木蓮の木の下で、君が眠っていた。

伏谷洞爺

木蓮の木の下で、君が眠っていた。

 ――木蓮の木の下で、君が眠っていた。

 僕は木の側まで近付くと、幹に体重を預ける形で腰を下ろした。

 君は僕に気が付く事もなく、ずっと眠り続けている。僕としても、起こすのは忍びないので、そのままにしておくことにした。

 さぁーっと風が吹く。僕の髪を撫で、くしゃくしゃにする。

 君は気持ちよさそうにしていた。さわさわと枝葉が揺れる。

 見上げると、薄紫色の花が奇麗だった。

 そういえば昔、君と一緒に木蓮の花を見に行った事があったね。あの時は別の場所だったけれど。うちの近所だったような気がしたけれど、まだ幼かった僕たちにとっては大冒険だった事をよく覚えているよ。

 君はよく外で遊ぶ、活発な子供だった。いつも膝頭に擦り傷を作って、頬に絆創膏を張っていたと思う。反対に僕は内気な子供だった。何かあるとすぐに母親の背中に隠れてぷるぷると震えているような、そんな内向的な子だった。

 僕と君は正反対だった。ただ家が近所だったというだけで、僕と君の間に接点なんてないように思えた。

 お互いに小学一年生になると、学校へ通い出す。僕は学校なんて嫌だって泣き喚いて、両親を困らせていたっけ? それで、君が僕を学校まで引き摺っていく。そんな事が一週間は続いたかな? それでようやく、僕は渋々学校へと行く気になったんだ。たぶん、両親に泣きす縋ったって無駄だって察したんだと思う。

 学校生活が一ヶ月は続いたある日の事。君は友達が大勢いて、僕には一人もいなかった。いつも図書室で借りた本を読んで過ごしていたよ。まだ難しい感じは読めなかったから、平仮名が多めの児童書を読んでいてたんだと思うけれど、よく覚えていないなぁ。

 ともかく僕には友達はいなかった。一人も。君を除いては、一人もだ。

 それでよかった。当時の僕は他人と関わりたくなかったし、君とも関わりたくなかった。

 とにかく、本を読んでいたかった。両親さえ味方でないと思っていたあの時分の僕は、やたら刺々しかったと思われるよ。だって、何を訊かれても顔も見ず、目も合わせない。それどころか、無視を決め込む事さえあったからね。

 だから当然のことだけれど、段々と僕の周りからは他人はいなくなった。僕はそれでいいと思っていたし、周囲もそうなんだろうと思っていた。

 何も不都合な事なんてない。そう、君を除いてはね。

 君はどうして僕がみんなと一緒に遊ばないのかと訊いたね。あの時僕はなんて答えたっけ?ああ、そうそう。こう答えたんだ。思い出した。

 あっち行けって……って。

 そしたら君はどうしたと思う? はは、思い出すだけで笑いが込み上げてくるよ。

 君は僕の持っていた本を叩き落とすと、思い切り僕を殴り付けたんだ。ぐーで。痛かったよぉ、あれは。僕にとって、生まれて初めて暴力を受けた瞬間だったんだらね。

 だから、僕はあの時何が起こったのわからずに、きょろきょろしていたっけ。横倒しになった椅子を視界の横に見付けて、ようやく事態を理解したんだ。

 僕は殴られた、と思った。当時の僕が有名なあの台詞を知っていたら、きっと金切り声で叫んでいただろうね。

 けれど、その時の僕はそんなものは知らなかった。知らなかっただけじゃなく、幼稚だった。まぁ小学一年生なんだから当然だけれど。

 僕はかっとなって、君に殴りかかったね。後ろに押し倒して、馬乗りになったように記憶しているよ。あれ? 馬乗りになったのは君だったっけ? ま、それはいいや。

 ともかく僕は仕返しとばかりに、君を一発殴った。僕は自分の手がじんじんと痛むのに驚いた記憶があるよ。他人を殴るとはつまりこういう事なんだなと思ったからね。

 僕としてはやられたからやり返しただけのつもりだったんだ。これでおあいこ。あの喧嘩はそれでお終いだと思っていた。

 んだけれど、そう思っていたのは僕だけみたいだったんだよ、これが。

 君は僕の胸倉を掴むと、今度は頭突きを見舞って来たね。僕は頭がぐわんぐわんして、何dか妙な感じだった。無意識にお酒を飲んで酔っ払ったお父さんの姿を思い出していたよ。

 ついでにお腹を蹴って来たものだから、僕は真後ろに吹っ飛んでしまったんだ。それで、あ更に頭に血が上ったらしくって、僕はまたも君に殴りかかっていた。

 僕たちがそうしていると、先生が僕たちを止めに来たね。いやぁ、あの時は本当に大変だったよ。何せあの後職員室に呼ばれてお説教だからね。家に帰っても両親に叱られるし、全くもってあの時は君を大層恨んだものだ。

 まぁおそらく、それは君も同じなんだろうけれど。

 そうこうしている内に二日が経ったね。僕と君は二日間の間、全く口を利かなかったっけ?でも、君はそれまでと変わらず僕を迎えに来てくれたね。どうしてだい? まぁいいや。今となってはどうだっていいことさ。

 そんな事よりもだ。問題は君との殴り合いの後の二日間だよ。

 僕はなぜかクラスの人気者になった。人気者といっても、ごく一部だけれど。彼らによると、僕は君と大層仲が悪い事になっていたそうだ。まぁ仕方がないよね。あんな大立ち回りの後じゃあ、そう思われたとしても当然だ。

 僕としても、当時の君と仲がいいと言うのは感情の面から言ってもあり得ない事だった。別に気恥ずかしいとかじゃなくて、心の底から君を憎んでいたんだ。

 僕は君が嫌いだった。だから、君を嫌っているそいつらと一緒に行動する事にした。

 君に嫌がらせを何度もしたね。その度に君は僕を含むそいつらと取っ組み合いを演じたっけ? 

 二年生にもなると、いじめはエスカレートした。上履きを隠したり、椅子に糊を塗ったり。そんな事をして、君にちょっかいをかけていた事が今はもう遠い昔の事のようだ。実際のところ、かなり過去の事だからあたり前だけれど。

 君は何度やられても、仕返しをしたね。僕としてはそれが腹立たしかった。けれど、それが三年生、四年生にもなる頃になると、何だか無償に空しく感じられてね。君をいじめていた連中を見ていて、こちらが吐き気を催すようだったよ。

 自分たちの仕掛けた事で君が不幸になってげらげら笑っている。何が面白いのかさっぱりだ。

 僕はそのグループを抜ける事にした。とはいえ僕に君を助けようなんて気持ちは一切なかった。僕はただ、静かに読書が出来ればそれでよかったんだ。

 先生に告げ口をするつもりもなかったし、彼らを邪魔するつもりもなかった。

 けれど、そいつらは僕が抜けた事が気に喰わなかったらしい。今度は僕までもいじめのターゲットにされた。

 最初は極簡単なことだった。上履きを隠されたのだ。仲間に戻ったら返してやると言われたけれど、僕にはグループに戻るつもりなんてさらさらなかったから丁重に辞退した。

 そうすると、今度は僕の椅子にまで糊を塗りたくって来た。過去に行った事の繰り返し。申し越し頭を使えよと言いたくなったが、ぐっと堪えた。

 今はグループを抜けたからやられているだけだ。彼らの標的ないつだって君なのだから。

 当時の僕はそう思っていた。どうせ今だけだ。時間が経ったら僕の事は忘れるだろうって軽く考えていた。

 けれど違った。あいつらは僕と君、二人をターゲットにしたんだ。

 それに気付くと、僕は辟易した。全く無駄な事をするものだと呆れたものだ。

 そのエネルギーを、何か別のところに使えばよかったのに。

 僕がそう忠告すると、そいつらは逆上した。手近にあった椅子を持ち上げ、僕目がけて振り下ろす。

 ゴンッ! と鈍い音がした。けれど、全然痛くなかった。不思議に思った僕は、ぎゅっと書く閉じていた目を開け、目の前を見た。

 君がいた。僕を庇うようにして両手を広げ、僕の前に立っている。血こそは出ていなかったものの、浅黒い痣として、君の頭部には長い間その時の怪我が残っていたね。それを見るたびに、僕は自罪悪感で胸が張り裂けそうだったよ。

 椅子を振り回していた奴も顔を青くしていたね。君は怒りが頂点に達したらしく、そいつらに掴みかかって行った。女の子らしいという言葉とは全く縁遠い光景だったよ。

 しかもそれまでの数年でかなり鍛えられていたらしいね。一人でその場にいた全員を圧倒してしまったのは、正直言って恐怖でしかなかったけれど。

 ともあれ、僕としては君が無事でよかったと思ってる。当時の僕だがどう思っていたかは知らないけれど、今の僕は心の底からそう思っているよ。

 先生が来て、君たちの喧嘩を仲裁していたね。仲裁……というか、あっちが一方的に悪い、みたいな言い方だった。まぁあっちが一方的に悪いんだけれどね。そのままだ。

 何せ、最初に喧嘩を吹っかけて来たのは向こうなのだから。

 その話は一旦これでお終いにしよう。問題はその後だ。

 翌日、君はいつものように僕を迎えに来てくれたね。結局、三年間ずっと君は僕の事を迎えに来てくれた。君が風邪を引いて休んでしまった日以外は全部だ。

 僕は君をいじめていたというのに、君は相も変わらず当然みたいな顔をして僕と一緒に登校しようとしてくれていた。けれど、当時の僕はそれがたまらなく嫌だった。嫌で嫌で仕方がなかった。だから、君を遠ざけようと色々画策したりもしたよ。

 でも、僕の目論見は全て、一度として当たった事はなかったね。

 君はずっと、何食わぬ顔で僕の前にやって来た。やって来て、行くよって言って僕の手を引くんだ。

 僕は嫌がった。それはもう、必死に抵抗したんだ。けれど君は僕を強引に連れ出してしまう。

 学校に行きたくなかったわけじゃない。ただ、君と一緒に登校するというのがどうにもつらかったから。まぁ思春期だし、仕方がないと言えば仕方がないのかな? 

 ともあれ、君は僕の事なんてお構いなしに引っ張って行くものだから、僕は常に嫌な思いをしていたんだ。その点は謝って欲しい。まぁ君は謝ったりはしないだろうけれど。

 ま、なんだかんだで昔の事だから、水に流すけれど。それはそれとしてだ。

 一番僕を苦しめたのは、小学五年生の夏。夏休み前のとある日曜日の事だ。

 僕はその日、いつものように自分の部屋にいた。学校が休みなのだから、冷房の効いた部屋でゆっくり過ごすのが昔からの僕の行動パターンだ。

 その日は本を読んでいた。何の本を読んでいたんだったっけ? 忘れちゃったけれど、それはいいや。今は重要なことじゃあない。

 問題は、その日の午後だ。十二時を十分ほど過ぎた頃、君は突然僕の家にやって来たよね。

 特に約束をしていたわけでもないのに。ピンポーンってインターホンを鳴らして。けれどその日は僕の他に誰もいなかった。両親は出かけていて、僕は一人で留守番をしていたんだ。

 そしたら君はやって来た。僕は最初無視していたけれど、何度かインターホンを鳴らしていたね、君は。

 それでも無視を続けると、やがてインターホンが鳴りやんだから、僕はほっとした。正直その時はインターホンを押したのが君だとは全然思わなかったんだ。君は僕と違って友達の多い方だったから、どうせ外で遊んでいるんだろうと思ってたからだ。約束もなかったし。

 でも、僕はなんだか不安になった。なんだか君が扉の前にいるんじゃないかって思ったんだ。

 だから、読んでいた本を閉じて玄関へと向かった。そろーっと扉を開けて、外の様子を見たんだ。そしたら案の定、君はいた。

 玄関の前で座り込んで、詰まらなさそうにして空を見上げていたね。

 君は僕に気が付くと、力一杯押してきたね。君に押し倒される形で、僕は玄関先で倒れ込んでしまった。

 何をするんだって文句を言ってやろうと思ったけれど、君を見た瞬間に僕は言葉を失ったんだ。

 だって君、泣いているんだもん。顔中をぐしゃぐしゃにして、涙と鼻水で汚いったらなかったよ。どうしたのって訊いたって、全然答えてくれないものだからどうしたらいいのか、僕にはわからなかった。おろおろするしかできなかったよ。

 とりあえず君を家の中に入れたんだ。鍵をかけて、君をリビングに通した。すると君はちょこんと椅子に座り、いつもの元気な笑顔もなくて、僕は自然と不安に駆られた。

 何があったんだろうって思ったよ。どうしたんだろうって。けれど君は全然答えてくれなかったから、やっぱり僕はおろおろするだけだった。

 やがて、泣きじゃくっていた君の涙は収まった。僕はほっとして、君の目の前に冷蔵庫にあった麦茶を出したんだ。

 君はそれを一口飲むと、じわりと再び目の端に滴を溜めていたね。もう僕は慌てっぱなしだったよ。両親が帰ってきたらどうしようって思ったからね。

 それでも根気強く、両親が帰って来ないことを祈りながら君が落ち着くのを待っていると、君はやがてぽつりぽつりと話し出したよね。

 何があったんだろう、って僕は興味半分で聞いていたよ。そしたら、君はまずこう言ったんだ。

 わたし、ひどいことしちゃった――って。

 僕は何も言えなかった。状況がよくわからなかったし、何より君のそんな弱っている姿を見るのは初めてだったから。

 どんなにいじめられてもけなされても叩かれても、やり返す事はあったけれど落ち込んでいる姿は見たことがなかった。

 僕はどんな言葉をかけるべきかわからなくて、中空に視線をさまよわせていたよ。君は築かなかっただろうけれど。俯いていたしね。

 そんなこんなで、しんとした時間が過ぎて行った。僕は何事かと考えを巡らせていたが、いかんせん答えが出るなんて事はなく、君の言葉をずっと待っていた。

 ひどいことをしちゃった。……その後に続く言葉だ。

 僕は君が泣いていた原因を知りたかった。けれど、君が一向に教えてくれないものだから、もやもやとした感覚だけが僕の中で溜まっていく。

 僕はどうしたらいいんだろう?

 思考が堂々巡りに陥る。喉がからからに乾いて、自分の分のコップに麦茶を注いだ。

 それを一気に煽ると、ぷはぁっという声が洩れた。

 どうしたの? と訊くべきなんだろうなぁと考えて、やめた。

 君の性格なら、聞いてほしいと思えば話すだろうし、そうじゃないとすれば話さない。反対に僕が何を訊いたところで、話したくなかったら絶対に話さないから、無理矢理話しをさせる、なんて事はまず不可能だ。

 僕は麦茶の注がれたコップに目をやった。側面に水滴が流れ落ちる。

 ぷらぷらと足を揺らしていると、君はがたりと立ち上がったね。結構びっくりしたよ。

 わたし、帰るって。突然現れて何を言い出すかと思えば。

 とぼとぼと玄関へと向かって行く君の後ろ姿を、僕はずっと見ていた。君がリビングから出て行くと、僕も立ち上がってその後を追った。

 玄関先まで、君を見送る。君は僕にばいばいを言う事もなく、黙って出て行ってしまったね。

 僕はショックだったよ。別に君が僕に挨拶をしなかった事が、じゃないよ。

 君がそこまで弱っていた事がだよ。

 今で、どんな手痛いいじめを受けても何ともなかった君がそこまで傷付くような事があった。

 君をそこまで傷付けた何かが、僕はたまらなく憎くなったよ。

 けれど、僕は誰にも言えない苛立ちを抱えたまま、部屋に戻った。

 コップはそのままだ。麦茶も君の分は入ったまま、リビングに置きっ放し。

 ごろんとベッドに寝転がり、目を閉じる。眠れるはずもなく、またそんなつもりもなかった。

 脳裏に浮かんでいたのは、君の弱々しい姿。テーブルの上をじっと見詰め、目尻から流れ出る涙を何度も拭っている君。

 何があったんだろう。僕は必死になって考える。

 君は昔からよく外で遊ぶ子供だった。活発で、元気で、人気者。

 それが君。僕の知る、君の全てだった。

 だから、君があんなふうに泣いている姿なんてもちろん見た事がなかったし、見たくもなかった。……でも、見てしまったのなら仕方がない。

 僕に君の力になれるとは思えなかった。僕はただの引き籠りで、根暗な奴だったから。

 でも、僕は君の力になりたかった。君の涙を拭い去れるのだと思いたかった。

 だから僕は、翌日朝早くに起きた。両親が驚いていたけれど、そんな事はどうだってよかった。朝食を食べ、身支度を済ませて家を出る。

 ちょうど、君が僕を迎えに来る時間に。僕は君の家へと向かう。

 思えばその時だけだったね。僕が君を迎えに行ったのは。

 立場逆転はその時以降はなく、僕としてもその時なぜそんな事をしたのかはなはだ疑問だった。ま、考えても栓のない事だからもういいか。

 ともかく僕は君に会いに行った。インターホンを鳴らすと、君のお母さんが出て来たね。

 おばさんは僕が迎えに来た事に驚いている様子だった。すぐに君を呼びに行った。

 君は珍しく、ランドセルを背負っていなかったね。きちんと身支度は整えられていたから、たぶん学校へは行くつもりだったのだろうなと思ったよ。

 学校へ行こうと僕が言うと、君は迷ったように視線をさまよわせたね。何を迷っているのだろうと思っていると、おばさんがランドセルを持って来てくれたっけ。

 君はおばさんに背中を押されるようにして、半ば無理にだったけれど家を出てくれた。だから僕は君の手を握って、君が逃げ出さないようにして学校へと向かった。その間、何があったのかを訊ねたけれど、君は答えてくれなかったね。

 学校へ到着するまで、僕たちは無言だった。かちゃかちゃとランドセルの金具が音を立てて、足音と風の音が一緒くたになって僕の耳に届いていたよ。それまでは君が延々喋り続けるものだから、そんな音なんて聞こえなかったから。

 僕たちは学校に着くや、周りの奴らからはやし立てられたっけ。特に男子。

 そりゃあそうだよ。だって小学五年生だもの。そうなるのは当然だ。

 僕だってそんな事態を予想していなかったわけじゃあない。でも、どうだってよかったんだ。君と僕が付き合っている、なんて君にとっては不名誉な事だろうけれど、僕としてはむしろ自分から推奨していきたいと思っていたくらいなんだから。……半分冗談だけれど。

 ともかくとして、僕たちは手を繋いだまま、教室に辿り着いた。

 そしたら、なんとなく何が起こったのかを知れたよ。

 教室の中はシーンとしていたね。さっき僕たちをからかいに来たのは隣のクラスの連中だった。僕たちのクラスメイトは、扉を開けて入って来た僕たちをじっと見詰めている。

 言葉はなく、僕と君が手を繋いでいるところを見ても何かを言ってくる奴もいなかった。

 僕はおはよう、と挨拶をすると、何人かがまばらに挨拶を返してきた。教室に入り、君を自分の席に座らせる。僕も自分の席に座った。僕の席は君の左斜め後ろだったから、君の様子を伺うのにちょうどよかった。

