り下ろし、私の顔はお花畑に激突した。
「あうッ!?」
顔がめっちゃ痛い。
エーレさんは掴んでいた私の足を離し、私の前まで来るとしゃがんだ。
「今の攻撃は良かったわよ」
「でも、エーレさんにやられました」
私はうつ伏せのまま、顔だけ上げて答える。
「私は強いのよ。その程度じゃダメに決まっているでしょう」
「うーーーー」
私は言葉になっていない悪態をついた。
「それにしても私の攻撃、クライストに全然当たらないのだけれど・・・・・・それが眼の力なの?」
「はい。エーレさんの動きが全部、軌跡になって見えるんです」
「どういうこと?」
「つまり、動きが全部筒抜けなんです」
「なるほど、それは厄介ね・・・・・・」
エーレさんは顎に手をやり、興味深げに呟いた。
「ふふん。凄いでしょう」
「そんなうつ伏せの状態で言われてもね・・・・・・」
エーレさんは残念な子を見るような眼差しで私を見下ろしてくる。
「だとしたら、足を掴まれることも分かってたんじゃないの?」
「先が見えたときには既に手遅れでした」
「次は注意するのよ」
一度固まったエーレさんはしゃがんだまま、私に釘を刺した。
「・・・・・・エーレさん」
「なあに?」
「さっきからパンツ丸見えですよ」
エーレさんの艶やかな太ももにピンク色の可愛いらしい下着はよく引き立っていた。
私に注意されたエーレさんの顔はみるみる赤くなっていき、慌てて下着を隠した。
「クライストのばか、変態」
罵っているエーレさんも可愛いなぁ。
私は顔をキリッとさせ、エーレさんに向かって、
「次は注意するのよ・・・・・・」
「それは誰の真似かしら?」
エーレさんは優しい声音でそう言うと、笑顔で私の顔をグリグリ踏んずけてくる。
あれ?エーレさんの声真似をしたんだけど似てなかったのかな・・・・・・。
「でも、エーレさんは大人だから私にパンツ見られるくらい平気でしょ?」
「そ、そうね。別にクライストに下着見られるくらい平気なんだから!」
鼻を鳴らし、強がったエーレさんの頬は、まだほんのりと赤みを残していた。
「さ、続きするわよ」
「下着鑑賞会の?」
「特訓に決まってるでしょ、ばか!」
ふんっと背を向けたエーレさんはそのまま歩いて行く。
「照れてるエーレさんも可愛い」
そんなこと言っていると、エーレさんは足を止めて振り返る。
その顔は既に真剣な表情になっていた。
私は頬にパンっと叩いて気合いを入れ直す。
私が構えたと同時にエーレさんは木刀を握り、地面を蹴って突っ込んできた。
エーレさんは初手に横薙ぎをしてくる。
その剣筋は放物線を描き、私の右肩へと続いていた。
まずはこれを防がないと・・・・・・。
先読みしたクライストが横薙ぎを予め防御しようとした、その瞬間。
エーレさんが地面をもう一度蹴り、加速。
気づいた時には間合いを詰められ、初手の横薙ぎは神速と化す。
――剣が間に合わない!?
木刀は大きな風切り音を出し、私の右肩に直撃する。
エーレの一撃をモロに食った私は吹っ飛ばされ、受け身すらできずに大木に激突した。
そして間髪入れずにエーレさんの膝が腹部に追撃を加える。
「ゔっ!?」
――速過ぎる。
これじゃあ、どこに攻撃が来るか分かってても防御のしようがない。
その後も止めどない怒濤の連続攻撃を浴び続け、地に膝をつけた。
「はぁはぁ、・・・・・・あだっ・・・・・・」
至る所にダメージを受け、手を足を動かそうとしただけで猛烈な痛みが身体中を駆け巡る。
痛みを我慢しながら、震える体を剣で支えてなんとか立ち上がり、目の前の人物を
エーレさんは木刀をビュンビュンと振り回し、感覚を確かめていた。
私が立ち上がったことに気づき、こちらに振り向くと、
「幾ら攻撃が割れていようとも、相手の動きに勝る速さで攻撃すれば関係無いわね」
――そんなの反則だぁ!?