 クラスメイトはほとんど登校していた。後二人やってくれば、全員揃うはずだった。

 けれど、朝の会の時間になっても、残りの二人はやって来なかった。何があったんだろうと思っていると、担任の先生がやって来て教卓に音も立てずに色々置いていた。

 先生はぐるりと僕たちを見回すと、緊張した面持ちで口を開いたんだ。

 まだやって来ていない残りの二人。君の友達だったその二人は、今日はお休みです、と告げた。予想の範疇だったのか、クラスメイトからの質問はなかった。

 誰も彼もがシーンと静まり返り、まるでお通夜のようだ、と僕は思った。

 別に死んでしまったわけでもないだろうに。

 二人が学校を休む理由に全く心当たりのない僕は呑気にそんな事を思っていた。

 全く、何をやらかしたんだ。そんな事さえ思っていたくらいだ。

 けれど、僕の予想は全く違っていた。先生はすーっと息を吸うと、意を決したようにしていった。

 お二人は入院しました――と。

 それもクラス中が知っていたのだろう。驚きの声など漏らす奴はいなかった。

 僕は一人はっ? と目を丸くしたのを覚えている。

 詳細は……どうだっただろう。確か、君と三人で遊んでいて、川に転落したのだったか。その後、無事に救助されたが検査のために入院したという事だったと思う。

 僕は我が耳を疑った。そして同時に得心もいった。

 君が突然僕の家に現れた理由。泣きじゃくっていた理由。何も言わずに帰ってしまった理由。

 全てがその事故に起因していたのだ。

 当時は保護者会や教師陣、教育委員会を巻き込んだ一大騒動になったらしいが、その時の僕がそこまで頭を回せたかというとそんな事はなかった。

 僕が理解したのは、クラスメイト二人が休んで、入院するという事。そしてそれの原因の一端を君が担っていたという事だ。

 具体的な事は何一つとしてわからなかったが、それでも僕は溜息を吐きたくなった。

 なんだってそんな事になっているんだ、全く。

 ちらりと君の方を見たんだけれど、君は俯いたままだった。

 僕が見ていた事に気付かなかったと思う。それくらい君は傷心していたんだ。

 午前の授業が終わって、昼休みになると君はクラスメイトに連れられてどこかに連れていかれたね。僕は君の後を追って教室を出た事は、たぶん君は知らないだろうね。

 どこへ連れて行かれたんだろう。そう思っていると学校の三階にある屋上へと続く階段の踊り場。君たちのすぐ脇に、立ち入り禁止の看板があった。

 階段の手擦りのところに身を隠し、聞き耳を立てる僕。

 君は責め立てられているようだった。クラスメイトの入院騒動に君が関わっている事は、想像に難くない。何せ君と遊んでいた二人なのだから。

 僕はどうする事もできず、黙ってそのまま聞いていた。

 どんな言葉が飛び出すのだろうと思っていたが、存外話し合いはゆったりとしていた。

 もっと罵詈雑言が飛び出してくると思っていた。君一人に責任を押し付けて君を悪者にしようとするのだと予想していた。

 呪詛と怨嗟の声が聞こえてくるものだと……しかし実際は違った。

 君を連れ出したクラスメイトは、君の事を直接的に罵ったり、蔑んだりはしなかった。ただその時の状況を教えてくれと言っていただけだ。

 たぶん、睨んだりしたんだろう。筋違いだと理解していたんだろう。

 それでもそこはまだまだ小学生の子供だ。簡単に割り切れるはずがない。

 けれど、彼らは君を思いつく限りの罵声を浴びせる事もなく、粛々と君の話を聞いていたね。

 大人だと思った。子供なりに大人だと。

 本当なら、きっと君を思い切り罵ってやりたいと思うだろう。けれど彼らはそれをしなかった。たぶん理解していたんだ。どうしようもなかったと。

 それでも多少は君に責任を求めた。それは、当時は腹が立ったけれど、仕方のない事だった。

 何でもそうだけれど、割り切れる事じゃあないから。でも、その時は僕も子供で、どうしようもなく腹立たしかった。

 だから出て行ったっけ? 階段を登ってそいつらに歩み寄って。

 ゴンッて鈍い音がしたなぁ。ジンジンと手が痛くなってきて、そしたら自分のやった事が段々と理解できて来たよ。

 僕は生まれて初めて、その時に人を殴ったんだ。明確な悪意と敵意を持って、そいつを殴り飛ばした。でも僕は華奢というか、あまり力の強い方じゃあなかったから、相手はあまり応えなかったみないだ。というか、僕の方が痛い思いをしたんじゃないだろうか。

 それでも相手は僕が殴った事に対して、信じられないって顔をしていた。たぶん僕が大人しくてあまりこういう事しなさそうな奴だと思っていたんじゃないだろうか。

 君をいじめていた時も、僕はただ外側から眺めている事が多かったからね。

 そいつは逆上したりせず、驚愕に目を見開いて僕の事をじっと見ていた。

 まるで狐に摘ままれたって顔だった。信じられない物を見た時のような。

 周りにいた奴らも同じだ。女子も男子も。たぶん二、三人くらいはいたと思う。

 僕は一人の男子を殴り倒した後、ぎろりと他の奴らを睨み付けた。

 どういう気持ちだったのだろうか。恐れ? 恐怖? 驚き? 戸惑い?

 彼らが一体どんな気持ちでそこに立ち尽くしていたのか、僕にはわからない。今となっては連絡のしようもないから、確かめる事もできない。

 あまり知りたいとも思わないから別にいいんだけれど。

 僕が君を責め立てていた男子の上に馬乗りになって他を睨んでいると、僕の下敷きになっていた男子が僕の背中を思い切り蹴って来た。

 思わず前につんのめった。僕が態勢を崩した隙に、その男子は僕の下から抜け出した。

 怒号が響き渡った。頂点に達した怒りが、僕の脇腹に突き刺さる。

 何が起こったのか、その時すぐには理解できなかった。けれど、何度となくその痛みを感じている内に段々とわかってきた。

 五発ほど喰らったところで、僕はすぐに態勢を立て直したんだ。立ち上がり、その男子に飛びかかって行く。

 それからの事は、実は僕でさえよく覚えていない。確か誰かが先生を呼んで来て、僕たちの間に割って入ったのはなんとなくわかったのだが。

 喧嘩の原因を訊ねられても、僕とその男子は一切答えなかったんだ。むっつりと唇を引き結び、互いに目も合わせようとはしなかった。

 最終的に先生が呆れたように吐息して、力のない声で注意をして来たけれど、僕たちはそれには取り合わなかった。

 そして翌日。学校へ行くと、僕の机が凄まじい事になっていたんだ。

 より正確に言うと、机に大きなバッテンの印がしてあった。それも油性マジックなんて生易しいものじゃあなく、彫刻刀か何かで掘られていた。

 僕は最初、なんだこれ? と思ったよ。何せ突全バッテンが現れたのだから。

 しかし、そんなものは序の口だったよ。次の日以降に比べれば。

 次の日は、更に凄かった。バッテンの上に更にバッテンが重ねてあって、そこに死、という文字が更に書かれていた。いや、掘られていたと言うべきだろう。

 ま、僕が一番笑ったのはそんな事ではなく。

 僕への嫌がらせは一週間続いたが、その中で一番酷かったのは最後の金曜日だった。

 僕の机が見当たらなかった。椅子も。ついでに上履きもなかったから、教室までは靴下のままで行ったんだよ。

 さて、一体どこへ行ったのだろうと思っていると、ベランダから机が見えた。それもバッテンと死の文字がちゃんと見えるように天板を上にして置かれていたんだ。

 つまり、ベランダから無造作に放り捨てたという事ではなく、丁寧に玄関から運び出したという事だ。僕だってここまでの事はしたことがなかったから、思わず笑ってしまったよ。

 それも結構な大声で。クラスメイトたちには、僕がどう見えたんだろうね。わからない。わかる必要もない。

 その時の君はどんな顔をしていたんだろう。見ておけばよかったと今になって後悔しているよ。

 それはともかくとして。僕はとりあえず自分の机は取り戻すために教室を出た。

 階段を降り、一階昇降口へ。これで完全に遅刻扱い決定だ。いや、事情が事情だから見逃してくれるかもしれない。まぁどっちでもいい事だった。当時の僕としては。

 別段、あんな事をした奴らに仕返しをしてやりたいとも思わなかった。ただ、僕はクラス中が敵になったような気がしたんだ。

 僕と君を脅かす、敵に。

 僕が机を持って戻ってくると、既に先生が教卓の前にいた。僕がせっせと机を運んでいる様を見て、何も言わない。ただ目を細めるだけだ。

 僕が机と椅子を元に戻すのを見届けると、先生は早速点呼を取った。

 特に注意したり、事情を聞いたりするつもりはないようだ。やる気がない先生だとは思っていたが、ここまでとは。

 昨今は色々と教師にとって厳しい時代だというのに、強気な事だな、と思ったのは覚えている。

 そのまま、朝の会へが終わる。一時間目へと突入し、先生が算数の数式を板書していく。

 二時間目から四時間目までの授業は、割とあっさり終わった。今日の攻撃はこれだけなのだろうかと思っていると、クラスの何人かの男子が僕のところへやって来た。

 いかにも底意地の悪そうな笑みを讃えている。何か用? と僕は訊ねたのだが、答えが返ってくる事はなかった。

 僕はそのまま問答無用で連れて行かれた。体育館裏に。まだ給食がお腹の中に残っていたから、若干気持ち悪い。

 そいつらは突然僕を殴り付けて来た。よくもやってくれたな、と喚き散らす。

 ちらりと周囲を見回すと、先日僕が屋上付近で殴りかかったあいつがいた事に気付いた。それで合点がいったよ。

 これは報復だ。やられたらやり返すだけでは済まさあない。徹底的にかつ過剰にやり過ぎなくては気が済まない。全く、小学生って奴は陰険だ。

 僕は内心でそう思いながら、大人しく奴らの攻撃を受けていた。どうせこの人数では反撃の目はないのだから、さっさと終わらせようと思っただけだ。

 ほどなくして、僕は満身創痍となった。そりゃあ二、三人もの人間から集団暴力を受けたのだから当然だ。むしろよく耐えたと言ってしまってもいいかも知れないね。

 やがて僕を殴るのに飽きたのか、そいつらは校舎内へと戻って行く。僕を売った奴も何喰ぬ顔……というかむしろ嬉しそうにして校舎へと戻って行った。

 僕はしばらくその場に座り込んでいた。全身が痛み、体がまともに動かせそうになかったからだ。

 はてさて、これから一体どうしたものか。

 たぶんこれからもっと酷い事になるだろう、という予想はその時から僕の中に会った。

 けれどそれでどうにかなるつもりもなかった。ここで負けてしまったはだめだと思っていたんだろう。当時の僕にそんな自覚があったかどうかはわからないけれど。

 その時の僕は君の事で頭が一杯だったんだ。どうにかして君を助けたいと、そう思っていんだよ。君はあの二人が落ちた事をきっと、自分のせいだと思っているだろうからね。

 その後、僕は教室に戻った。ぎりぎり五時間目に間に合う時間だった。

 全身に打撲痕を拵えて戻って来た僕を、君がぎょっとした様子で見ていたね。担任の先生からどうしたの? 聞かれたけれど、僕は黙って自分の席に戻ったよ。

 だってそうだろう? そこで先生を頼ってしまったら、僕はあいつらに負けてしまった事になる。だからこそ僕は、僕だけの力であいつらを滅ぼさなくてはならないんだ!

 僕は内心であいつらへの憎悪をめらめらと燃え上がらせていた。

 その日、五時限目は予定されていた国語の授業を取りやめて、学級会が開かれた。

 学級会、と言ってもその時仕切っていたのはいつものように男女から一人ずつ選出されたクラス委員ではなく、先生だった。

 先生は教卓に手を突いて、ぐるりと僕たちを見回す。

 そうしてから、重々しい口調で切り出した。

 ――転落したクラスメイト二名。二人の事は事故ではなく事件です。

 僕たちはそれを聞いて愕然とした。いや、愕然としたのは僕と君だけだったのかもしれない。

 そんな事はどっちでもよかった。問題は先生が言った言葉だ。

 昨日、検査入院を終えた二人が家に帰ると、それぞれの両親に言ったらしい。

 自分たちは殺されかけたんだって。

 僕はあの時ほど、自分の耳を疑った事はなかったよ。だって殺されかけたって言ったんだから。……普通なら、そんな事は言わない。事が、ただの事故だったなら。

 彼女たちがそう言ったのは、事故ではなかったから。本当に誰かに殺されかかったから、というのが彼女たちの両親の言い分だった。そして、殺害が可能なのは当日二人と一緒に遊んでいた人物……そう、君だ。

 もちろん証拠なんてなく、彼女たちも犯人の姿を直接見たわけではないから君だと断言する事はできない。

 それでも状況的に見て、そして何より、クラス中が君を犯人と決めつけ始めた。

 僕は悔しかったよ。苦しかったし、怖かった。

 おそらく君は犯人だ。そんな言葉を聞く度に、胸が張り裂けそうになった。

 何を根拠に言ってるんだ、証拠を出せって何度も言ったんだけれど、誰も取り合おうとはしなかった。当然、君を犯人と断定する物は何もなかったから君を表立って殺人未遂犯として扱う奴はいなかったけれど、それでも状況はかなり悪くなったね。

 先生ですら君を信用しなくなった。僕の両親も、君に対して疑心を抱いていたよ。

 もはや君を信じていたのは、君のご両親と僕だけだ。

 警察ですら、状況的に見て君を犯人だと言っていた。証拠を集める、というよりは君がやったという事実さえつかめればそれでいいといった雰囲気だったね。

 君への風当たりは強くなったね。僕が引き受けていた分も全部君の方へ流れて行ってしまったから、僕への攻撃は止んでしまった。

 君のご両親は君に学校をしばらく休むように言っていたそうだね。僕としては反対だった。だってそれを周囲に対して敗北したようなものだから。

 けれどそれは子供の意見で、今にして思えば君のご両親の判断は正解だったと言えるかな。

 あるいは不正解とも言えるかもしれないね。

 どっちにしても、君は悪者になった。まだ悪者だと決まったわけじゃないのに、学校中っていう狭い世間様が君を悪者にしてしまった。

 保護者会や先生たちもそうだ。だからこそ、僕だけは君の味方でいようと思ったんだ。

 僕は君が学校を休みだした翌々日から、学校を自主休校していた。

 学校に行く振りをして、君たちが遊んでいたという場所に行ってみたんだ。

 切り立った崖……というと多少以上に大袈裟だけれど、確かに子供の体でこんなところから落ちたりしたら、それなりに大怪我をしそうだな、と思った。

 打ちどころが悪ければ、最悪の場合もあり得る、と。

 最悪の場合……つまり死。その事実を知り、僕はますますありえないと思った。

 君がクラスメイトを突き落としたという事を。

 僕には事件の捜査をする技術なんてない。だから現場を見たからといって謎が全て解けるなんて事は絶対にない。

 けれど、僕はそうせずにはいられなかった。そうする事で、君の無実を証明したかったんだ。

 恋慕の情……なんて奇麗なものじゃあなかったよ。ただ、僕は君に罪滅ぼしがしたかったんだと思う。

 だから僕なりに一生懸命調べたよ。長く長く、ずっと。

 けれど四日くらいたった頃だろうか。さすがに学校側も僕が登校していない事を不審に思ったらしい。家に連絡を入れ、僕が家に帰ると母親がカンカンになっていた。

 ――どうして学校へ行っていないの? 母親の声は鋭く、僕の脳天に突き刺さる。

 今までに聞いた事のないような声音だった。正直言って、かなり怖かったよ。

 でも、僕はなぜ学校に行ってないか、その理由を話さなかった。話したところでどうにかなるものでもないし、もし話してしまえばきっと、お母さんはそんな事はやめないさいと言うだろうからだ。

 もちろん、言われたところでやめるつもりなんて微塵もなかったけれど。それでも、君を取り巻く問題を「そんな事」の一言で片付けて欲しくはなかったら。

 僕ははぐらかした。時には言い訳をして、時には黙って。時には逆上して見せて。

 でも、お母さんは何度も僕を叱り付けた。学校へ行くようにと言い続けた。

 やがて、僕が何をしているのかをお母さんが知る時が来たんだ。誰あろう、君の口から。

 君は僕を尾行していたね。僕が君と君の友達の事を調べているという事を、僕の母親に告げ口した。

 今ならおそらく、その意味を推測で来たんだろうけれど、当時の僕はやはり小学生並みの知能しか持ち合わせていなかったから、君に対して大層怒りを覚えたものだ。

 誰のためにやっていると思っているんだってゴミ箱を蹴飛ばしたりもしたものだ。

 だけれど、君は僕の事を慮ってくれたんだろう? だからこそ、僕の事を尾けてまで、僕の行動を知ろうとしてくれた。

 今なら言えるよ。当時は言えなかったけれど、ありがとう、と。

 僕の行動は母親に知れた。それは君のせいだとわかって、僕は心底怒った。

 けれど僕は君を責めるような事は絶対に口にしなかったね。なぜだかわかるかい?

 君だったからだ。他の誰かだったなら、きっとそいつを半殺し寸前まで追い込んでいたかもしれない。それも、どんな手を使ったとしても。

 だけれど君だったからわるかった。いや、よかったと言うべきだろうか。

 どちらにしても、僕は探偵ごっこを強制的に終了させられた。

 ――何をしていたんだい?

 低い、作られた優しい刑事の声。その声が僕の行いを糾弾しているように聞こえてきたのは、僕の気のせいだっただろうか。

 僕はじっと黙っていた。行動の動機を話すような事はなく、むすっとしていた。

 どうして喋らないといけないんだ。

 その刑事を睨んだ。隣にいる担任の先生も、両親も。

 敵だ、と思った。敵敵敵。

 誰も彼もが敵だ。君を悪者にする全ての人間が敵だ。

 頬をねっとりとした感覚が這いずっていく。

 僕は何だかひどく気分が悪くなった。吐き気を催し、その場で椅子を倒して立ち上がる。

 口元を抑えて、教室を飛び出した。一目散にトイレへと駆け込み、げえげえと胃の中のものを吐き出す。

 そうすると幾分か気分が楽になった。ぐわんぐわんとした足下の間隔はそのままだったが、それでもさっきまでと比べるとだいぶ楽だ。

 どくんどくんと心臓が異常なくらい鼓動を早めていた。

 僕はトイレから出ると、さっきまでいた教室へと戻った。先生がいて、刑事がいて両親がいる、あの忌々しい教室に。

 ――大丈夫? 気分でも悪い? 先生が優しく声をかけてくれる。それがまた、胃の底のあたりをむかむかさせた。

 大丈夫です、と僕は言った。自分でもわかるくらい、弱々しい声だったと思う。

 刑事はしきりに僕に事情を聞きたがった。あんな場所に一人で行ったのだから、当然かもしれない。

 君の友達が落ちた場所。誰かに突き落とされた場所。一体誰がそんな事をしたのだろうか。僕はたぶん、君をそんなふうに苦しめる奴を許さないだろう。これからもずっと。

 刑事が僕の話を聞き終えると、口ではありがとうと言っていたが、表情は目に見えて落胆していた。捜査の進展が望めるかと思ったが、そんな事はなかったからだろう。

 刑事の落胆顔が面白くて、僕は無意識の内に笑っていた。それを母親に注意されて、意識して表情を引き締めた。

 それから二週間して、入院していた二人が退院してきた。クラスの約半数以上が彼女たちを取り囲み、質問攻めにする。

 ちらちらと何人かが君を見ていたね。僕の方を見ていた奴もいたよ。

 たぶん彼女らは、君が君の友達二人を突き落としたと思っているんだ。そして僕がその現場に行き、証拠隠滅を図ったと考えているの違いないと僕は思った。

 なんてばかばかしいんだろう。証拠もなければ動機もない。状況だけを見て可能だった、というだけの話だ。彼女らの考えはほとんど妄想に近いと言ってしまってよかっただろう。

 僕はふいっと明後日の方向を向いた。ばかと交わってもいい事なんかないから、関わらないで済むのならこちらから願い下げだ。

 しかし君は違っていたね。君は他人との交わりを強く望んだ。自分から積極的に話しかけ、その度に手ひどく追い返されたね。殺人を犯した事なんてないのに、殺人犯だなんて言われて。突き落としたなんて事実もないのに。

 全く無意味な事だと思った。けれど、それを僕が何度言っても君は聞く耳を持たなかったね。

 だから僕はほどなくして、君の説得を諦めたんだ。君を見放したわけじゃあない。君は確かにそれほど頭の回るほうじゃあないけれど、ばかというわけでもないからその内気の付くだろうと思ったからだ。

 言って聞かせてだめなら、そりゃあもう本人に気付いてもらうしかない。

 僕は何度拒絶されてもめげる事なく果敢にクラスメイトに話しかける君の姿を見ていて、はぁと溜息を吐いた。

 全く、何をやっているんだか。そんなばか共と関わったっていい事なんかないのに。

 何度言ってやったか知れない。それでも君は諦める事を知らなかったね。

 僕はふいっと君から視線を外し、窓の外を見た。

 どこまでも澄み切った空だった。揺蕩う雲がどことなく非現実感を誘う。

 まるで、ここが現実ではないみたいな感じだった。

 何か、得体の知れない場所に辿り着いたのではないかと錯覚させる。そんな雰囲気だ。

 僕は椅子から立ち上がり、無視をされ続けている君の側に歩み寄った。

 僕が近付くと、君の前にいた二人の女子が僕を見たね。その怯えたような、蔑んだような瞳は今でもはっきりと覚えているよ。

 ポンと君の肩に手を置いたんだ。君はびくっと肩を揺らして、僕を振り返ったんだ。

 その顔はひどく怯えていたよ。彼女らに無視をされ続ける事が心の底からつらいって、孫あふうに思っている顔だった。

 僕は一瞬、声をかける事を躊躇った。無駄だと知りつつ続ける努力の空しさを思えば、しかし僕の戸惑いはほんの刹那のものだ。

 クラスメイトの前だという事にも構わず、僕は告げたんだ。その言葉を。

 無駄だよ、と僕は言った。彼女らが君に心を開く事はなく、そして君が以前のように誰かと打ち解けられるはずもない。

 君は首を振った。ふるふると、力なく。

 勘違いしているだけだと言った。勘違いは解かなくはならないと。

 君の背後にいた二人は恐怖に慄いた瞳で君と僕を見ていた事を、おそらく君は知らないだろうね。彼女らは君を檻から逃げ出した猛獣でも見ているかのような目で見ていたのを。

 そうして、僕が現れた事に少なからずほっとした事を。

 僕は告げなかった。そんな事が口にできるはずがなかった。

 しかしこれ以上ここで喚き散らしたところで成果が出るはずもない。

 仕方なく、僕は君の手を引いて廊下へと出た。けれど廊下にも他人はたくさんいて、落ち着いて話ができる状況ではないだろう。

 誰も彼もがこちらを見ている。ひそひそと何かを話し合っていて……まぁ大体何を言っているのかは見当が付くけれど。

 それはそれとして、僕は人気のない場所を探した。きょろきょろと周囲を見回しながら階段を降りる。その際に君はずっと、離して欲しいと言っていたね。けれど、そんな事をしたらまたあいつらのところへ戻って行こうとするのは目に見えていたので、離さなかった。

 この手を離したら、また君は勝手に傷付こうとするから。

 だから僕は絶対にこの手を離さない。もしこれから死地へと向かうのなら、僕も一緒に行こうと思う。

 だけれど、君が向かおうとしていたのは死地なんかじゃない。ただの沼だ。

 どこまでもどこまでも底の知れない沼だ。終わる事なく落ちていく、死すら訪れない沼。

 ただ息苦しさだけが募っていく。そんなのは、つらいだけだ。

 わざわざ自分からつらい事をする必要はない。今は受け入れられなくても、いつか受け入れられるようになるから。だから。

 だから……目を逸らす事を覚えるんだ。そうしていれば、時間が解決してくれる。

 僕は人気のない場所を見付けた。体育館の裏の、草村だ。

 中途半端に陽の光が入るから、雑草も中途半端に伸びている。

 僕たちの、とりわけ僕はクラスの中でも背が低い方だ。だからと言っていいのかわらなかったけれど、雑草は僕の膝頭のすぐ下まで伸びていた。

 ちゃんと手入れしとけよ、と悪態を吐きたくなる。ちくちくとした感触に、自然と眉間に皺が寄る。

 けれど、そんな事はこの際どうだっていい。

 僕は体育館の壁に君を押し付け、ドンッと手を突いた。

 壁ドン、なんて可愛らしい、青春の一ページ的なものじゃあない。きっと、もっとおどろおどろしい何かだ。

 君はじっと僕を見ていたね。恨みがましく、瞳の端に涙を溜めて僕を睨んでいた。

 どうして止めたのかと、そう訊ねたいんだろう、と僕は思った。理由はない。ただの直感だ。

 それでも、僕は君を止めなくてはならなかったんだ。あのままあの二人に話しかけていたところで、君が救われる事はないのだから。

 僕は言った。あんな奴らに肩入れするべきじゃあないと。でも、君は僕の話には聞く耳を持たなかった。

 いや、それどころか僕を罵倒しだした。君は僕を憎んでいた。

 恨みがましい目だった。どうしたらそんな目ができるのか、僕には理解ができないほどの。

 僕よりあいつらがの方が君にとっては大切らしい。

 なんで……と言いたくなった。どうして? 

 これほどまでに僕は君の事を大切に思っているのに。そりゃあ君をいじめていた時期もあったけれど、それでも今は君の味方になりたいと素直に思っている。

 強く思っている。……なのに、どうして?

 僕はぐっと唇を噛んだ。涙が溢れそうになって、どうにかそれを堪える。

 どうして僕じゃあだめなんだ。僕だけじゃあ……。

 ぶるぶると全身が震えた。敵から視線を逸らしているだけじゃあだめだというのだろうか。

 僕はどうしたらいいのわからず、君から身を逸らした。踏みつけた草の感触が、薄い上履きの底から伝わってくる。

 肩を落とす僕を、君はただじっと見ていたね。僕の事を見詰めていた。

 おそらく君も、僕と同じだったんだろう。同じように、あの時の僕にどう接したらいいかわからなかったんだろう。

 それは僕だって同じだ。君が余裕をなくしていた事も知っていた。自信を無くしていた事も知っていた。なのに、僕には君をあいつらから遠ざける事以外に、できる事がないような気がしていた。

 結局のところ、その時の君は僕を励ましたりはしてくれなかったね。

 僕を一人、その場に置き去りにしてどこかへと行ってしまった。まず間違いなく、クラスへと戻ったのだろう。

 そしてまた始めるのだ。あの無駄で徒労な日々を。

 そうやって日々消耗していく君を見ているのが、当時の僕にはつらかった。だから君を助けたいと思って行動していたのに。なのに……。

 僕はその日以降、君に声をかける事を一切やめた。君がどんなにつらい目にあっていたとしても、僕は絶対に声をかけたり助け船を出したり、そんな事はしなかった。

 君の方も、僕に助けを乞う事はなかったね。思えば、それまでにも君に助けてと言ってもらったことはおろか、助けてほしそうな目を向けられたことすらなかった気がする。

 けれど、それ自体はどうだっていい事だ。問題は別の場所にある。

 それは、とある寒い冬の日に起こった。

 五年生も残すところ後数ヶ月。数ヶ月後には僕たちは揃って六年生へと進級する。

 まさにそんな時期の出来事だ。

 僕はいつものように、君と並んで連れ立って登校していた。当然僕たちの間に会話はなく、ほとんど義務感のような感じで学校へと向かう。

 一緒に遊ぶ友達なんておらず、学校へはただ給食を食べに行っているようなものだ。

 僕は一人、そんな感想を抱く。勉強なら一人でできる。今学校に行ったって、社会性が見に着くとは到底思えなかった。

 けれど行かなくてはならない。両親に言われたから、というのももちろんある。

 でも、それだけではなく、君が学校に行くから。

 僕にとって無駄な事を、君はずっとやりたがるから。

 僕は君を見守っていなくちゃならない。自分にそんな責務を貸した。

 昼休み。屋上へと続く階段の踊り場で。

 いつものように席を立った君を僕はぼーっと見ていた。どうせいつものようにクラスメイトに話しかけるのだろうと思っていた。

 けれども、その日の君は違っていた。その日の君は誰とも会話を試みず、一人でふらふらっと廊下に出て行ってしまった。その足取りは覚束かず、危なっかしいなと思った。

 僕は自分の席から立ち上がり、君を追った。廊下に出て左右を見回すと、君を見付けた。

 慌てて追いかける。階段を昇って行ったようだとわかった。

 だから僕も階段を昇る。昇って……屋上の手前までやって来た。

 立ち入り禁止の立て看板。それをじっと見詰める君。

 どうしたのだろう、と不思議に思っていると、不意に君はそれに手を触れた。

 何を……と思う暇もなく、君はそれを横に倒したんだ。ガタンと大きな音が鳴って、僕はびくっとした。けれど君は全く動じる事なく、その上を跨ぐ。

 屋上へと続く扉には鍵がかかっていなかった。立ち入り禁止とするからには鍵をかけておけよと思ったが、そんな文句を言いに職員室に行く時間はないと直感した。

 屋上へと出る。びゅおうびゅおうと吹き付ける風が僕の頬を痛いくらい張ってくる。

 君の髪を激しく靡かせる。

 何をしているのだろう、と僕は不思議に思った。が、すぐにそんな疑問は霧散した。

 君が屋上の縁に足をかけたからだ。バランスを取るようにして両腕を広げ、眼科を睥睨する君の姿に、僕はぎょっとした。

 何を――と、考える暇もなく、君は体重を前方へとかけた。

 つまりは、身を投げ出したのだ。

 ばか、と言ったつもりだったが、風の音にかき消されたのかそれとも最初からそんな言葉は口にしていなかったのか。どちらかはわからなかったが、ともかく僕は駆け出した。

 駆け出したところで、間に合わないのはわかっていた。僕はもともと運動が苦手なタイプだったから、尚更だ。

 かなりの余裕を持って、君の手は僕の手をすり抜けていく。どう足掻いたって届く事はなく、一瞬後には君は固い地面の上に壊れた人形のように倒れ伏していた。

 世界が暗転した。色が抜け落ちていく。 

 君の周りを他の生徒や先生が取り囲んだ。低学年の子の泣き喚く声が聞こえてくる。

 びえええええ! と。風切り音を押し退けて、はっきりと。

 何が起こったんだ……? 僕は目の前の事態が理解できず、呆然とその場で手を伸ばしていた。何が何が何が何が何が何が?

 何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が!

 何が……起こったんだ?

 学校中が大騒ぎになった。

 蜂の巣を突いたような、という形容があるけれど。

 まさにこういう状態を言うのだろうな、とその時僕は思ったんだ。

 間抜けに、手を伸ばしたまま。

 眼前に広がる血溜まりを見て――僕は失った。

 

 

 

 

 結論から言えば、君は死んだ。何せ頭から真っ逆様に落ちたのだ。小学生の体で無事で済むはずがない。

 お通夜もお葬式も、滞りなく終わった。前年、君は友達が多い人だった。

 だけれど、晩年になると――とはいっても小学五年生の十一歳の折だったのだが――友達と呼べる人物はほとんどいなくなってしまっていた。

 分水嶺となったのは、どう考えたってあの転落騒動だ。あの二人が突然に誰かに突き落とされたのだと言わなければ、こんな事態になる事はなかっただろう。

 終わった事をぐちぐち言っても仕方がない。文句を言ったところで、復讐をしたところで死人は蘇らないのだから。

 理屈ではわかっているそれらの事実を、僕はお葬式の最中に頭を振って脳みそから追い出した。

 誰も泣いていなかった。彼女の両親以外の誰も。

 その光景は、今もはっきりと覚えている。お坊さんがお経を唱えている横ですすり泣く君のご両親。その光景は、僕の中で間違いなく最悪の思い出として残り続けるだろう。

 どうして君が死ななくてはならなかったのか、僕にはいまいちわからなかった。

 お葬式が終わり、クラスメイトたちは解散していく。僕の両親は何が起こったのかよくわからない、どうしてあの活発だった子が……などと話している。いつまでそんな話をしているんだ、この人たちは。

 僕は怒りにぎりっと奥歯を噛み締める。少し歯が欠けていた事が、後々になったわかった。

 家に辿り着くと、まだ君の話をしていた。ずっと意外だ意外だと言ってた。

 後年の君の沈み具合を知っていたから、僕は君の死がちっとも意外じゃあなかった。けれど、君の事を知らない敵からしてみると、君の行動は予想外のものだったらしい。

 ガタンッとテーブルを鳴らす。打ち付けた拳がじんじんと痛かった。

 両親は僕の行動に驚いたらしく、目を丸くしていた。どうしたんだ? という問いがやけに白々しく感じる。

 どうしたんだ? じゃねぇよ! この腐れ外道が!

 僕は内心でそんな事を思った。が、それを口にする事はなかった。

 かわりに、どすどすと足音を響かせて部屋に戻った。バタンと乱暴に扉を閉める。

 はぁはぁと肩で息をしていた。運動不足が原因……というだけではないだろう。

 どくどくと心臓が早鐘のようになる。ずるずると扉に背中を預けたまま、座り込んだ。

 ――どうして、君が死ななくちゃならないんだ……!

 お通夜でもお葬式でも、僕は泣かなかった。正確に言うのなら、涙が流れなかったのだ。

 でも、今は涙が流れる。一人になった途端、一人だと自覚してしまった途端に。

 頬を伝う熱い感触。ぽたぽたと僕の目から落ちた滴が床を濡らす。

 その様子を見ながら、嗚咽した。下にいるはずの両親には聞かれたくなかったから、できる限り声を殺して泣いた。

 泣いて。

 泣いて。

 泣いて。

 泣いて。

 泣いて。

 どれくらい時間が経っただろう。ふと顔を上げると、部屋の中が真っ暗だった。

 いや、部屋はもともと真っ暗だった。電気を点けた覚えはないから。

 ではなぜ真っ暗なのか。理由は単純だ。

 階下から薄らぼんやりと入って来ていた光がなくなっていたからだ。

 今、何時だろう? 僕は時計を探して周囲を見回した。

 手探りでスイッチを探す。かちりという音とともに、部屋の電気が煌々と僕を照らす。

 僕は思わず目を閉じた。眩しくて、その場から一歩も動けなかった。

 どれくらいそうしていただろうか。たぶん最短でも一分はそうしていたと思う。

 段々と目が慣れて来た。ゆっくりとまぶたを持ち上げると、自分の部屋の全貌が見て取れる。

 相変わらず、殺風景な部屋だった。勉強机と椅子とベッド。本棚には大量の本が詰められていた。全部文庫本だ。

 それ以前に君の部屋へとお邪魔した時は、もっと色々あったよね。

 例えば、何に使うのわからない人形……とか。

 僕はその事を思い出して、くすっと笑った。君は昔から、そういう無駄なものを集めるのが好きだった。僕はいつも君の買い物に付き合わされる度に、そんな事を思ったものだ。

 もう、君の買い物に付き合う事もない。そう思うと、清々する……わけがなかった。

 もしも、もっと違う形で君と別れていたなら、僕もこんな事は思わなかっただろう。

 でも君との別れは、僕にとって想定したくはないものだったから。

 だから僕は、君との別れを受け入れられなかった。

 どうしたらいいんだ? 僕はどうしたら……。

 時計を見ると、日付が変わっていた。深夜の二時半になろうとしていた。

 風呂、どうしよう……なんて事を考えられるくらいには思考力が回復してきたと思う。

 だけれど、もう入る気にはなれなかった。

 僕はそのままぼふっとベッドへと飛び込んだ。頭から布団を被り、丸くなる。

 リモコンを使って部屋の電気を消すと、今度は真っ暗な事を意識する。

 真っ暗だと、目の前に色んな光景が浮かんできた。

 君をいじめていた日々。君と過ごした日々。

 もう戻らない、戻る事のない大切な時間。あの日々を思い出すと、また泣き出してしまいそうになる。

 だから僕はぐっと唇を噛んだ。泣いてしまわないように。

 たぶん、僕が泣いてしまったら君は、安心して天国へ行けない。

 それから僕は、朝までずっと一睡もせず、涙を堪えていた。

 

 

 

 

 それからおよそ一週間ほどだろうか。僕は学校を休んでいた。

 休んで、何をしていたのかと問われれば何もしていなかったと答えるしかないだろう。

 ずっとベッドに潜り込んで、本を読んでいた。大抵は幸せな結末を迎える話だった。

 今、悲しい話を見たら僕はきっと死んでしまう。悲しみと罪悪感で押し潰されてしまうだろうから。

 なんとなく、そんな予感があった。だから僕はずっと、ハッピーエンドの本ばかりを読んでいた。

 恋人が結ばれる話。親と子が再開する話。怪我をした小鳥を助けてあげる話。

 色々だ、色々。人が死ぬ話は避けた。たぶん無意識だ。

 僕はそうやって、どうにか心の平穏を保っていたんだと思う。

 なるべく外に出ないようにして。君のご両親と顔を併せないようにして。

 ……たぶん、それだけじゃあないんだろうけれど。

 その時は全然そんなつもりはなかったけれど、たぶん期待していたんだ。

 また、インターホンを鳴らして君が迎えに来てくれる、と。

 お葬式の場で、花束に包まれた冷たい君を見ていたっていうのに、おかしな話だ。

 自虐でも何でもいいから、笑おうとした。自分はおかしい奴なのだと考えて。

 でも、それは不可能だった。僕は自分の顔に手をやった。

 触れると、全く頬が動いていない。おそらく、全然笑えていないんだろう。

 笑え、と自分に命じる。けれど、全く笑えない。

 僕は再び布団を被って、横になる。腰が痛かったけれど、気にはしなかった。

 やはり僕は君がいないとだめみたいだ。……このまま、君の後を追って自殺するのも悪くないかもしれない。

 ふとそんな事を考えていた。でもたぶんだけれど、君はそれを許さないだろうとも思った。

 君は自殺をした、というニュースを見る度に憤慨していたね。どんな理由があろうと自分から死を選ぶなんてしてはならない事だと。

 そんな君が僕より先に死んだ。それも屋上から飛び降りたなんて、なんともお笑い草な末路だろう。

 君は自殺というものを受け入れていなかったのではなかっただろうか?

 とはいえ、今となってはそれもどうだっていい事だ。いや、もっと由々しき事態といってもいいかもしれない。

 自殺はだめだと言っていた君が自殺をした。それだけこの世の中が息苦しかったという事だから。気持ちは、痛いほどわかる。

 君を失った今の僕は、まさに息苦しさを感じているよ。

 僕はどうしたらいいんだって塞ぎ込んだ。これが絶望って奴なのだろうか。

 何をしたって君は戻らないんだから。

 そして一週間後。僕は再び登校する事にした。

 気持ちの整理なんてまだ全然できていなかったけれど。本当は君が迎えに来てくれるのを待っていたかったけれど。

 それでも僕は学校へ行った。理由としては、両親の必至の説得にあって、だろうか。

 学校へ行くとざわざわと騒がしかった。誰も彼もが普通に生活をしていた。

 まるで、君なんて最初からいなかったかのように、普通に。

 僕が教室に入ると、一瞬だけざわめきが止んだ、ような気がした。

 なんだ? と思っていると、次に先生が入って来た。早く席に着きなさい、と激が飛ぶ。

 先生は僕の姿を見付けると、少しだけ表情が華やいだようだった。

 えっと……ええ? どうしてそんな顔をするんですか?

 僕は内心でそんな疑問を浮かべた。けれど、それを口にして先生に質問したりはしなかった。

 答えなんてわかり切っていたから。きっと僕が登校してきたからって言うに決まっている。

 だから僕はあえて何も言わなかった。怒りは心の中にぐっと抑え込んだ。

 まだ傷の癒えない幼馴染。そんな風体を装う。そうする事で、誰も僕に不用意に近付こうとはしないだろう。

 誰とも会話なんてしたくなかった。みんな敵だから。

 敵とは仲よくはできない。敵とは視線も合わせたくなかった。

 だから僕は窓の外を向いていた。本を読んでいた。

 クラスメイトと目を合わせなくていいように。先生の方を見なくていいように。

 それから次第に、僕のクラスでは……いや、僕のクラスだけじゃあない。

 学校中から、君の記憶は失われつつあった。

 君が在籍していたという痕跡も、跡も、記憶も。全部がなくなりつつあった。

 ……もうなくなっているのかもしれない。そう思うと、途端に腹立たしくなった。

 どうしておまえらが生きているんだ? どうしておまえらなんかが……!