改めて、エーレさんの凄さが身に染みて解る。
でも、ここで諦めたら前には進めない。
考えろ・・・・・・どうすればエーレさんの速さに対応できるのか・・・・・・。
いくら剣で防御しようとしても、間に合わないし、かと言って防御を棄てて攻撃したって躱されて、返り討ちに遭うのがオチ・・・・・・。
それに昨日、無謀な戦い方はダメとエーレさんに言われたばっかり。
――だったら!!
私は手にしていた剣をその場に置いて、拳を構えた。
それを見たエーレさんは訝しげな顔を浮かべる。
「それはどういうつもり?」
「これが最善です」
「そう。・・・・・・なら良いわ」
私の返答を聞いた、エーレさんは顔を少し綻ばせたかと思うと、すぐに木刀を構えた。
「行きます!」
「ええ!」
前進し、エーレさんとの距離を詰めて行き、エーレさんの軌跡を辿る。
――木刀が下から振り上がる!!
察知した瞬間に自らの体を後ろに反らすと、顔を風が掠めた。
僅かに触れた髪の毛先が散る。
(危なかった・・・・・・けど、反応できてる!)
すぐさま体勢を戻し、左脚を軸に脇腹目掛け、一蹴。
そこで自分とエーレの軌跡を確認。
――駄目だ!防がれ、追撃を食らう。
繰り出していた蹴りを引っ込め、右に旋回して肘打ち。
「――っ!?」
咄嗟のフェイントを混ぜたこの一撃は無防備なエーレの腹部に入った。
――反撃の隙を与えさせない!
そのまま肘を支点に外旋回させ、ノックするように手の甲でエーレの顔面を強く殴打。
「―――ッッ!!」
腰を捻り、右腕と入れ替えるように、エーレの腹部に渾身の掌底打ちを突き出した。
それをエーレは身体を一歩引くことで、勢いを殺した。
――浅い!?
エーレは空いていた右肘を勢いよく振り下ろす。死角からの一撃をクライストは回避できなかった。
「があっっ!?」
首の後ろに鋭い痛みが走り、そのまま地面激突した。
目の前ある花が霞んで見える。
(・・・・・・あと少しだったのに)
そこでクライストの意識は飛んだ・・・・・・。
「・・・・・・・・・・・・」
また、意識が飛んでしまった。
そう思い、ゆっくりと瞼を開く。
すると、馴染みのある蒼い双眸が私の顔を覗き込んでいた。
「・・・・・・エーレさん?」
「他に誰がいるのよ」
そう言ったエーレさんは微笑を浮かべ、私の頭を優しく撫でる。
「んっ・・・・・・」
手の感触があまりに心地良くて、時間がずっと止まればいいのにと夢みたいなことを思った。
エーレさんの白髪が垂れ、触れた頬がくすぐったい。
そのことに気づいたエーレさんは垂れた髪を耳にそっとかけた。
そんなエーレさんの仕草を見て、思わず見惚れてしまった。
後頭部を柔らかな感触が包み込んでくれている。
あれ?もしやこれは伝説の膝枕?
感触を確かめるように頭を左右に揺らす。
「こら、やめなさい・・・・・・」
エーレさんはくすぐったそうな顔をした。
「どうして急に膝枕なんかしてくれるんですか?」
思ったことをそのままエーレさんにぶつけ てみる。
すると、エーレさんは少し間を置いてから、小さな声で呟いた。
「・・・・・・だってあなた、こういうの好きでしょ?」
エーレさんは恥ずかしいのか、顔を逸らし、その頬は少しだけ紅く見える。
「はい・・・・・・幸せです」
そんなエーレさんの態度に私はこれ以上にないくらい笑顔を向けた。
いつまでもこうしている訳にもいかないので、とても名残惜しいが、プニプニの太ももから頭を離し、身体を起こすと、
布越しにふにゅとした感触が今度は顔に当たる。
「それはわざとかしら?」
「・・・・・・ごめんなさい」
顔をエーレさんの胸部に押しつけたまま、答える。
「少し話があるのだけれど・・・・・・」
「お説教ですか?」
今度は身体をちゃんと起こして、エーレさんに向き直った。
「違うわよ、クライストの武器のこと」
「・・・・・・武器ですか?」
エーレさんの言いたいことがあまりピンとこない。
「さっき私に蹴りのフェイント入れたこと覚えてる?」
「・・・・・・覚えてますけど」
さっきのフェイントと武器に何の関係があるんだろう?
「どうやったの?」
エーレさんは真っ直ぐな眼で私をみつめる。
「えーと、エーレさんの動きだけでなく、自分の動きの先も見て、これは防がれちゃうと判ったので、直前で引っ込めました」
これが何だと言うのだ。
エーレさんは暫くの沈黙の後、再び口を開く。
「・・・・・・やはりそうだったのね。クライストが初め、本気で蹴りにいこうとしていたから、私は躊躇することなくガードの体勢入ってしまい、それ以外の箇所に隙が生まれてしまった」
そこでエーレさんは一息ついて再び、口を開いた。
「あなた、アーチャーになる気は無いかしら?」
「・・・・・・アーチャー?」
急にそんなこと言うなんて、エーレさんは一体何を考えているのだろう?
「どういうことですか?」
私は首を傾げ、エーレさんに訊ねる。
「あなたの『龍の
クライストは少し黙考すると、一つの答えに辿り着いた。
「・・・・・・タイミングさえ合えば、狙った所に100%矢が当たる!?」
「その通り。それに加え、遠距離から放てば眼の力はバレにくい筈よ」
「エーレさん凄い!あったま良い〜!」
私は「おー」って言いながら、パチパチパチとエーレさんに拍手を送る。
「・・・・・・それほどでもないわよ」
そう言ったエーレさんは気恥しそうに頬をポリポリ掻いていた。
「それじゃあ、もし近接戦闘になった場合は剣を使えば良いんですね?」
「・・・・・・そうね。でも、あの支給された剣はもう使えないわ」
エーレさんはそう言うや否や立ち上がり、剣を拾いに行く。
その様子を私はじっと見つめる。
(え?もうあの剣は使えないって一体・・・・・・)
エーレさんは剣を手にし、近くにあった岩まで駆け寄ると、剣で岩をコツンと叩いた。
すると、剣がピキピキッという音を立てて、ヒビが全体に広がり、やがてバラバラに崩れ去った。
私は開いた口が塞がらなかった。
「・・・・・・剣は消耗品。これでもこの剣はよく持ったほうなのよ」
そう言うと岩の前に佇んだエーレさんはこちらに向き直った。
よく考えてみればそうだ。あのエーレさんの攻撃を何度も受け、壊れなかった方が異常だったのだ。
「それにこの剣はあなたに対して少し大き過ぎたわ」
エーレさんの言うことはほとんど的を射ていた。
あの剣は私が扱うにしては少し大きいため、動作も一つ一つが大きくなってしまっていた。
それにあの剣は軽い方ではあった。しかし、エーレさんの攻撃を捌くには重すぎた。
だから、私は剣を置いて戦うことを選んだのだ。
エーレさんは私の傍に戻り、刀身が砕けた剣を私に返し、再び口を開いた。
「だから近接戦闘時は小回りの利くナイフか小太刀の方が性に合っていると私は思うわ」
「私も賛成です」
剣を受け取り、エーレさんの眼を真っ直ぐ見て言った。
その言葉は聞いたエーレさんは不敵な笑み見せると、お片付けを始める。
「もう特訓はしないんですか?」
「善は急げよ。一度、街に戻って明日の準備をするわ」
「一体何を・・・・・・?」
「何って、あなただけの武器を作りに行くのよ!」
「へー武器を作りに・・・・・・って、ええええええええええええ!?」
こうして二人は街に戻るべく、片付けを済まし、木々の中へと消えていった・・・・・・。
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