 腸の煮えくり返るような気持ち、とはたぶん、この時の僕の事を指して言う言葉だったんだろう。

 僕はその気持ちを抱えたまま、小さく歯噛みした。

 君のいない冬はとても物悲しく、寂しい印象だった。

 枯れて葉っぱの抜け落ちた枝を見る度に、君を思い出していた。

 そうして僕は、クラスメイトやその他に敵対心を抱いたまま、六年生になった

 

 

 

 

 六年生の始まりは、反吐が出そうだった。

 新入生を前にして、檀上に上がる六年生代表。成績はトップクラスで更にスポーツも万能と来ている。モテる要素を限りなく詰め込んだら、こんな人間ができるのではないかと思われるほどの人物がいた。

 それはそれとしてだ。僕はざっと、体育館に集まった全員を眺め回す。

 君の死から早数ヶ月が過ぎていた。君が生きていたという記憶は風化しつつあり、彼らは既に新しい生活へと意識を向けようとしていた。

 いや、本当はもう向けているのかもしれない。君の生も死も、彼らの心の中から消え去っていたのかもしれない。

 何事もなかったかのように恙なく入学式は進行していく。まだ幼い後輩らは、おそらく数ヶ月前の出来事を知らないだろう。瞳をきらきらさせて、新な学校生活に期待を膨らませていた。

 僕はそんな新一年生から視線を逸らした。たぶん、この中で僕一人だけが、彼らの新しい門出を心から喜べなかったんだろう。

 終わった事は仕方がない。なくなったものは帰って来ない。

 その理屈を理解していて、それでもなお僕は前に進めずにいた。

 気持ちはずっと、五年生のままだ。君が死ぬ間際のあの屋上での事が、ずっと頭の中にこびり付いていた。

 ちらと隣に立つ同級生を見やる。この中に、君と仲よしだった人もいたはずだ。

 僕が知っているだけで、二、三人は確認できた。彼女らの顔にも、晴れやかなものが確認できた。

 ふざけるな! とこの場で声を荒げたい気持ちになった。

 あれだけの事をしておいて、何をのうのうとしているんだ、こいつらは。

 吐き気と嫌悪感に苛まれながら、僕はじっと耐えた。

 入学式が終わるのを。

 

 

 

 入学式が終わると、六年生が一年生の手を引いて一階の教室まで案内するのが通例だった。

 他のクラスメイトたちや、他所のクラスの連中は例にもれず、和気あいあいとした様子で教室へと向かう。

 けれど、僕には不可能だった。

 隣に立つ男の子が手を差し出してくる。小さな手だった。ぷにぷにとしていて、とても柔らかそうだ。

 僕はその手を無視して、前を向いていた。彼とは教室に着くまで、目も合わせなかった。

 教室に着いてからもだ。

 他のクラスメイトたちが一年生と楽しげに談笑している中、僕は自分の役目が終わるとさっさと教室を出た。

 ぎりっと奥歯を噛み締める。こいつらは異常だと思った。

 あんな事があった後だというのに、平然としている。まるでなかった事のようにふるまっているのが、どうにも気に入らない。

 苛立ちを抱えたまま階段を昇る。一段、一段を踏み締める。

 すると、背後から声がした。が、それが僕を呼ぶ声だとは最初は気が付かなかった。

 三回くらいだろうか。三回目でやっと、僕は自分の名が呼ばれている事に思い至った。

 君が屋上から飛び降りて数ヶ月。僕が話しかけられるのは、何か用事がある時以外なかったから、クラスメイトの声が僕の名前を呼んでいるという異常事態に全く反応できなかったのだ。

 振り返ると、クラス委員の長谷川さんがいた。長い髪をストレートに伸ばしている。黒髪が艶やかな、まじめで強気な顔立ち。

 きっと僕を睨み付けていた。どうやら僕に対して不満があるようだ。全く面倒だった。

 ――何? 僕が返すと、長谷川さんは睨みを利かせたまま、語尾を鋭くして言った。

 ――どうしてあんな態度を取ったの?

 ――あんな態度? 何の事だい?

 ――あの子に対してよ。あんな怖い顔して。せっかくの入学式を台なしにしたいの?

 そんなわけはなかった。けれど、台なしになると言うのならそれも仕方がない事だ。

 僕は首を振る。否定の意を示したつもりだったけれど、通じなかったようだ。

 長谷川さんは更に視線を鋭くする。まるで、僕を殺すつもりみたいに。

 ――小学校の入学式は一生に一度の事なんだから、あんな怖い思いをさせちゃあ可哀想じゃない!

 可哀想……そんな言葉が長谷川さんの口から出てくるなんて思わなかった。

 意外だった。僕は思わずくすりとする。口の端が気持ち悪く吊り上がってるのが自分でもわかった。

 ――な、何よ……。

 ――何でもないよ。ただ、よくそんな事が言えるなぁと思っただけ。

 ――は?

 長谷川さんは意外そうに目を細め、首を捻る。僕が何を言っているのか、よくわからないといった様子だ。参ったな……。

 ――話はそれだけ?

 ――え? まぁ……それだけ、だけれど。

 だったら、もういいだろう。不満は聞いたのだから、もう用はないはずだ。

 僕は踵を返し、階段を再び昇り始める。背後で長谷川さんが舌打ちするのが聞こえてきた。

 だんだんと足音を響かせて戻っていく。子気味のいい、リズミカルな音だった。

 肩を怒らせ遠のいていく彼女の姿を想像する。別段面白くも何ともなかった。

 校内は騒がしかった。ほとんどが新一年生の事で持ち切りだ。

 後は新しい生活……とはいえ、大半の生徒が授業に関する不満や不安を言い合っているだけだ。少数だが、昨日のバラエティ番組の話をしている奴もいる。

 教室に戻ると、当然だががらんどうだった。誰一人としていない教室は窓から風が入り込み、カーテンを揺らしている。以前変態が入って来たというニュースを見たような気がしたのだが、それについてあいつらはあまり深くは考えていないらしい。

 まぁそうだろう。ニュースの中の出来事なんて、所詮は他人事だ。いちいち深刻に受け止めていたら、それこそ気が狂ってしまう。

 僕は教室に入った。けれど自分の席へは向かわなかった。

 最奥の席。窓際で、風がよく当たる席。

 僕はそこへ行った。一年前の今頃、思い出の中の君がいた席だ。

 正確には、一つ下の階だったけれど。そこには今、別の奴が座っている。

 僕は机に触れ、目を閉じた。遠い思い出に触れるように、記憶を探っていく。

 一年前。まだ君が元気だった頃。君は僕の事を気にかけてくれていたね。友達のいない僕の事を可哀想な奴だって思っていたんだろうか。もしそうなら、思い違いもいいところだ。

 僕は机から手を離し、目を開けた。時計を見ると、そろそろみんなが帰って来る頃だ。

 敵にこんなところを見られたら、どんな目に遭わされるかわかったものじゃあない。

 僕は自分の席へと戻った。鞄から文庫本を取り出して開く。

 ほどなくして、クラスメイトたちが帰って来た。僕はちらと入り口の方を見た。

 僕と目が合うと、一番最初入って来たそいつは一瞬立ち止まり、顔をしかめた。たぶん僕の事を苦手に思っているのだろう。僕だってそいつの事が嫌いなのだから、おあいこだ。

 気まずい雰囲気が流れた。僕にとってはいつもの事だったので特に気には留めなかったが、そいつにとってはあまり経験のないものだったらしい。確か去年は違うクラスだったと思うが、たぶん君の事は同学年の奴なら全員は知っているはずだ。

 誰かが言いふらしたわけじゃあないけれど、あれだけ派手な事をすればそりゃあ噂にもなる。

 だからと言って何がどう変わったかと言われれば、変わらない。何も。

 ただ君が死に、僕は生きている。他の連中も生きている。授業が行われ、同じような毎日が繰り返されていた。

 君の死は、全くもって何にも影響を及ぼさなかったという事だ。これこそ無駄死にという奴だろう。何の変革ももたらさない死はただの死なのだ。

 僕は視線を活字の波の中へと戻す。ここ数ヶ月の間、死の絡んだ話は読んでこなかった。

 ずっと、そのワードを避けていたんだと思う。死とはすなわち、君を連想させる言葉だからだ。

 君の消失を。だから、避けていた。あえて。

 しばらくして、朝の会が始まった。先生が入って来る。去年に引き続き、同じ先生が担任になった。だから僕は先生の顔や声や仕草や名前や背格好をできる限り記憶に留めないようにした。

 敵の姿は、なるべく覚えていたくなかったから。

 クラスメイトの事も出来得る限り忘れようと努力した。名前や正確や出席番号。トニカク情報を頭の中から追い出すために本を読んだ。

 人間は基本的に上書きを繰り返していくと何かで読んだ記憶あったからだろう。本の中の登場人物や風景や心象や事件で頭の中をいっぱいにすれば、学校での事を忘れる事が可能なような気がしたからだ。

 結局のところ、全てを忘れる事はできなかった。今でも君の最期の姿は脳の奥底にこびり付いて離れない。

 それはそれとして。朝の会を終え、先生が出て行った後のぴしゃっと扉の閉まる音を聞いて、僕は再び本を開いた。しおりを引き抜き、活字を目で追う。

 どんな物語にせよ終わりはある。今読んでいるこの本にだって、だ。

 前評判はそこそこよかった。主人公がヒロインと結ばれて、結婚して子供をもうける。それも二人だ。一人は女の子で、もう一人は男の子。三歳年の差があって、姉が弟を可愛がりよく面倒も見る。絵に書いたような仲睦まじい家族像。

 僕に作れそうもない、理想的な光景がそこにはあった。

 僕は本を閉じ、机に突っ伏する。バッドエンドでもハッピーエンドでも、結局のところ読み進めるのは無理そうだ。

 もうちょっとで読み終わりそうだったのだが、今はお預けにしておこう。

 そう思って、手探りで本を鞄に直したんだ。ちょっとでも周囲が目に入ると、また頭の奥にちらちらと何かが生まれるので、これでいい。

 それからの事は、特筆するべき事もなかった。

 ただいつも通りに授業が行われ、どいつもこいつもがいつも通りの日常を送る。

 そんな下卑た一日が過ぎて行っただけだった。

 

 

 

 

 事が起こったのは、翌日の夜中。たぶん夜の八時を回っていたと思う。

 僕は鞄の中を漁って、今日の分の宿題のプリントを探してた。

 けれどひっくり返してみても、ポケットの部分をまさぐってみても何も見付からない。

 学校に忘れてきてしまったのだろうか。僕としたことがとんだミスをしてしまった。

 僕ははてどうしようかと思い悩む。常識的に考えるのならば、ここは諦めて翌日に先生に事情を説明して多少なりと怒られるのが本当なのだろうが、その時の僕としてはそれはぜひとも避けたいところだった。あんな奴らとは、できるかぎり口を利きたくなかった。

 悩んだ末、学校にプリントを取りに行く事にした。

 こっそりと家を出て、道に出る。僕の家から学校まではおおよそ十分程度だから、近場の部類だろう。以前に誰かが親に車で連れてきてもらって十分ほどかかると話していたのを小耳に挟んだ事があるから、徒歩で十分ならやはり近いと言えるだろう。

 僕は家から出ると、いつもの道程を辿って学校へと向かった。通い慣れているとはいえ、いつもは明るい道も夜は真っ暗だ。路地の隙間から何か得体の知れないモノが出てくるのではないかとびくついてしまっていた。

 おそるおそる、学校へと向かう。懐中電灯とか持ってくればよかったと後悔した。

 けれど、十分後。なんとか学校までたどり着けた。

 校門の前に立ち、きょろりと周囲を見回した。

 ――それで、一体どうやって中に入ろうか。

 普通なら、守衛さんに声をかけて要件を言って……という流れなのだろうけれど、あいにくと見える範囲に守衛さんはいなかった。

 だからまぁ、仕方なく校門をよじ登る事にした。運動……というか体を動かす事全般が得意でなかったけれど、多少息を切らしつつ中に入る事に成功した。

 視界の上の方に、白いもやのようなものを見付けた。ので、そっちを見てみる。

 たぶん懐中電灯の光だ。つまりは守衛さんだろうか。校舎内を見回っていたのなら、この辺りにいない事にも納得がいく。

 と、いう事は今ならすんなりと中に入れるはずだと思った。よかった。

 僕は小走りに昇降口へと向かった。けれど、そこは閉まっていた。仕方なく職員室側の裏戸へと回り込んだ。

 そっち開いていた。ここから六年生の教室までは正反対なのだけれど、この際仕方がなかった。そのままそこから入る事にする。靴はどうしようかと悩んだけれど、持って行く事にした。こんな事で怒られたりしてもつまらないしね。

 という事で夜の学校に潜入する事に成功した僕だったのだけれど、教室まではまだまだ遠い。足下の覚束ない中を行かなくてはならないので、自然と足取りもゆっくりになっていた。

 慎重に階段を一段一段昇っていく。踊り場に出る度にほっとした。

 よかった。これで……と安心しかけたその時だ。

 眼前に白い光が照射されている事に気が付いた。僕は慌てて手すりの影に身を隠した。

 ――誰?

 守衛さんだろうか。なら、まぁ怒られるのはあれだけれど、彼に迷惑をかける事も本意ではないから、ここは大人しく事情を説明して目的を達しようと思っていたのだけれど。

 しかし、違った。

 次の瞬間、懐中電灯を手に現れたのは二、三人の男女だった。

 それも見覚えがある、どころの話ではない。クラスメイトの連中だ。

 名前は……確か長谷川さんはわかるのだけれど、残りの二人がどうにも思い出せない。

 そんな事より……だ。

 何をしているんだ、あいつら?

 僕は眉根を寄せ、奴らの様子を伺った。ひそひそと何事かを話し合っている様子だ。何を話し合っているのかまでは聞き取れなかったけれど、どうせよからぬ事に決まっていた。

 僕はじっとその場に身を縮こまらせながら、三人がどうするのかを見守っていた。

 ほどなくして、話し合いを終えた三人は僕のいる方とは反対側に身を翻した。

 ――何で? と思っていると三人がどこかへと行ってしまおうとするので、僕は後を追ったのだった。もちろん、できる限り足音を殺して。

 どこへ行くつもりだ? と怪訝に思っていると、たどり着いたのはとある一室だった。。

 二階の中ほどにある、一室。〈五ー三〉と書かれたプレートの掲げられた教室。

 去年まで僕たちが使っていた教室で、今は一学年下の後輩たちが使っている教室。

 ――何をしに来たんだろう? と不思議に思っていると、彼女らは数秒の間、〈五ー三〉の前で立ち尽くしていた。

 それも一瞬で、次の瞬間には教室の扉を開けて中に入って行く。

 鍵を……開けていたんだろうな、あれは。

 僕はどうしたものかと考えていた。どうするべきか、と。

 常識的に考えて、守衛さんに報告するのが妥当だろう。四人まとめて怒られるだろうけれど、それならそれで別にいい。怒られるのは後日になるだろうから、僕の目的はそこで達成されるわけだし。

 けれど、と思い留まった。どうしてあいつらがこんな時間にこんな場所に来ているのか。それを確かめたくなってしまった。

 だから僕は足音もなく教室の入り口へと近付いてく。

 ぴとっと壁に背中を付け、中の三人の様子を伺う。

 懐中電灯は下に向けられていた。ほんのりと暗闇の中に浮かび上がった彼女らの顔は下を向いている。口元がもごもごと動き、時折にたにたしていた。気持ち悪い。

 扉は開けたままだ。不用心だなぁと思いつつ、中に入った。三人は眼下の何かに夢中で僕が侵入してきた事に気付いていないようだ。

 僕は机の影に身を隠しつつ、三人に近付いて行く。何を話しているのかを聞き取るためだ。

 ――去年の事、覚えてる?

 ――去年? ええと、何かあったっけ?

 ――ほら、ここの席の子が死んじゃった事あったじゃん?

 ――ああ、あれね。覚えてるよ。

 三人が何かを話している。聞こえてくる言葉は、僕にとって嫌なものばかりだ。

 ――あれって事故か何かだったんでしょ?

 ――あの子が屋上で足を滑らせたんじゃなかった?

 ――それが、自殺かもって話もあって。

 ――自殺? それはまたどうして?

 ――よくニュースで見るじゃん。いじめを苦にしてって奴。

 僕は自然、握り込んだ拳に更に力が籠もるのを自覚した。

 誰のせいだと思っているんだ。誰のせいであんな事態になったと。

 もちろん、長谷川さんを含む今この場にいる三人だけのせいじゃあない。他にもたくさんのクラスメイトや教師の心ない言葉や行動にずいぶんと傷付いていた。

 そして起こったのが、去年の暮れのあれだ。それをまるで他人事のように話すのは、気に入らなかった。何だったらこのまま出て行って、殴りかかってやりたいところだ。

 けれど、僕はそれをしなかった。正確には、できたなかったのだ。

 問題を起こさないように我慢をした……という話ではないけれど、僕はその場で息を殺した。

 カラン……、と音がした。乾いた音だった。何か、空き缶を蹴飛ばすような。

 続いて足音が聞こえてきた。ずり……ずり……、と。引きずるような音。

 最初は守衛さんが見回りに来たのだと思った。見付かったら怒られるなぁなんて呑気に考えていた。

 それは長谷川さんたちも同じだったようで、さっと机の下に身を隠して教室の入り口あたりを見詰めていた。けれど教室の外に懐中電灯の明かりが見えてくる事はなく、数分待ってみたけれども、人がいる気配がまるでしない。

 というか、僕や長谷川さんたちが入って来た扉は開け放したままなので、守衛さんがそれに気が付かないはずはないのだけれど。

 つまり、誰も教室の外にはいないのだろうか。

 そう考えると、それが本当の事のように思えて、ほっとした。

 胸を撫で下ろすと、それは長谷川さんたちも同じだったようで、びっくりしたねーなんて言い合いながら立ち上がった。

 しばらく三人で話し合った後、今日の夜の学校探検はお開きのようだった。開け放したままの扉へと三人が歩いていく。まずい……と思ったが見つかってはだめだと咄嗟に体を縮こまらせてしまった。

 このままだと閉じ込められてしまう事は明白だ。まぁ閉じ込められたとしても中から鍵を開ける事は可能なので、騒ぐほどではないけれど。

 ……と、その時だった。

 また、ずり……ずり……、と引きずるような足音がした。続いて、今度は笑い声が。

 ひきつけを起こしたような、引き笑いとも含み笑いとも取れる笑い方だった。

 喜んでいるのか悲しんでいるか。泣いているようにも聞こえなくはないが、それにしたってなんだってこんな声が聞こえてくるんだろう?

 僕は不思議に思い、周囲を見回した。長谷川さんたちの姿が視界に入り、目を止めた。

 まさか、彼女たちの仕業ではないだろうかと思った。何か、よからぬ企みでもあったのではと邪推した。

 けれど、すぐに僕の考えは間違っていると思った。長谷川さんたちが表情を苦悶と恐怖に染め、がたがたと全身を激しく揺らしていたからだ。

 何をそんなに怯えているんだろうか。僕は不思議に思い、長谷川さんたちの見ている方へと視線を向けた。

 真っ暗闇だった。電気の点いていない、カーテンも閉め切った教室内。

 足元を照らすものはなく、自分がなんだか異界にでも迷い込んだかのような錯覚に陥ってしまいそうになった。

 しばらくの間、僕はじっと目を凝らした。長谷川さんたちには見えているものが、僕には見えていないらしいので、見ようとした。

 だんだんと暗闇の奥が見えるようになってきた。ぼんやりとした輪郭を纏っていたそれは、どうやら人影のようだと理解するのに割合い時間がかかった。

 ずり……ずり……、と音がした。人影が若干、大きくなったように見えた。

 こちらに近付いてきているようだ。だがその歩みは亀より遅く、遅々として前に進まない。

 ――誰ッ!

 長谷川さんの声が裏返っていた。やはり、全身を小刻みに震わせてその影を見つめている。

 なんだ、あれは……。僕もその正体を知りたかった。

 不法侵入者だろうか。などと自分の事を棚上げにして考える。それにしては、だいぶ様子がおかしいが。

 また、ひきつけのような笑い声。意の底がぎゅっと引き絞られるような、ぞっとした感覚を覚えた。

 パッと、長谷川さんたちの足元に光が点る。彼女たちの内の一人が懐中電灯を点けた様子だ。

 ――い、一体誰なの!

 懐中電灯の光がそいつへと向けられた。刹那、その場の全員の呼吸が止まったような気がした。ぶわっと全身から嫌な汗が噴き出した。

 ずり……、とまた足音。そして僕は、そいつの姿を見て戦慄した。

 なん……で? と思わず叫び出しそうになったのを必死で我慢した。

 どうして……君が?

 頭から血を流し、腕や指があらぬ方向に向いて、虚ろな瞳は大きく見開かれていた。

 にぃぃ……、と笑みの形に作られた口元。さっきから何かを引きずる音がしていたのは、俺た足を引きずっていたらしい。

 そこにいたのは紛れもなく僕の幼馴染だった。

 一年前に死んだはずの。屋上から飛び降りたはずの。

 どうして、どうして……、と長谷川さんたちがぶつぶつ呟いていた。

 どうして、とは僕が聞きたかった。ひきつけを起こしたような笑い声がまた聞こえてきた。

 長谷川さんたちが恐怖に目を見開き、かくかくと震える足を後退させる。

 けれど、すぐに用具入れに突き当たった。そしてそこから後ろへは……残念ながら進めない。

 用具入れにぶつかった表紙に懐中電灯を取り落とした。それを慌てて拾い、さっきまで君がいた場所に向ける。……が、そこには誰もいなかった。

 え? と今度は驚きが感情を支配しているようだ。ぐるりと懐中電灯を回した。

 そして、見付ける。自分たちのすぐ隣に、立っているものの事を。

 直後、耳をつんざくような悲鳴が上がった。バタバタと足音を響かせて、教室から出て行空長谷川さんたち。鍵をかける事も忘れて、どころか扉を閉める事すらしていなかった。

 僕はといえば、身動きができなかった。長谷川さんたちのように逃げるのが遅れて、その場でへたり込んで腰を抜かしていた。

 疑問はあった。というか疑問しかなかった。

 どうして君は生きているんだ? そんな質問を投げかけてやりたかった。頭の中に、十と言わず二十と言わず、疑念が浮かんでは消えていく。

 何を……どんな言葉を口にすればいいのか、全然わからなかった。

 ……と、次の瞬間、我に帰ると僕の目の前から君の姿はなくなっていた。

 ――な、何だったんだろう……?

 僕はただ茫然自失の体で、その場に座り込んでいただけだった。

 後に来た守衛さんに見付かり、こっぴどく怒られるまで僕はただ、ぼぅっとしていた。

 

 

 

 翌日には、昨日の僕の奇行はクラス中に知れ渡っていた。

 とはいえ、それで何かを言ってくる奴なんて今の僕のクラスにはいない。だからというわけではないが、僕としては質問攻めにされなくてほっとした。

 二時間目。算数の時間だった。担当の先生の話なんてほとんど聞いていなかった僕は、その時に何をしていたのかといえば、外を眺めていた。

 ぽつぽつと降り続く雨を見ながらら、昨日の事を考えていた。

 何が起こったのだろう、と。あれはまず間違いなく君だったと思う。今思い返してみても、どうしたって当時の君だ。

 けれど、その時の僕はその事実を受け入れる事ができなかった。ただの小学六年生が、科学者もどきの物真似をして、現実的にありえない事だと自分に言い聞かせていた。

 今にして思えば、全く無駄な事だと思える。あの時あんな事を考えず、子供らしく喚き散らしてれば、あんな不幸事が続かなかったのかなと今でも少し考える事がある。

 別に君を責めているわけじゃあないよ。ただ、もしもの話をしているだけだ。

 そもそも僕に、君に対してどうこう言う権利なんてない。君を守れなかったんだから。

 それにしても、と僕は頬杖を突いてじっと机の上を見詰めた。

 あれは一体何だったんだろう。当時の僕は前の日に見た君の正体がわからずに、苦心していた。別段正体を探る必要性なんてないのだが、それでも考えずにはいられなかった。

 あれは本当に君だったんだろうか? 今でも時々、疑問に思う事がある。

 とはいえ、その時の僕がその正体に気付けるはずもなく、かといってなんらかの結論に至れるわけでもなかった。

 とりあえずは保留した。先生も来た事だし。

 それからすぐ、朝の会が始まった。先生はまず僕の奇行に対して注意を促し、それから他のクラスメイトに真似はしないようにと厳命したのだった。

 全くもって不本意だった。何せ君を見殺しにしたような敵にそんな事を言われなくてはならなかったのだから。

 朝の会はすぐに終わった。一時間目は歴史だから、そのまま担任の先生が担当するんだったね、確か。

 先生は黒板に版書しながら、説明をするんだけれど、僕は全く聞いてなかったりするんだ。だから当時先生が言った事はあまりよく覚えてはいないんだよ。

 そんんわけで、その日一日の授業が終わったんだけれど。

 事件……というほどではないしても、いつもとはちょっと違う出来事が放課後の教室で起こったんだ。

 まず、長谷川さんが僕に近付いて来て、言ったんだ。

 ――あんたも昨日の夜教室にいたんだ。

 僕は正直に頷いたよ。だってその通りだったし、長谷川さんは敵だったけれどそこで嘘を吐く理由も意味もなかったからね。

 どうしていたのか、その理由も訊いてきたんだ。そんなの訊いてどうするんだろうって思ったけれど、僕は正直に答えたよ。

 僕の方からも長谷川さんに質問してみたんだ。昨日、なぜ教室にいたのかを。

 けれど長谷川さんは僕から視線を逸らして、気まずそうにもじもじしていただけだった。

 僕ははてと思い、もう一度同じ問いを繰り返したんだ。けれど、それでも長谷川さんが僕の質問に答える事はなくて……焦れた僕はそのまま質問するのを止めてしまったんだ。

 長谷川さんは何か言いたそうだったけれど、僕としては彼女と話をするつもりは毛頭なかったから、ぷいっと顔を背けたんだよ。そうしたら、彼女は黙って僕の側から離れてくれた。

 長谷川さんが何を言いたかったのか、その時の僕にはわからなかった。たぶん、今でもわかっていないのだと思う。

 けれど、その時の僕はそこまで深く考える事ができずにいた。

 ランドセルを背負って、廊下に出た。まだまだ生徒が残っている時間帯だった。

 みんな、僕の方をちらちらと見ていたから、たぶんあれは前日の事を話題にしていたんだと思う。

 深夜の〈五ー三〉の教室にいた不審な生徒、として。

 昇降口で外履きに履き替えていると、先生から声がかかった。

 担任の先生とは別の先生だった。確かカウンセリングの先生だ。

 先生は僕を今はカウンセリングのための部屋として使っている空き教室へと連れて行った。

 白衣姿の彼女は子供の僕から見ても奇麗な人だと思った。僕のお母さんも世間的には奇麗な人だったらしいけれど、僕としては彼女の方が断然奇麗なんだろうなぁと思えた。

 だから、というわけじゃあなく、緊張していたんだ。

 たぶん奇麗な人だったから、という理由ももちろんあるんだろうけれど、それ以前に僕としてはこの人が苦手だったから。

 君が自殺した翌月から、彼女は僕の小学校へやってきたんだ。

 たぶん生徒の、特に直接死体を見た生徒の心のケアをするのが目的だったのだろう。

 だからこそ、先生としては昨日の僕の行動は見過ごせないと思ったのかもしれない。

 僕は警戒心丸出しの様子だったと思う。視線を右往左往させて、教室中を見回していた。

 何の用なんだろう……? ずっと、そんな疑問がぐるぐると頭の中をめぐる。

 先生が紅茶を淹れてくれた。僕の方にカップを一つ差し出し、先生は椅子に座って一口含んだ。それを見て僕もちびっと飲んでみるけれどあまり美味しくないと思った。

 ――昨日、例の〈五ー三〉の教室へ行ったんだってね。

 先生は回り込んだ質問はせず、直球でそう訊ねてきた。ので、僕としてはかなりありがたかった。変に回り込んだ絡め手は、嫌いだったから。

 もしそんな事をされていたら、僕はますます意固地になって口を開かなかっただろう。特に、当時の僕はそんなところがあったから。

 もしかすると、先生は僕のそういう面倒な一面もちゃんとわかってたんじゃないだろうか。だからあんな言い方をしたのかもしれない。

 まぁ今となっては確かめる術も必要もないわけだけれど。

 僕は「はい」と正直に答えた。けれど、それ以上は何も言わなかった。

 別に言わなくてもいいだろうと思ったからだ。僕としては、この話題はこれで打ち切りたいと思っていた事だし。

 僕は先生から視線を外して、じっと紅茶を見つめていた。

 表面に映る、自分自身を。

 ……そうしていると、時間の流れが遅く感じられた。早くこの時間が終わればいいのにと切に願った。

 けれど、先生は僕を開放してくれるつもりなんてさらさらないようだった。

 組んでいた足を解き、反対にする。と、僕の位置からでも先生の足の様子がよく見えるようになった。

 むちむちしているっていうのは、ああいう事を言うのだろうか。

 などと冷静に観察していると、先生は組んでいた足を解き、机の天板の下に隠した。

 そんなにじろじろ見るな、と睨み付けられた。だから僕は先生の瞳を真正面から見据える事にした。

 早く終わらせてくれ、と心の中で願う。僕は今日、早く帰りたいんだ。学校なんて一分一秒として長くいたい場所ではなかったから。

 僕の願いが届いたのだろうか。先生は「では一つだけ」と前置きをして、咳払いを一つした。

 ――君は昨日、何か見たの?

 先生の言っている意味が僕にはよくわからなかった。けれど〝何か〟という言い回しをするという事は、おそらく長谷川さんたちの事を聞いているわけではないだろうとすぐに思った。

 どうしたものだろう……と数瞬悩んだけれど、僕は結局のところ首を横に振った。

 正直に答えてもよかったかと今では思う。どうせ先生たちには何もできないのだから。

 けれど、その時の僕はやはり彼女たちを警戒していたのだと思う。警戒していて、だからこそそうしたのだと。

 先生はほぅっと息を吐くと、僕から視線を逸らした。

 僕は無事に解放され、帰路につく。

 家に帰り着く頃には、いつもより一時間遅かった。家には珍しくお母さんがいた。

 言葉を交わす事なく、部屋に戻った。そうして、ごろんとベッドに寝転がった。

 何をするでもなく、天井を見上げる。

 前の日に見たあれは、まさに君だった。頭から血を流し、全身がぼろぼろだったけれど、間違いようはない。

 見間違え……というわけではないだろう。あの場で僕一人が見たというのならもちろんその可能性は多いにあるのだろうけれど、あそこには長谷川さんたちもいたのだ。

 あの逃げようからして、おそらく彼女たちも見たのだろうと思われる。

 僕と同じものを。

 とすると、見間違えの線はかなり薄くなってくる。何せ僕と長谷川さんたちが同じものを見たというのはいささか以上に無理のある話だからだ。

 僕としては、君の幽霊ではないかという推測があった。それ以前に、何かの本で読んでしっていた。霊とはこの世に未練を残した人魂の事だと。

 そして君はいじめの末に年若くして死を選んでしまったのだ。霊としてこの世に残り続ける理由としては至極真っ当なように、当時の僕には思えたのだ。

 全く……なんだってんだ。

 僕は足下に放り出していたランドセルを蹴飛ばした。バタンと床に落ちて、中身が散乱してしまったけれど、気にはしない。

 あれの正体は何だったのか。どうして僕たちの前に現れたのか。

 僕はひとしきり考えていたのだが、どうにも結論が出なかった。

 結論が出ないまま、目を閉じる。すると何度も何度も、一年前の光景がまぶたの裏に蘇ってくる。

 それはこの一年、夜にベッドに入る度に見ていたものだ。僕の失策の記憶。

 彼女を救えなかった僕の後悔の記憶だ。

 

 

 

 

 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。僕は眠い目をぱちぱちさせながらそんな事を思っていた。

 状態を起こし、大きく伸びをした。深呼吸をすると、ぼぅっとしていてもやがかったような頭の中が少しだけすっきりしたようだった。

 すると、どうして? という疑問が僕の脳裏でむくむくと起き上がってきた。

 どうして、僕は生きているのだろう、と。どうして僕が死ななかったのだろう、と。

 僕は君と違って人と接する事があまり得意じゃなかったから、君じゃなくて僕が死ねばよかったんだって昔はずっと思っていた。

 そしたら、こんなふうに変な事を考える事もなかったのになって。

 その疑問を頭を振って追い出す。と、今度は別の疑問が鎌首をもたげてきた。

 昨日にカウンセリングの先生が言っていた事を思い出したんだ。

 ――君は昨日、何か見たの?

 何か……誰かではなく何か。

 もしあれがまごうことなく君だったのだとしたら、君は既にこの世の人ではなく、つまりそれは人間という枠から外れているんだなって思った。

 死んでしまえば人間ではなくなってしまうんだなって。それがたまらなく不快だった。

 だって僕は今だに君の事を覚えているし、君がいなくなってしまったのはついこの間の事だって思うから。

 なのにたった一年で、先生もクラスメイトも、たくさんの人が君を過去の人間にしようとするのがどうにも気に入らなかった。

 だから僕は、どうにかして君の事を思い出させてやろうと画策していた。

 画策していた、なんて言い方をしてしまったけれど、別段具体的な方策があったわけじゃあない。ただもんもんとしたものを胸の内に溜め込んでいっているのはよくないなと思っていた。

 そこへ先の騒動だ。僕はいっその事、この騒動を利用してやろうかと思っていたよ。絶好のチャンスだって。

 だってそうだろう? 〈五ー三〉の教室に現れた血塗れで全身ぼろぼろの女子生徒。それを一年前の君の自殺と関連付ける事なんて容易い事だと思ったのさ。

 だから僕はそれを実行に移すべく、計画を練っていたわけだ。どうしたらより効果的に君の事をあいつらに思い出させてやれるかを。

 たぶん、一人二人を巻き込んでやったところで意味はないだろうと思ったんだ。だって、そいつらの見間違いで済んでしまう話なのだから。

 ではどうしたらいいのだろうか? やはり具体策はなく、ただ無為に時間が過ぎていくだけだった。

 ちらりと窓の外を見やる。

 真っ暗だ。何も見えない、というほどの事ないけれど、真っ暗だ。

 外灯の明かりがなかったら、たぶんこの辺りはそれこそ本当に真っ暗になってしまうだろう。

 僕はベッドから降りて、カーテンを開けた。

 ええと、こっちが北のはずだから、たぶんこっちだ。

 学校の方角に視線を向ける。今が夜の何時かは知らないけれど、今頃はあの教室であの幽霊? は今日も元気にしているのだろうか。

 僕はなんとなく気にかかった。確かにあの姿は紛れもなく君だったけれど、君は僕たちの事がわかっていたのかな? どうだい?

 今ここにいる君は、あの時〈五ー三〉の教室にいた君と同一人物だったのかい?

 訊ねてみたところで返事がないのはわかり切っていたから、別にいいんだけれど。それでも今でも、君から何もないと少し寂しくなる。

 話を戻そう。僕は君の存在を彼ら彼女らに刻み付けるべく、何かいい方法はないかと考えた。

 それこそ、何日も何日もかけて。

 そして思い付いたんだ。君の存在を風化させないための秘策を。

 その日は朝から曇り空だった。ごろごろと雲の上では雷が音を立て、雨こそ降っていなかったけれど、かなりどんよりとしていた。

 だからだろうか。クラス中のみんなの元気がなかったように思う。それとも、何か別の要因があったのだろうかと邪推したくなった。

 しかし僕としては、そんな事は気にしていられなかった。

 その日の授業が全て終わると、僕はすぐさま立ち上がった。ガタンッとわざと大きな音を立てて。

 みんなの視線が僕の方へと向く。久方ぶりに注目を集めてしまい、僕は一瞬たじろいだ。

 けれども、だからといってここで座り直すわけにはいかない。

 僕はぎらりとみんなの姿を眺めた。コホンと生払いをして、提案した。

 今日の夜、集まって欲しい、と。

 当然、クラスメイトはほぼ全員が反対した。夜に出歩くなんて普通はしないし、学校に忍び込むなんて論外だ。

 そういうところでは案外まじめというか、変にまともぶっているところがあるなぁと当時は思ったものだ。だけれど、そんな彼らのブーイングも次の僕の一言でシンと静まり返ったんだ。

 ――〈五ー三〉に集まって欲しい。

 クラス中のざわめきが一気に静まり返った。別に全員が集まる必要はないが、できるだけ多くの奴に集まって欲しかった。

 とはいえ、僕に強制する力なんてなかったから、ほとんど賭けのようなものだ。

 考えとくわ、と何人かのクラスメイトがそそくさと教室を出て行こうとした。僕は彼らを止める事はせず、黙って突っ立っていたんだ。

 その内、クラスメイト全員が教室から姿を消した。

 ただ一人、長谷川さんを除いて。

 長谷川さんは不思議そうに僕を見ていたんだ。不思議そう、というか、どこか恐怖をはらんだ瞳だった。

 どうして? と問いたそうにしていたので、質問が跳んでくる前に僕が先に口を開いた。

 ――一年前の事で、みんなに知っておいて欲しい事があったんだ。

 僕はあえて過去形を使った。こうする事で同情を買えないかという打算があったからだ。

 まぁ八割方は諦めが入っていたけれど。

 とはいえ、僕のその答えで長谷川さんは満足したのか「そっ」と短く言って僕の脇を通り過ぎて行った。せめて彼女だけでも来てくれたらと思っていたんだけれど、まぁ無理か。

 僕は自嘲した。全く我ながら浅い作戦だと思ったんだ。

 一年前、君が死んだあの日の事を思い出させれば、みんな僕の願いを聞き入れてくれるんじゃないかって。敵に対してそんなふうに思ったのが間違いだったんだ。

 しかしまぁ、一人で君に会いに来てみるのもいいかもしれない。

 僕は心の内でそう思って、実行する事に決めたのだった。

 そして放課後から更に時間が経って夜の九時を少し過ぎた時間帯だっただろうか。

 僕はこっそりと家を抜け出し、学校の校門前にいた。守衛さんが見回りをしているのか、一階の廊下あたりで懐中電灯の光が揺らめいていた。

 僕は明かりがフッと見えなくなるのを待ってから、締め切られた校門をよじ登った。やはり苦労したが、前回の時よりはだいぶ楽に越える事ができた。

 さて、問題はここからだ。

 僕は自分に言い聞かせ、首を回した。こきりと小さく音がして、なんとなく気合が入ったような気がした。おそらく気のせいだ。

 ともあれ、今日守衛さんに見付かるわけにはいかなかった。前回こっぴどく怒られてしまったので、二度目ともなると何を言われるかわかったものじゃあなかったからだ。

 そんなわけで、今回は慎重に行こう。前回と違って今回は目的の場所がはっきりしている事だし、真っ直ぐそこへ向かえばいいだけの事だ。

 放課後の内に目的地の鍵は開けておいたので、職員室に鍵を取りに行く手間もない。

 僕は前回同様に、校舎内に入ると、真っ直ぐ〈五ー三〉の教室を目指したんだ。

 そして、たどり着くと、すぐに中に潜り込んだ。懐中電灯の類は持って来てなかったから、たどり着くまでにかなり苦労したけれど、その日は月が明るかったから、なんとかなったんだ。

 教室に入ると、僕はまずぐるりと周囲を見回した。

 締め切られたカーテンと整然と並んだ椅子と机。そして誰もいない教室というシチュエーション。

 僕はごくりと喉を鳴らした。昨日同様に本当に君に会えるのだろうかという不安と前日の君の姿が脳裏をちらつき、なんとなく落ち着かなかったんだよ。

 君に会ってどうするっていう事も全く考えていなかったからね。

 しかし、その時は全く何も起こらなかったんだ。君は僕の前に現れてくれなかった。それどころか、異変の一つさえ起きやしなかったんだよ。これじゃあ無駄に足を運んだだけだって事になるから、そういう意味じゃあクラスメイトが来なくて本当によかったと思うけれど。

 だってそうだろう? あいつらが来ていたら、僕は無駄足をさせた奴って事でますます目の敵にされてしまうだろう。

 それは大した問題じゃあないから、仮にそうなっていたとして何ら不自由はないわけだけれど。問題は今、目の前で起こっている事だった。

 僕は君に会いたかったんだ。当時の僕はどんな形でもいいから君に会いたかった。あわよくば君を死に追いやったクラスメイトたちに君の存在を知らせて、君に謝罪してほしかったんだよ。

 けれど、僕の企みは泡と消えた。消えてしまったんだ。

 僕は悲しかったよ。悔しいというより、悲しかった。

 だってどんな形であれ、君と会えると思っていたから。でも、君とはその日は会えなかった。

 十二時まで粘ってみたけれど、結局君が姿を現す事はなかったね。仕方なく、その日は大人しく家に帰る事にしたんだよ。

 守衛さんに見付からないように細心の注意を払って外に出ると、校門を再びよじ登って帰路に就いたんだ。

 家に帰ると、両親にまた怒られたけれど。それで諦める僕じゃあなかったんだ。

 当時の僕はとにかく諦めが悪かったらしい。何度も何度も何度も同じ事を繰り返した。繰り返して繰り返して、でも最初の夜以来君とは会えなかった。

 僕は落胆に肩を落としたよ。なんだか酷く無意味な事をしている気分にもなってきていたんだ。そこへ更に別の情報が僕にもたらされたのだから、その時の僕の心中を察してほしいところだと思っていたんだ。

 何が起こったのかというと、簡単に言えば施錠の仕方の変更だ。

 まず先生たち数人が学校全体を施錠する。そして守衛さんが施錠の確認。これだけに変更になった。守衛さんが中に入って見回る事がなくなったから、夜校内に侵入しようとする生徒は中に入れなくなってしまった、というわけだ。

 侵入しようとする生徒……すなわち僕の事だ。僕が何度も不法侵入を試みていたから、それが問題になったらしい。そういう対策を講じる事によって、生徒の侵入を阻止しようという腹積もりらしかった。

 僕はどうしたものかと首を捻ったよ。だってそうだろう? 君に会いに行けなくなってしまったのだから。まだあの夜以来もう一度会えてすらいないのに、だ。

 もう一度会いたい。もう一度話がしたい。あの時、死を覚悟した時の君の本当の気持ちを訊きたい。

 そんな一心で、僕は必死になって侵入ルートを探したよ。どこからか入れる場所はないかって。けれど、何度訪れても侵入を試みても学校中をくまなく歩きまわっても、先生や守衛さんに見付からずに侵入する方法を見付けられなかったんだ。

 そのうちに、クラスメイトたちに対して君の事を謝らせようっていう考えは消えていたよ。僕はただ、君に会いたい。そう思うようになっていた。

 僕は、たぶんその時君に謝りたかったんだと思う。いじめていた事や死なせてしまった事、守れなかった事とか、全部に対して謝罪したかったんだと。

 とはいえ、そのくらいの事で諦め切れるほど、僕は大人じゃなかったから。

 だから、まぁなんというか、変に意地になっていた部分があったんだと思う。

 それから何日も何日もかけてようやく、僕は一つの答えにたどり着いたんだ。

 つまり、ルートがないのなら作ればいいという事だよ。

 なんて言っても君にはわからないかもしれないけれど、つまりはこういう事だよ。

 先生にも守衛さんにも気付かれないようにルートを作っておけばいいという、当時の僕にしてはばかな発案をしたものだった。

 でも、僕にとってはそれは大層意味のある事だったんだよ。何せ君に会うために必要なことだったんだから。

 だから僕はその日から、どうやって侵入ルートを確保しようかと頭を悩ませたんだ。

 来る日も来る日も心血を注いで学校内を歩き回り、侵入経路を探していた。

 すると、一つの経路が見付かったんだ。

 校門をよじ登った後、中庭に入ってそこから職員室に入るルート。職員室の前には植物が植えられていたから、そこの鍵さえ開けておけばきっと守衛さんには気付かれないだろうと思ったんだ。

 問題は先生たちが戸締りをして回る事だった。守衛さんは外部の人だから騙せるだろうけれど、先生はそうはいかないだろう。内側から鍵をかけるはずだから、そうなってしまえば侵入はより一層困難になってしまう。

 どうしたものかと考えて、僕は一つの作戦を思い付いた。

 それは以前、とある推理小説を読んでいて出てきたトリックの応用だった。

 あらかじめ細い糸を通しておいて、それを外に垂らしておく。侵入する際にその糸を引っ張れば、窓の鍵が開くという仕組みだ。

 これは本来なら殺人現場において密室を作るトリックなのだが、その時の僕は密室を破るために使ってみる事にしたんだ。

 だからまず、僕は家にあった糸をかたっぱしから集めた。

 裁縫用の糸は論外だろう。なかなかに太いし、色がある。こんなものを窓の鍵に無空いていたら、不審がられるに決まっている。

 では、次にピアノ線はどうだろうか。なぜこれがうちにあるのかわからなかったが、今は孫ん事はどうだっていい。これは数ある推理小説の中でも、割とポピュラーな部類の小道具だ。目に付きにくく、他人を殺めるのにちょうどいいときている。

 別に僕は他人を殺めるつもりなんて毛頭なかったけれど、これを使う事に決めた。

 そうなると、問題はどこからピアノ線を調達してくるかだ。

 とはいえ、これはさほど難しくはないだろうとわかってはいたんだ。楽器店に行けばピアノ線なんて簡単に手に入るんだから。

 僕は早速、楽器店に向かった。僕たちの住んでいる街にある唯一の楽器店で、ギターやベースなどの海外の楽器から琴や尺八などの日本の楽器まで、幅の広く扱っているのが特徴的な店だ。

 僕はそこで当然ピアノ線も売られていた。僕は迷う事なくそれ購入したよ。店員さんから少々不審な目で見られたりもしたけれど、かと言って何かを言われる事もなかった。

 ともかく、無事にピアノ線を購入した僕はその日は家に帰ったんだ。決行は翌日以降にしようって決めていたから。

 でもね、そこで一つ問題が生じたんだ。それはピアノ線が固い事だったんだ。

 当時の僕の力では当然引きちぎる事なんて不可能だろうし、そんな事をしたら指が跳んでしまう。

 どうしようと考えて、結局のところそのまま使う事にした。

 窓の鍵に結んで、引っ張れればそれでいいのだから。

 僕は袋から取り出すと、そのままランドセルの一番下に押し込んだ。そうして、宿題を取り出すとやっつけてしまう事にしたんだけれど。

 翌日になると、学校ではざわざわとざわめきが起こっていた。何があったのか気になったけれど、それを聞けるような友達もいないからさっさと席に着いたんだ。

 だけれど……なんとなく漏れ聞こえてきた話によると、だ。

 昨日は再び〈五ー三〉の教室で怪奇現象が起こったらしいのだと言う。前の晩は僕も長谷川さんたちも学校へ行っていないのだから、誰が目撃したのだろうと不思議に思ったが、それよりも重要なのは話の内容だった。

 最初はただの引き笑いだったという。それが段々とエスカレートし、最近では物が勝手に動いたりといった事も起こってきたのだそうだ。

 どうして……? と僕は不思議に思った。引き笑いなら僕も聞いた。おそらく長谷川さんたちも聞いたはずだ。その後に、血塗れになった君の姿を目撃したわけだから。

 あれが見間違いじゃないとすると、どういう事なのだろうか。

 今晩あたり、確かめてみるのがいいのかもしれない。

 僕は一人そう決意して、無意識にランドセルの中のピアノ線を意識した。

 ピアノ線を職員室の窓の鍵に結ぶ。まずはそこからだ。そう気合を入れ直し、ぐっと拳に力を込めた。

 いつが仕掛けを施すために一番適した時間帯なのだろうか。

 そう考えた時、真っ先に思い浮かんだのは授業中だ。先生が教卓で教鞭を振るっている時に抜け出して職員室へと向かう。そするば、成功率はぐんと高くなるように思う。

 そんなわけで、僕は授業中に抜け出す事にした。座学の時間はだいぶ難しいので、体育の時に。

 他のクラスメイトに不審がられないようにわざとトイレに立ち、時間をずらしてぎりぎりで着替えた。ランドセルからピアノ線を取り出して、それを手に職員室へと向かう。

 案の定、職員室に先生の姿はなかった。僕はそろりと中に入ると、ポケットから丸めたピアノ線を取り出した。

 それをぐるりと一周させ、結ぶ。窓を開け、外に放り出すと、また閉めた。

 これでよし。後は夜にまた来るだけだ。

 そう思って、体育の授業へと向かう。当然遅刻だったので、多少の小言は言われたものの、それすらあまり気にならなかった。

 そうして一日の授業を全て消化し、夜になったんだ。

 僕はいつものように両親の目を盗んで学校へと来ていた。そうして校門をよじ登って侵入するんだけれど、ここからは昼間に仕掛けたピアノ線のところまで行く必要があった。

 僕が職員室の例の窓のところまでやって来ると、ちょうそのタイミングで見回りに来ていた守衛さんの持つ懐中電灯の光が見えた。僕は咄嗟に草の影に身を隠し、じっと息を潜めた。

 すぐに懐中電灯の光は消えてくれたんだ。それで彼は行ってしまったのだなと思って、ほっとした。それから僕は手探りで地面に落ちているピアノ線を探り当て、引っ張った。

 カチンと僕の想像通りに鍵が開いたんだけど、僕はすぐには入らなかった。

 なぜなら、あの守衛さんがまた戻って来るかもしれないと警戒していたからだよ。

 でも、僕の警戒は結局のところ無駄だったんだ。守衛さんは戻って来る事なく、僕は無事に校舎の中へと入る事ができたんだ。

 そうして、〈五ー三〉の教室の鍵を探し出す。と、職員室を出て廊下に顔だけを出した。

 きょろきょろと、一応確認する。けれど、人影らしきものは見当たらなかった。

 一息吐いて、足音を立てないように気を付けつつ、階段を上がる。と、目的の〈五ー三〉の教室にたどり着いた。

 僕は持っていた鍵を取り出した。鍵穴に入れ、がちゃりと回した。

 ……と、その時だった。

 ポンと肩を叩かれたのは。

 思わず声が出そうになった。ぎゃあああああ、と大声で叫び出しそうになるのを必死でこらえたのをよく覚えているよ。

 振り返ると、長谷川さんがしーしー、と人差し指を口のところに当てていた。

 僕と同じでかなり必死の形相だったのをよく覚えているよ。

 どうして……? と声が洩れた。あまり大きな声ではなかったから、長谷川さんも今度はしー、とはやらなかった。

 話によると、長谷川さんも噂が気になったらしい。勝手に動く椅子や机、そして引き笑い。

 何より彼女はあの時に君の姿を僕と一緒に見た内の一人だからね。事態がどういうふうになっているのか、気になるのは当然だと思う。

 だけれど、その時の僕は彼女に対して敵対心こそあれ、友愛の情なんてなかったから。どんな顔をして彼女の事を見ていたかなんて想像に難くないよ。

 でも、僕が何を言ったところで長谷川さんもまた、耳を貸すつもりなんてなかったんだ。

 だからまぁ、僕たちはそろって教室内に入ったんだよ。半ば諦めが先行していたんだろうと思う。

 そうして、僕たちは二人連れ立って入ると教室内は真っ暗だった。当たり前だけれど。

 果たして、本当に怪奇現象は起こるのだろうか。

 僕と長谷川さんはおそらく、同じ事を考えていたと思う。この前見たのは幻で、噂はただの噂で、世の中には不思議な事なんて何もないのだと。

 それは半分僕たち自身がそう思いたいだけなんだろうけれど、事実としてそれは本当の事だと思う。怪奇現象なんて本来なら人生の中で滅多に遭遇するものじゃあないだろうからだ。

 僕は教室中に視線を這わせた。確かこの前は入り口を入ってすぐの右手に現れたから……。

 そちらへ目を向けた。すると、ぼぅっと視界が歪んだ。

 ――何が起こってるの……!

 僕だけでなく、長谷川さんにも同様の現象が起こっているようだ。

 長谷川さんはぐっと唇を噛んでいた。何が起こっても声を出さないよう、心の準備をしているのだろうと思った。

 果たして、視界の歪みは消えた。そして後には、ぼんやりとした人影が一つ。

 やはりそれは人の形をしているように見えた。ずり……ずり……、と引きずるような足音を響かせ、僕たちのところへと向かってくる。

 僕たちはその時点で叫び声をあげそうになった。

 それはそうだろう。何せ相手は頭から血を流し、虚ろな瞳でこちらに近付いて来るのだから。

 ガタッと背後で長谷川さんが倒れる気配がした。振り返ると、彼女は机を倒してしまっていた。椅子に引っかかり、派手に背後に転ぶ。その時にパンツが見えてしまっていたが、状況が状況なだけに真っ当な反応を彼女ができるはずもなかった。

 僕としても、ここは気恥ずかしさよりも恐怖が先に立っていた。けれど、ここで長谷川さんのように後退するわけにもいかない。

 僕は彼女とは反対に一歩進み出た。でも、それ以上進める気はしなかったんだよね。

 ピアノ線まで使ってここまで来たのに、僕は一向に目的らしきものを持ってはいなかった。ただ事態を確かめたいと、それだけを思っていたからだ。

 ではこの後どうしものかとぐるぐると頭を巡らせたんだけど、いい案は思いつかなかったんだよね。そこで、僕はどうしても君に訊きたい事があったのを思い出したんだ。

 だからいっその事、それを訊く事にしたんだ。

 ――君は、僕たちを恨んでいるの? って。

 僕がそれを口にするとピタッとその歩みは止まったんだ。君がその時どう思っていたかはわからないけれど、僕はそれが大いに意味のある事だと思ったんだ。

 たぶんそう思ったから僕は更に一歩前に出たんだと思う。君に僕の気持ちを伝えるために。

 それから僕はありったけの気持ちを言葉に込めて、君に言った。それこそ、機関銃か何かのように。

 君との思いで。

 君への罪悪感。

 君を失った事による喪失感。

 戻って来てほしいと願っているという想い。

 全部、全部を言葉にした。最後なんて、ほとんど叫んでいたように思う。

 どうだったのか、実際のところをあまりよく覚えてはいなかった。だから、はっきりとは言えないのだろうけれど、僕はきっとこうも言っていたように思えて仕方がない。

 ――君の事が好きだったんだ、と。

 果たしてそれがどういう感情に起因するものだったのかは、当時の僕に訊ねてみないと何とも言えないけれど、しかし今の僕の気持ちを口にするのなら、それただ一言だ。

 愛している――それだけで十分だろう。

 それがどんな意味を持っているのか、それを僕は知らなかった。

 でも、僕は君を愛していたし、これからだってそうだ。その気持ちに嘘偽りはないつもりだった。

 しかし、君は僕の話をまともに聞いてくれそうになかった。まぁ君は既に死んだ人間だし、その時の君が僕の言葉を理解できるとは到底思えなかったわけだけれど。

 それくらい、君の有様はひどかった。

 君が死んだ事は、あの日にはっきりとこの目に焼き付いていたはずなのに。なのに僕は君が死んだなどとは到底信じる事ができずにいたんだ。

 それは〈五ー三〉の教室で引き笑いを続ける君を目の当たりにしてもそうだった。

 あの時のあれは何かのトリックで、実は君は生きていて、そうとはわからないように僕を罠に嵌めているのだと。勝手にそう思い続けていた。

 もちろん、頭の片隅ではそんな事はありえないし、もしそうだったとしてそうする理由が君にはない事も十分に承知していた。

 でも、だからって現実をすぐに受け入れられるほど、僕は大人じゃあなかったんだ。今でも、時々君は生きているんじゃないかって思う時があるくらいなんだから。

 君は引き笑いを続けながら、のっそりとした動きで僕に肉薄してきたね。あの時は君が何を考えていたのか、全くわからなかった。

 ゆっくりと僕は腕を掴まれた。ねっとりとした感触と、芯から冷えてしまいそうなくらいの冷たい感触が僕の背筋を凍らせたんだ。

 ぞくぞくぞくぞく、と。逃げ出したい衝動に駆られ、僕は咄嗟に君の手を振り解こうとした。

 けれど、君の力は僕の予想の万倍強くって、僕は腕を握られたまま少しも動けなかった。

 ずり……ずり……、と不安定なはずの両足を引きずって、僕の腕を握ったまま君がベランダへと向かった。

 何をするつもりだ? 僕は疑問に思った。が、すぐにその疑問は答えへと変わった。

 僕を突き落とすつもりだ。このベランダの窓から。

 僕は恐怖に慄き、全力で身を捩った。けれど、君の手が僕の腕を離す事はなかった。

 両腕が引きちぎれんばかりに力を込めて、なんとか脱出を試みる。けれど、一向に成功する気配はない。

 そのうちに、君は僕を連れてベランダに出てしまった。

 まずい! 僕の中の警報装置がけたたましく警報を鳴り響かせた。けれどもどうする事もできなくて、僕はただジタバタと足掻く意外にできる事はなかった。

 待ってくれ、僕はただ君に僕の気持ちを伝えたかっただけなんだっ!

 しかし君は僕の言葉を聞き入れず、ずり……ずり……、と更に手すりの近くまで来てしまった。

 絶対絶命……とはまさにこの事だろう。何せこれから僕はここから投げ落とされて死ぬのだから。この下はちょうど、一年前に君が死んだ場所だ。

 これはただの皮肉なのだろうか。それとも君からのなんらかのメッセージなのだろうか。

 僕はふと頭の片隅でそんな事を考えた。全く死の間際だというのに、呑気なものだと自分でも呆れたくなったよ。

 でも、その時ぼっくを助けてくれた人がいたんだ。

 ガンッと鋭い音がしたよ。それからフッと僕の腕から力が抜ける感覚がした。

 僕が振り返ると、そこには振り下ろした椅子を手にしている長谷川さんと、バランスを崩している君がいた。

 全く驚いたよ。君はたぶん幽霊だったんだろう。なのに椅子を叩きつけると喰らうのだから。

 僕の知っている幽霊は実体なんてなくて、物理的な接触や衝撃にはびくともしないはずなんだけれど。

 まぁでもその前に僕の事を触れていたのだから、不思議ではないのかもしれないけれど。

 何でもいいや。ともかく僕はそれで難を逃れたのだから。

 僕はすぐさま教室の中へと入った。鍵を閉めてみたんだけれど、それがどれほど意味のある事なのか全く見当も付かなかったよ。

 ただ、この場から逃げなくてはと、それだけが頭の中で繰り返されていた。

 僕は長谷川さんの手を引いて、教室を出た。長谷川さんは敵だったのだから、助けるのは筋違いだったのだろうけれど、そんな事は後になって気が付いたのだから仕方がない。

 ともかく僕は無我夢中で廊下を駆り、階段を下り降りた。

 申し訳ないけれど、その時の僕はかなり混乱していた。君の殺されそうになった事とか、まぁいろいろとあって。

 だから……というわけではないのだけれど、僕はおそらく渾身の力を込めて長谷川さんの手に握っていたに違いなかった。

 痛っ……! という彼女の声に、僕はようやく握っていた手を離した。

 離して、謝罪した。長谷川さんは首を振り、快く僕を許してくれたよ。

 そうして、これからどうしたものかと二人で考えた。真っ当な人間なら、ここらで帰ると言い出すのだろうけれど、僕としてはあまりその選択肢は取りたくなかった。

 もちろん長谷川さんはすぐにその選択肢を提示してきたのだけれど、僕はそれを却下したんだ。彼女に一人で帰るよう言い含めたのだけれど、長谷川さんは首を振ってきた。

 どうして? と訊ねるより先に彼女の口が動いたんだ。

 ――わたしの、せいだから。

 は? と思った。目が点になるとはこの事だろう。

 それは確かに、一年前の長谷川さんの事が直接の原因だというのはわかった。それはおそらく、彼女のみならずクラスの全員がうすうすは察していた事のなんだろう。

 僕たちの間に会話はない。ただ、僕としてはこの沈黙はかなり気まずかった。

 女子と二人きりというシチュエーションに慣れていないという事もあったのかもしれない。もしくは、もっと他の要因があったのだろうか。そのあたりの事はわからないが、少なくとも今あの場での僕はきっと、すごく鬱々とした気分だったはずだ。

 君が変わり果てた姿で僕たちの前に現れた事。そしてそれを目撃した事。

 君が僕を殺そうとした事。全部が僕にとってはショッキングな事だった。

 僕はぐっと唇を噛んだ。君が僕を忘れてしまったかのように振舞う事が悲しくて。

 僕の事をわからずに……ただ笑っている事が悲しくて。

 僕は。

 僕は……。

 暗い教室内で、僕は膝を抱えて丸くなった。

 何をどうしたらいいのかわからなくなってしまった。

 自分が何をしたいのかも、全部。

 すすり泣く声が聞こえてきた。それがどこから聞こえてきたのか、確かめる事すら億劫だった。ただ……僕はこのままじっとしていたかった。

 消えてしまいたかった。君と同じようになりたかった。

 何も考えず、何も感じず、笑っていられる存在になりたかった。

 そのためならこの世から消えてしまってもいいと思えた。だってそうだろう? 僕は別段、この世に未練なんてなかったんだから。君がいなくなってしまったのなら、尚更だ。

 生きている意味なんてないんだ。さっき君に突き落とされろうになった時、素直に死んでおけばよかったと心の底から思ってしまったよ。

 だけれど、それはたぶん僕だけの勘違いだったんだ。現実逃避だと言ってしまってもいいかもしれない。

 丸まった僕の背中に、バシンと刺すような痛みが走った。

 僕は思わず顔を上げ、何事かと周囲を見回した。もっとも、その原因なんて一つしかなかったんだけれど。

 長谷川さんだった。彼女が僕の背中に、思い切り平手を打ち込んだらしい。

 さっきの音は、その音だったようだ。ジンジンとした痛みが熱を帯び始めるのを感じて、僕は低く呻いた。

 ――泣いている暇なんてない。

 長谷川さんのその言葉は、ともすれば僕には苛烈に聞こえた。

 現実的じゃあないできごとが次々に起こっている。それはおそらく、一年前のあの事件が発端だ。そして彼女はその渦中にいた人物。

 わたしのせいだから、と彼女は言った。一年前、君と一緒に川で遊んでいた長谷川さんともう一人。二人は誰かに突き落とされたと語った。

 それから、君の人生が変わり出したんだ。歪に、変形した。

 長谷川さんはそれを後悔している様子だった。後悔して……だからたぶん、今回の騒動が起こった時、再びこんなふうに不法侵入をしたのだろう。

 何をしに訪れたのか、それは僕にはわからなかった。けれど、きっと謝りに来たのだろうと勝手に想像したよ。

 なぜなら、そこまでしなくてはならなかったから。そうしなければ、長谷川さんはたぶんその後の一生を後悔の念を抱えて過ごす事になっていただろうから。

 どこからか聞こえてきたすすり泣く声。しかし泣いていたの長谷川さんではなく僕だったようだ。頬を伝う涙に触れ、驚きを隠せなかった。

 どうして? と自分自身を問い質したくなった。

 今更悲しむ事なんてないだろう。一年前に死んだ彼女。

 そのお通夜にもお葬式にも、参加したはずだ。なのにまだ、僕は君の死を受け入れられていなかったというのだろうか。

 その時は、我ながら自分のメンタルの弱さを痛感したよ。だって僕は自分の事をもっと芯の強い、剛健な男だと思っていたから。

 もっと平然としているものだと思っていた。だけれど、それは僕の勘違いだったらしい。

 僕はただ、心にふたをしていただけなんだって気が付いた。

 ――みっちゃんにも来てもらおう。

 長谷川さんがぽろりと呟いた。その呟きはともすれば俺に向けられたものではなく、単なる独り言のようにも聞こえたのだけれど、長谷川さんはじっと僕を見ていた。

 だから、おそらくは僕に言ったのだろう。みっちゃん、というのが誰の事を指すのはか全くと言っていいほど見当が付かないけれど、そこは置いておいて。

 長谷川さんは静かに吐息すると、すっくと立ち上がった。

 ――帰ろう、と彼女の唇が動いたのが見えた。僕は……たぶん頷いたのだろう。

 僕たちは連れ立って、夜の学校を後にした。守衛さんに見付からないように気をつけて外に出る。校舎の中から守衛さんの嘆いたような声が聞こえてきた。きっと〈五ー三〉の教室に駆け付けたのだろう。結構大きな音がしていたから。

 僕と長谷川さんはそこで別れた。

 女の子一人で夜道を歩かせるのもどうか、という疑問が頭を過ぎったが、すぐにその疑問は泡と消えた。

 その後はただ、呆然と夜道を家に着くまでひたすら歩いただけだった。

 

 

 

 

 次の日、僕は先生に呼び出され、職員室を訪れていた。

 昨日の事をあれこれと訊かれたのだ。昨夜学校に忍び込んだ者がいる、と。僕には前科があったから、そうして話を聞きたいと思ったのだろう。

 けれども、僕としても正直に答えるわけにはいかなかった。昨日の段階なら、まだ心が呆然としていた事もあって訊かれるまま、見た事聞いた事を全て話していただろう。

 そう思うと、今でもぞっとするよ。

 とはいえ、翌日ともなればそれなりに頭も冷えていた。ので、平然と、というのはちょっと違うような気もしたが、嘘を吐けるようになっていた。

 その後は特別僕が侵入したという証拠もなかったので、簡単な取り調べは五分とかからずに終わった。

 その足で、僕は教室へと向かう。今日はどうしよう……と考えながら。

 今日、再び〈五ー三〉の教室へと行ってみようか。そんな気になっていた。

 あれだけの事があって懲りないな、と自分でも思うのだが、こればかりは如何ともしがないものだ。使命感、とでも言ってしまっていいのだろうか。よくわからかったが、とにかく行かないといけない気がしていた。

 だからというわけではないけれど、僕は気付かなかったんだ。

 背後からやって来る、その人物に……。

 ガンッと後頭部を思い切り叩かれた。それも結構な硬さに感じた。

 振り返ってみると、そこには女子生徒がふたりいた。

 ひとりは長谷川さんだ。長い黒髪を慌てふためかせていて、どことなくいつもの大人びた何時がなくなっていた。

 もう一人はTシャツにパンツ姿の女子生徒だった。明るめの髪を肩口よりやや上で切りそろえ、前髪も割合短めの男みたいな奴。

 右手の平をぐーの形にしている事から、どうやら僕は殴られたらしいと気が付くのに多少の間があった。後頭部を殴るのって結構危ないんだって事をこいつは知らないのだろうか?

 僕はおおお……、と後頭部を抑え、うずくまりながらそいつを睨み付けた。

 ……なんだ、こいつは?

 僕の視線の意味に気が付いたのか、はたまた別の要件があったのか、そいつはふんと鼻息を荒くすると、ぎろりと僕を見下してきた。その視線がまた怖くて、喉が干上がりそうになった。

 話を聞くに、彼女が件のみっちゃんらしい。大空美知留でみっちゃん。

 大空さんはボーイッシュというよりヤンキーみたいな人だった。とはいえ、僕もまんがとかでしかその存在を知らないのだけれど。

 ――あんた、昨日この子を危ない目に遭わせたんだって?

 大空さんが僕を睨んだまま、くいっと長谷川さんへとあごを向けた。

 昨日の事、話したのか。……そしてよく信じたな。

 あの時の事を思い出そうとすると、今でも笑いが込み上げてくるようだよ。

 とはいえ、その時の僕は命の危機こそ感じてはいなかったものの、前日に感じたのとは別種の恐怖を覚えていたよ。

 なんだかとても、ひどい夢を見ているかのようだった。僕が君の関係で敵とあんなふうに会話をしていたなんて……あれを会話と言っていいのかは不明だけれど。

 とにもかくにも、僕の周りには人が集まりつつあった。三年生までは、僕だって少なかったけれど友達がいたのだから、本来ならあれが普通だったのだろう。

 しかし人間、不義理にも不条理にも慣れてしまうものだ。僕が言うのだから間違いはない。

 僕はその後、長谷川さんたちと別れて教室から荷物を取り、帰路に就く。

 長谷川さんがあのみっちゃん……大空さんにどこまで話しているのか見当も付かなかったけれど、僕としてはなんだかひどく滑稽だと思えた。

 だって、君を死に追いやった人物たちがふたり、僕の前に姿を現したのだから。本来なら、彼女らとは距離を置くべきだったのだろうなと思う。

 だけれど、その時の僕はきっと、人肌が恋しかったんだと、そう言い訳させてほしい。ありていに言って、弱っていたんだ。だからああしてなんらの疑念も躊躇もなく、彼女たちと言葉を交わす事ができていた。

 その事を僕は当時の僕は恥ずかしく思っていたよ。だってそうだろう? 敵だと思っていた奴らと会話をする。それこそ、何より君にとっての不義理だ。そして僕の中の決意が揺らいだ証拠でもあるのだから。

 されど、僕はそうしなくてはならなかった。なぜなら、無視など決め込もうものならどんな目に遭わされるかわからなかったからだ。

 例えば……そう、またぞろみぞおちにボディーブローでも決められたりしたら、たまったものではない。

 だから僕は大人しくしている事にしたんだ。少なくとも大空さんの前では。

 それからしばらく、大空さんは僕に説教を繰り返していた。僕はそれを聞き流しながら、別の事を考えていたんだけれど。

 僕は君を、どうやったら救う事ができるだろうか、と。

 僕が君を救うなどと、おこがましいにもほどがあるのは十全にわかっていた。なぜなら僕は生前の君を救う事ができなかったのだから。

 でも、こうして再び僕の前に姿を現したという事は、君は何かしらの未練があるという事だ。

 それを取り除かない限り、君はこの世から成仏で気なのではと考えた。

 だから僕はあんな事をしたんだ。きっと、君にとってはこの世で一番嫌だと思えるような事だ。……僕は内心で後悔していたんだよ。あんな事を君にしてしまった事に。

 でもその時の僕はたぶん、真っ当な奴じゃなかったんじゃないだろうかと思う。

 だって、僕はそうでなかったら君を救いたいなんて思わなかったはずだから。

 ――おい、聞いてんのかよッ!

 人の心を貫くような鋭い声音に、僕はハッと我に返った。

 目の前には大空さんと長谷川さんがいた。当たり前か。と内心で自嘲したよ。

 それを大空さんは別の意味に捉えたらしくって、僕の胸倉をがっと掴んで自分の顔に近付けてきた。

 ……何がおかしいんだ、と瞳が語っていた。きっと僕を殺すのだろうと思えるような、そんな眼光だった。

 けれど、と僕は思う。殺すというのなら、二人は既に人殺しだ。

 たったひとりの女の子の命を奪った殺人者だ。……僕も含めて。

 だから、大空さんにそんな顔をされるいわれはないはずだった。彼女とて、君を殺したひとりなのだから。

 しかし大空さんはそんな事なんて忘れてしまったかのように、悔しそうに眉間に皺を寄せていた。何が彼女にそんな顔をさせるのかわからなかったけれど、僕はただじっと大空さんが僕の胸倉から手を離してくれるのを待った。

 やがて、僕は一発も殴られる事なく、大空さんから解放された。

 大空さんは舌打ちをして、くるりと踵を返したんだけれど。

 ――二度とわたしたちの前に会わられるんじゃねぇぞ。

 そう言い残して、去って行ってしまった。後には僕と長谷川さんだけが残された。

 んだけれど……二度と現れるなと言われても。僕と長谷川さんと大空さんは同じクラスだから、少なくとも視界の片隅に入らないという事はないはずだ。

 それを踏まえた上で言っているのなら、まだいいのだけれど。

 僕はちらりと長谷川さんを見やった。長谷川さんは困ったような顔でおろおろと周囲を見回していた。

 どうしたらいいのか、わからないといった様子だった。僕に助けを求めるように視線を寄越すんだけれど、僕もどう対処したらいいのかわからなかったので、軽く肩をすくめておくにとどめておいた。

 そんなこんなで、この日の僕はいつもと同じようにその後をひとりで過ごしたのだった。

 

 

 

 

 そしておおよそ一月が過ぎて行く。〈五ー三〉の噂は次第次第に広まっていき、夜中に校舎周りをうろつく輩が増え始めた。

 その事実を知って、僕はとにかく肝を冷やしたね。守衛さんの人数が増えたり宿直の先生がいるようになったりと何かと警備が強化されて、その上校内には監視カメラすら設置されたんだから。しかしそれもまぁ生徒だけでなく、外部の一般人も入り込んだりしているというのだから仕方のない措置なのかもしれないけれど。

 僕からしてみたら、なんら嬉しくなんてなかった。むしろ迷惑だとさえ言っていい。

 遊び半分の肝試し感覚で訪れる奴らが恨めしかった。何だったら僕がどうにかしてやろうかと思ったりもしたのだけれど、、それも叶わない夢だろう。

 何せ相手は大人だ。そして僕はただの小学生。どう転んだって止められる道理がないらね。

 でも、それは僕にとって逆に好機でもあった。そんなにたくさん人が集まるのなら、それに紛れて校内に侵入すればいい、と。

 しかし僕は過去二階学校に侵入している。そこへ、更に三度目ともなると果たして見つかった際にどんな罰を喰らう事になるのやら。

 できれば罰は受けたくない。そして見付かりたくもない。

 監視カメラに写ったりなどしたくなかった。

 けれども、より強固となった警備の中をかいくぐって〈五ー三〉に侵入するのは至難の業だった。

 そしてもう一つ、問題があった。それはどうしたら、僕が君を成仏させてあげられるだろうかという問題だ。

 霊がこの世にとどまるには、相応の理由がある。……と、以前本で読んだ事があった。

 理由……というよりは未練と言い換えた方がいいだろうか。なにがしかの未練があって、霊はこの世にとどまるもの、らしい。

 という事は、君も何か未練があってこの世にとどまってるのだ、と僕は考えたわけだ。そして、その未練を探る必要がある、というわけだ。

 ではそれはどのようにして探るのかという具体的な方策に付いては、全くと言っていいほどなかった。皆無だ。

 一ヶ月前、君は僕と長谷川さんの前に現れたね。しかし僕は君と会話ができたとは到底おもえなかった。

 できなかったから、僕はもう一度君に会いたいと願っていた。

 けれど、事態は僕の願いを遮るかのように進行していく。僕はどうにかしなければと慌てふためくばかりだ。

 君の事を知るためには、越えなくてはならないハードルがたくさんあった。

 どうしたらいいんだろう? と何度も何度も塞ぎ込んでしまう。

 もう、会いに行くのは無理なんだろうか。僕は二度と君は会えないのだろうか。

 なんとなくそんな事ばかりを考えていた。考えていて……そしてふと思い付いた。

 ひとりで無理なら、誰かと一緒に行けばいいんだ。

 その発想が頭にひらめいたとき、僕はなんだか雷に打たれたような気分になった。

 背筋がしゃきっとして、目の前が明るくなるような感覚。

 しかし……、とまた首を捻ったよ。だって僕、友達いないから。

 だから今度の事も頼める人がいなくて、どうしたものかとまた頭を悩ませたよ。

 そうしてまた何日か過ぎて、何日か後の放課後の事だった。

 僕はいつものように上履きから外履きに履き替えようと下駄箱へ向かった。教室にはまだ残っていた生徒がいたけれど、僕とは友達というわけではないので僕が残る理由はない。

 という事で帰っていたのだけれど、その足はかなり遅かったなぁ。

 だって君をどうこうする算段がまるで付かないからね。そりゃあ足も遅くなるよ。

 昇降口を出ると、草陰に隠れている人を何人か見かけた。あそこまでして見たいものなのだろうか? 僕にはわからないけれど。

 ――ねえ。

 とぼとぼと歩いていると、背後から声が聞こえてきた。振り返ると、大空さんがいた。

 後、長谷川さんも。

 何? と訊ねると、大空さんはバツの悪そうな顔で頬を赤くして、明後日の方向を向いた。

 そのまま、要件を口にしたんだ。

 ――今日の夜、ちょっとつきあえ。

 意外だった。こっちから言う事はあっても、大空さんの方から言い出すとは思っていなかったから。

 その時の僕は、大層ぽかんとした顔をしていたと思う。まぬけ面にもほどがったはずだ。

 だけれど、それくらい彼女の提案は意外だった。そして僕にとって好都合というか……なんというか。

 僕は咄嗟に、頷いていた。頷いて……そのままの勢いで集合時間を決めていた。

 そして、その時に確信したんだ。

 たぶん……いいやきっと、今日で全部終わる――と。

 

 

 

 

 それから数時間後。あたりがすっかり暗くなった時間帯。

 僕は校門前の草叢から校舎の二階部分をじっと見ていた。

 ゆらゆらと揺れる光が一つ。それが一階にももう一つあった。つまり、今校内を見回っているのは二人という事になわけだ。

 これにおそらくは別の場所を巡回しているであろう宿直の先生も合わせて三人。この三人の大人の目を、僕たちはかいくぐらなくてはならないのだ。

 どきんどきんと心臓の音が脈動をしていた。いつもは何とも思わないのに、今日この時に限っては痛いくらいだった。

 でも、だからといって今更取り止めるわけにはいかなかった。

 何をどうしたら君を成仏させてあげられるのか、まだよくわかっていなかったけれど、大空さんたちが心変わりをしない内に、また君と会いたいと思っていた。

 なぜなら、この二人が君を死へと追いやった直接の原因だったのだから。

 ――こいつに言われて仕方なく来てやったんだからな。感謝しろよ。

 大空さんがくいっとあごを長谷川さんの方へと向けて、わけのわからない事を言った。反論する余地はいくらでもあると思ったけれど、僕としては変に事を荒立てるのは避けたかったからここは黙っていた。

 そんな事よりも、今は君の事が大切だ。

 僕は気を引き締めて、小さく喉を鳴らした。

 そして、きょろりとあたりを見回す。と、心霊スポットを一目見ようとたくさんの野次馬が集まっていたんだ。本当にみんな、暇人だなぁって思ったよ。

 けれど、それでよかった。

 僕は持参していたクラッカーを取り出して、思い切り紐を引いてやった。

 パァンッとあの音がして、びくんと隠れていた人たちが慌てたのがわかった。

 なんとなく楽しい。そんな事を思ってしまったのは、まぁ僕が子供だったからだろう。

 僕たちはその場にクラッカーを放り捨て、そそくさと移動した。校舎を中心にして右手側へと回ったんだ。そっちへ行くと、裏手門があるから。

 裏門へと回り込んだ頃に、守衛のおじさんが駆け付けてきた。たぶん近くのいた人は全員退散した事だろう、などと思ったものだ。

 僕は裏門へと張り付いた。当然鍵がかかっていたから、よじ登ったよ。鍵開けのテクニックなんて知らないし。

 タンッと降り立って、振り返ったら長谷川さんたちが僕の後に続こうかどうしようかとおろおろしていた。いや、はやく来てくれと切に願ったよ。

 だけれど、ふたりは女子だ。加えて長谷川さんは丈の短いスカートを履いていた。

 もしかすると、下着が見えてしまうのでは? という懸念があったのだろう。

 でもそんな彼女のパンツを見る輩はここにはいないし、いたとしたら僕くらいだ。

 そして僕は別に長谷川さんのパンツを見たからといってなんら欲情したり興奮したりしないと、当時から自信を持って言えた。

 なぜなら、敵のパンツだからだ。敵のパンツを見たって……。

 ――とりあえずあっち向いてろッ。

 大空さんがぎろりと睨んでくる。ので、僕は彼女の言う通り背を向ける事にした。

 やれやれ、こんな事をしている場合ではないというのに。

 守衛さんに見付かったら大事になるのは、わかっているはずだ。さっさとしてほしい。

 僕が苛立ちつつ、そんな事を考えていると、タンッと音が聞こえた。終わったようだ。

 もういいだろう、と思って振り返ると、大空さんが降り立っていた。

 長谷川さんはまだ門の上の方にいて、パチッと僕を視線がかち合う。

 なぜか泣き出しそうになっていたなぁ、長谷川さん。僕の位置からだと長谷川さんのパンツは見えないというのに。

 しかし約束を破ったのは僕だ。つまりは咎められるのも僕。

 例え僕になんら非はなくとも、約束を破ったというそれだけの理由で罰される事もあるのだと、僕はその時に学んだんだ。

 まぁありていに言って、殴られた。ぐーで。思い切り。

 ドダンッと地面に倒れ伏す。倒れて、殴られた頬をさすった。

 何するんだよ、と怒鳴りたかったけれど、そんな事をしたら見付かってしまう。

 この時の僕は、いかに安全に〈五ー三〉の教室までたどり着くのか、そればかりを考えていた。だから、あまり大きな声は出せなかった。

 ……まぁこれでいいとうのならこれで手打ちにしてやろう。こちらが大人にならないと。

 その時の僕の思考回路としては、そんなものだった。

 僕は無言で立ち上がり、周囲に視線を走らせた。

 校舎の影には人影はない。校門の周りにも人間らしき影はない。

 よし、いいぞ。思った通りだ。

 計画……というほど大層なものもなかったけれど、僕はひとまずほっとした。

 このやり方を誰かに見られたらそれこそ大事になるところだった。

 僕と長谷川さんたちはそろっと昇降口へと回った。と、懐中電灯の光が見えて、僕たちは近くにあった銅像の影に隠れた。

 かなり狭かったのを覚えている。隠れられるスペースとしては、ちょうど小学生の体で人ひとり分だ。僕たちは一列に並ぶようにして隠れた。

 まず長谷川さんが一番奥。銅像の台座に背中を押し付けるようにしてかがんでいた。その前に大空さんだ。長谷川さんを庇うようにして僕を睨んでいた。そして僕はふたりに覆い被さるように、銅像の台座部分に手を突いて無理な体制を強いられていた。

 これもいわゆる壁ドンという奴なのだろうか? なんて疑問を抱きながら、僕たちは彼が通り過ぎるのを待った。

 ほどなくして、光が揺らめく。ちらりと顔を出すと、ちょうど光は廊下の奥へと消えていくところだった。

 よかった。なんとかバレなかったみないだ。

 僕はどうにか体勢を起こし、銅像から離れた。大空さんと長谷川さんもそれに続く。

 大空さんは僕を睨み据えたまま、長谷川さんを庇うようにしていた。

 別に僕は長谷川さんに危害を加えようなんて気はさらさらなかったけれど、大空さんはそうは思ってないみたいだった。

 まぁ何でもよかった。ふたりが僕の後に付いて来てくれさえすれば、それで。

 こっちだ、と僕がふたりを先導した。できるだけ身を低くして、素早く移動。

 懐中電灯の光が見えたらその場で立ち止まり、様子見。

 長谷川さんたちの様子を伺いながらのスニーキングは、ひとりの時よりよほど時間がかかった。体力の消耗も半端ない。

 いつもの入り口にたどり着く頃には、僕はなんだかどっと疲れていた。ふたりがどうだったかは知らない。

 けれど、問題はここからだ。校舎の中は隠れるところがかなり限られてくる。加えて今回は見回りの人数も増えているから、きっと見つかるリスクはだいぶ上がっているだろう。

 とはいえ、ここまでやって止められるはずがなかった。

 僕は侵入の常習犯的な目で見られているからもういいけれど、長谷川さんたちは違うだろう。なんだかんだとまじめに過ごしている彼女たちはこういった事に慣れていないはずだ。

 ……いや、長谷川さんもだいぶ慣れているな、こういう事に。

 何せ過去二回、侵入に成功しているわけだから。そして二回とも僕が一緒だった。

 最初の一回はいるのに気が付かなかったみたいだけれど。

 そんなどうでもいい事を思い出しながら、僕はこそっと階段脇の影から顔を出した。

 誰も……いないな。その事を確認して、足音を立てないよう手すりに触れながら登っていく。

 ゆっくりと、慎重に。

 〈五ー三〉の教室は二階にあったから、そうやって階段を昇らないといけなかった。

 階段には隠れられる場所がなかったから、かなり焦ったよ。ここで誰か来たらと思うと、気が気じゃなかったよ。

 なんとか一番上までたどり着いた。――と思った矢先。

 ゆらゆらと揺れる光が視界の端に入ってきた。

 まずい、と思ったのも束の間。僕はすぐさまふたりの手を取って、近場のトイレの中へと入った。

 そこが男子女子どっちのトイレだったか、という事については全く確認していませんでした。

 耳を澄ませ、足音をよぉく聞く。と、段々とこっちに向かって来ている事がわかった。

 わかったから、更に奥へと逃れた。よし、ここまで来たら……と思ったのだが。

 急に尿意を催したらしい。一体誰なのかはわからなかったけれど、トイレの中へと入って来た。……ええ!

 ど、どうしよう……!

 僕はふたりに目配せした。けれどふたりとも僕の方を見るばかりだった。

 ええと、どうしたら……などと考え散る暇はない。

 僕は咄嗟に視線と仕草でふたりに指示を出す。と、ふたりは僕の指示通りに動いてくれた。

 僕もトイレの個室に入った。ドアを閉めるとバレてしまうので、ドアと壁の間に身を隠した。

 誰かの入って来る音。ふぃー、なんて声。

 じょろじょろと聞こえてくる聞きたくない水音。

 ああ、ここは男子トイレったか。と、そう悟ったのはその時だった。

 何せ暗かったものだから、よくわからなかったのだ。

 僕ははぁと溜息を吐いた。まぁ聞きたくはないけれど、別に僕は聞き慣れているからあまり気にもなからかった。

 ん? とここで僕は首を傾げた。

 僕はいい。だって自分でする時もこんな音がするし。

 だけれど、ここには今女子ふたりがいる。長谷川さんと大空さんだ。

 ふたりは一体、今どんな顔をしているのだろう?

 僕は内心でそんな事を考えつつ、意図したわけでもないのに頭の中にふたりの事が思い描かれた。

 ぴたりと壁に顔を付け、じょろじょろ音を聞く長谷川さんと大空さん。

 顔を真っ赤にしてぷるぷる震えているであろうふたりの姿を想像したら、なんだかひどく悪い事をしている気になってきた。

 まずい……これはかなりまずい事態だ。

 僕はだらだらと全身が汗まみれになるのを感じつつ、そんな事を思った。

 何がまずいって今のこの状況がまずい。非常にまずい。

 半分想像で尿意とか言ってみたけれど、これが便意だったら非常にまずかった。というより見付かっていた。

 だからそこは僥倖と言うべきなんだろうけれど。

 問題はそこではない。と僕は思った。

 そう、問題はそこではなかったのだ。

 どうやら終わったらしく出て行った様子だ。手洗い場から水を出す音がしなかったけれど、ちゃんと手を洗ったのだろうか?

 誰も見ていないと思って洗っていない……とかないよね? なんて事を考えながら個室を出る。……と、パチッと目が合った。誰とって? もちろんふたりとだよ。

 ゴキゴキッと大空さんが指の骨を鳴らしていた。表情もなんだか怒っていらっしゃる様子で、僕はそろりそろりと背後に下がる。

 これまでにも何度も、大空さんは怖い人だと思った事があった。

 けれども、今回のそれは今までとは違っていた。何が違っていたかというと、もちろん恐ろしさの度合いがだよ。

 僕がこんな下手を打った事で、ふたりに不快な思いをさせてしまったらしい。それはわかる。

 でも、ぼ、暴力は……反対だ!

 なんて声高に叫べるはずもなく、僕は大人しく大空さんに殴り倒されたのだった。

 そして涙ぐんでいた長谷川さんをどうにかなだめて、廊下の様子を見る。

 懐中電灯の光は見えなかった。だからと言って油断はできないが、いつまでもトイレにこもっているわけにはいかない。

 僕たちはサッと廊下に出た。身長に、足音を立てないようにしながら進んでいく。

 そうして、結構な時間が経っていたと思う。ようやく、やっとの思いで〈五ー三〉の教室にたどり着いた。

 やったぁーっと喜んだのも束の間。再び難問が立ち上がった。

 それは鍵だ。鍵が閉まっていたのだ。

 しまった、と思った。前回はちゃんと鍵を回収してから来たけれど、今回は鍵を回収するのをわすれていたのだ。

 くそ、と内心で焦った。どうしたら……などと考えずにさっさと取りに行けという話なのだけれど、しかしその時の僕はかなり頭の回転が悪かったと言っていいと思う。

 なぜなら、そんな簡単なことさえ思い付かなかったのだから。

 僕は若干焦りつつ、ドアをがたがたやっていた。誰か来るんじゃないだろうかという不安が大きくなったいったよ。

 と、そんな僕の肩がポンと叩かれた。誰だ、と振り返ると、大空さんだった。

 落ち着け、と彼女は目で言っていた。普通に言ってくれると助かるのだが、まぁわかったのだからいいだろう。

 そんなこんなで僕は落ち着いた……というわけでもないが、多少は冷静になれたと思う。

 冷静になって考えた結果、さっきも言った通り職員室に鍵を取りに行く事にした。

 素直に最初からそうしておけばよかったと思うが、こればかりは仕方がない事だ。思い付かなかったのだから。

 こそこそと移動して、職員室前にたどり着いたんだ。さすがにここの鍵は閉まってはいなかったから、侵入して〈五ー三〉の鍵を持ってくるのは容易だったよ。

 それから再び二階に行くと、今度こそ鍵を開けて中に入ったんだ。

 なんだかじめっとしていたように思う。何度か来ているが、その夜が一番恐怖を掻き立てられるというかなんというか。

 ともかく、僕たちはすっとドアを閉めた。開け放したままだと、誰か来た時に不審に思われる。かもしれないからね。

 そうして、きょろきょろと周囲を見回す。が、人の気配はおろか虫一匹いやしない。 

 果たしてどうしたものだろう。と思った。どうしたら君に会えるのかと頭を悩ませたよ。

 うーん、と唸っていると、カタンと音がした。何の音だろう、と僕たちは一斉に音のした方を見やったんだ。

 椅子が少しだけ動いていた。教卓側の入り口の前から二番目の席の椅子だ。

 動いていた……とはいっても、僕も長谷川さんたちも、その椅子が最初はどうだったのかを見ていなかったから、よくわからないが。

 でも、他に音を立てそうなところなんてなくて、という事はつまりあの椅子が動いたという事に他ならない。

 ごくりと喉を鳴らした。それにならったわけではないだろうが、長谷川さんも大空さんも緊張した面持ちでいた。

 現れるのだろうか、と思った。現れたら、どう対処しようと考えた。

 だって君は幽霊で、僕たちは生身の人間だ。幽霊がどういう原理で存在しているのかわからないが、しかし僕としては変に戦う、なんて展開はごめんだった。

 何せ生前の君とですら、スポーツなどで勝てた試しがないのだ。それに加えて幽霊と戦うなどとは、勝ち目がないどころか生き延びられるかすら怪しい。

 なんて、半分現実逃避気味に考えながら、僕はじっと椅子を見つめていた。

 しかし、それ以降椅子が動く気配はない。

 どれくらいそうしていただろうか。七分とか八分とか。……実際はもっと短かったかもしれない。

 けれども一向に、それ以降の動きはない。

 僕は緊張で頭がおかしくなりそうだった。ぷるぷると全身が震え、段々と呼吸が荒くなっていく。

 できれば、もっとすんなりと現れてくれればいいのに。

 なんて、そんな事を考えていたからだろうか。

 ぎゃああああああああああああッ!

 という濁音まみれの女の子らしさのかけらもない悲鳴が上がった。

 僕はびくんと全身を振るわせ、条件反射的に背後を振り返った。

 何が……と思うより先にその光景が視界に入ってきた。

 悲鳴の主は大空さんだった。彼女は全身を凍り付かせたように縮こまらせ、がくがくと震えていた。

 そして……彼女の傍らには、頭から血を流した少女の姿があった。

 にぃ……、と口の端を歪め、僕たちを歓迎しているかのようだった。

 そう、そこにいたのは今夜、僕たちが会いに来た人その人だったのだ。

 大空さんの肩口に手を回し、ぐでっと体重を預けている姿はまさに親友、という風体だった。

 ……状況が状況じゃあなかったら、微笑ましいというかいい感じなんだろうなぁと思う。

 だけれど、僕たちはその日、君との友情を確かめに行ったわけではないから、それはまたの機会という事にしよう。

 ――お……怒ってるの?

 恐怖で口が利けそうにない大空さんに代わって、長谷川さんが訊ねた。

 その声はかなり震えていたけれど、それでも僕にもはっきりと聞き取れたよ。

 怒ってるの? ……たぶん、いや十中八九あの事を指しているのだろう。

 ふたりが突き落とされた事。その事で君があれこれ言われていた事。

 そして、それが原因となって君が死に至った事。それら全部を。

 怒っているか否かと問われれば、怒っているに決まっているだろう。

 人生を半分も生きいないうちに死を選んでしまったのだ。相応の恨みつらみを抱いていて当然だ。

 そういう意味では、長谷川さんの問いかけは全くの見当違いという事になる。

 実際のところはどうだかわからないけれど、僕だったから確実に呪ってやるだろうな。

 それくらい、このふたりのしたことは許し難い事だ。

 それはたぶん、この時のふたりなら理解できていた事だだったのだろう。

 だから、あんな問いかけをしたのだ。怒っているの? とはおそらくそういう意味合いが含まれていたんだ。

 君は大空さんにもたれかかったまま、こちらを見ていた。

 こちら……というよりは長谷川さんだ。長谷川さんを見つめたまま、微動だにしない。

 もちろん、言葉を発する事もなく、凄絶に歪められた口元だけが、唯一君の心中を表すものだった。

 どうしたんだろう、一体?

 僕が不思議に思っていると、君はふっと消えた。かと思うと、次の瞬間には長谷川さんの前に立っていた。

 瞬間移動だッ! と僕は場違いにも興奮してしまっていた。

 けれども、君は僕に目もくれず、長谷川さんへと手を伸ばしたね。

 見るからに冷たそうな、白い手だった。

 伸ばした右手の小指が、一本あらぬ方向へと曲がっていた。

 それを見てしまったのだろう。長谷川さんの表情が凍り付く。

 それまでの、恐怖に耐えながら必死に言葉を発していた彼女は既に消えていた。

 今ではただ、ぶるぶると震える小動物だ。

 しかしそんな事はお構いなく、君は白い死人の手を彼女の頬に触れさせた。

 そうして、ゆっくりと顔を近付けていく。

 血塗れの顔。血の気のない蒼白な顔色。

 どことなく現実離れした光景に、僕はただ茫然としていた。

 というより体が動かなかった。指先一本も動かせなかったのだ。

 自分の呼吸が荒くなるのがわかった。

 君は長谷川さんの耳元に口を近付けると、ぼそぼそと何かを呟いているようだった。

 それが何だったのか、僕にはわからなかったけれど、その言葉を長谷川さんはしっかりと聞き取れていたようだった。

 ハッとした様子で目を見開き、唇を噛んでいた。

 何を言われたんだろう? 言われた……のか?

 僕にはよくわからなかったけれど、たぶん長谷川さんには伝わっていたんだと思う。

 だからこそ、彼女は涙ぐんでいたんだ。

 何を言われたんだ、と訊く事はできた。でも、僕の口がその言葉を紡ぐ事はなくて。

 しばらくぼーっとしていたと思う。どれくらい時間が経ったのか、わからなかった。

 気が付いた時には僕は突っ立っていただけだった。

 きょろきょろとあたりを見回す。時計を見ると、教室に入って三十分くらい経っていただろうか。

 えーと……と内心で戸惑ったよ。表には出さなかったけれど。

 そういえば、僕と長谷川さんと大空さんの三人になっていた。

 君の姿がどこにもなくなっていたよ。……どういう事だったんだろう? 

 

 

 

 

 

 これは後から聞いた話なんだけれど。

 長谷川さんの耳元に口を近付けた時、君は言ったそうだね。

 ――元気そうでそうでよかったって。

 それで彼女はハッとしたらしい。気付いたって言ってもいいのかな。

 たぶん君は僕たちを貶めるために現れたんじゃないんだって。

 僕たちを……とりわけ長谷川さんと大空さんの事が心配だっただけだったんだ。

 だからわたしたちふたりの元気そうな姿を見て安心したんだろうって、長谷川さんはそう言っていたよ。本当のところはどうだかわからないけれど。

 でも、あれ以降何度か〈五ー三〉の教室に行ってみたけれど。

 あの夜以来、何かが底にいる事はなくなっていた。

 たぶんそれは、成仏したって事……何だと思う。

 だから僕も安心したよ。安心して、これからの人生を行きていける。

 僕は立ち上がり、くるりと体を反転させた。

 目の前には木蓮の木があった。君が大好きだった木だ。

 この木に咲く花を、君は毎年楽しみにしていたね。そんな君の笑顔が大好きで、僕も毎年策のが楽しみだった。

 そういえば、その時に聞いたんだ。ふたりを突き落とした犯人の事。

 実際にはふたりとも、突き落とされてなんかいなかったんだって。大空さんが足を滑らせて、長谷川さんを巻き込んだ形で落ちただけらしい。

 全くばかだよね、あのふたりも。

 僕は思わず吹き出しそうになったよ。

 はた迷惑な話だ。……それをもっと正直に話していれば、君は今頃僕とこの木蓮の木に咲く花を愛でる事が出来ただろうに。

 不憫だ、という思いと、やはり悔しいという思いがある。そのどちらがより強いかなんて、僕にはわからなかったけれど、ひとつだけ言える事があった。

 僕はやはり、君が好きだったんだという事が。

 僕は木蓮の木に背中を向けた。

 バイバイ、また来るよ。そう心の中で君に言った。

 君がどんな顔をしているのか、今の僕にはわからなかった。いや、おそらくこの地球上の誰にもわからなかっただろう。

 まぁ、どうだっていい事だ。僕にとっても、君にとっても。

 さぁっと風が吹く。爽やかな風だった。

 君がいなくなって、もう何度目の春になるだろうか。

 

 

 

 

                                       END

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

木蓮の木の下で、君が眠っていた。 伏谷洞爺 @kasikoikawaiikriitika3

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る