第10話
海浜公園はひたすら海岸線を抜ける国道沿いにある。国道は片方は海、もう片方は山といったような地形で、公園は海側に作られている。周りに民家は少なく街からは離れたところにある。漁港が近くにあってそこで採れた魚を売る市場が並んでいたりもして、それからとにかく景色が良い。テトラポットの並ぶ海のへりまで来れば右手にも左手にもどこまでも続く海岸線が見えて実に清々しいのだ。ドライブスポットとしていろんな人が訪れる場所でイオを連れてこようと思っていた場所だった。晴れた日中なら平日でも賑わっているのだが、あいにく今は深夜で、そして天気は悪かった。俺が起きた時すでに深夜3時を回っており、今はもう4時を軽く過ぎている。天気はみぞれ混じりの雨で、風も少し吹いている。そして、寒かった。
涼子さんは海浜公園に着くと堂々と駐車場に車を停めた。涼子さんは自分の傘をさした。
「こ、こんなところまで入って大丈夫なんですか。もっと様子を伺うとかしたほうが」
「いいえ、無意味よ。少しでも近づけば気取られる。イオちゃんを助けるなら、どのみち連中と戦うしかないんだから正面突破で行きましょう」
涼子さんは肝が座っていた。
俺たちは車を下りた。夜にここに来たことはなかったが幸いにも照明は付いていた。公園の中にポツポツと設置されていて見通しに困ることはなかった。俺たちは駐車場から歩き、公園に入った。
「やっぱり、お待ちかねだったようね」
涼子さんは言った。その視線の先にはオレンジ色の照明に照らされた人のものと、化け物のもの影があった。棘とアザムヤゼムが立っていた。
「殺されに来たか」
棘が重々しい口調で言った。その後ろ、座ったらのんびり海が見えるであろうベンチにはイオが横たえられていた。
「イオを返せ!」
「それは出来ん。たった今準備が整った。今からこの娘を『鍵』にして『門』を開く」
「その前にお前らをぶっ飛ばす」
「威勢のいいことだ」
雨が降りしきっている。俺も棘も傘をさしてはいない。お互い濡れるのを気にしていられる状況ではない。でも、イオに雨が当たるのは気がかりだった。こんな寒いのに毛布もかけられていないのだから。
「おい、棘どういうことだ。あの女がなんでここに居る。あいつは関わらないって話じゃなかったのか」
「ふむ」
アザムヤゼム、そして棘の視線は涼子さんに向けられていた。涼子さんはその二人の視線にひらひらと手を振って応えた。
「こんばんは。初めまして」
涼子さんがそう言っただけなのにアザムヤゼムは一歩身を引いた。警戒している。いや、これは怯えているのか? アザムヤゼムは涼子さんに怯えているのだ。
「問題ないだろう」
「『恐ろしいモノ』を侮ってはだめだ。あれは2000年前に『祖』を食い殺したんだぞ」
「だが、対処さえ間違えなければ容易に対応できる。ドジを踏まんことだ」
「ぬうううう」
連中はぶつぶつと議論を交わしやけに涼子さんに注目していた。そんな馬鹿な。涼子さんはただの大人の女だ。それも魔術も使えないただの一般人。
「どうした。棒立ちしている場合なのか。貴様はこの娘を助けるのだろう」
と、状況を飲み込めない俺に棘が言った。確かにさっさと動かねば時間はない。だが、その前にひとつ、俺は棘に聞きたいことがあった。
「棘、お前はどうして『門』を開くんだ。なんの目的があるんだ」
なんでこいつは魔族と手を組んで『門』を開き、『古き母』を呼び出そうとしてるのか。それはすなわち世界の滅びだ。なんの理由があってそんなことをしようとしているのか俺には理解できなかった。
「『古き母』を呼び出すことと引き換えにこいつから秘術を教えてもらう算段になっている。俺はそのために『門』を開くことにしている」
「なっ・・・・。自分の術のためだっていうのか」
「・・・・・まぁ、そういうところだ。私はさらなる業の最奥に至るべく、世界と引き換えに知識を得る」
「ふざけてるのか!」
こいつが『門』を開く理由は自分の私欲のためだというのか。ただ、自分の術を高めるためだけに世界中の人間を殺そうというのか。そんなことのためにイオのトラウマを暴き、今また新たなトラウマを植え付けようというのか。狂っている、ふざけている。俺はこいつを絶対に許さない。
「相変わらずね棘さん。ご顕在でなによりだわ」
「ふん。貴様に何を言われてもな。笹川涼子」
「え、涼子さんこいつの知り合いなんですか」
「知り合いの知り合いね」
「お前といえど歯向かうならば殺すまでだ。覚悟はいいな」
「ええ。でも私は死なないわ。春田くんがあなたを倒すから」
「そうか」
棘は表情を変えず、これといった感情も浮かべず、ただ涼子さんに返した。良く分からない。涼子さんが棘と知り合い? 一体何だろうか。魔術師的な世界のつながりなんだろうか。
「さて、どうする。笹川と俺が知り合いだからといって決心が揺らいだわけではあるまい」
棘は考える俺に言った。
「ああ。もう聞くこともない。お前は絶対にここでぶっ飛ばさなくちゃならないってことだけは間違いないんだからな」
「結構なことだ。私も貴様を生きて返す気はない」
棘はイオと戦った時のように懐からざぁっと灰を蒔いた。不思議なことにこの荒天の中灰は穏やかな勢いで風に流されることもなく周囲に広がった。そしてそれから流れを作り始めた。俺と涼子さんの周りに。俺は緊張で心臓が痛くなった。あいつの術を受けたらまた頭が真っ白になる。いや、それ以前にアザムヤゼムに細胞を暴走させたれたら戦うどころではなくなる。啖呵を切ったはいいものの状況が悪いことに変わりはないのだ。俺は無謀な行いをしているのだから。
「心配しないで春太君。あいつの能力であなたが捕らわれることはない。あなたが食べたというあいつの放った刀。あれは因果を断つ効力がある。因果律を絶たれた人間には何一つ関わることがなくなるから最後は死ぬ事になる。そういう恐ろしい短剣だったの。だからそれを食べたあなたは今因果の流れの影響を受けにくい。だからといって全部の術が効かないわけではないけどまともに戦うことは出来るわ」
「でも、アザムヤゼムの方は・・・・・」
「あいつは私が担当するから心配しないで」
「え、何言ってるんですか。涼子さんは下がってください」
俺は手で制する。
「あのねぇ、何にも手がないんなら私はこんなところに来ないわよ。ただ死ぬだけじゃない。打つ手があるからここに居るのよ」
涼子さんはパチンと指を鳴らした。
「来なさい。アルバート」
ミシリと音が鳴った。それは涼子さんの後ろ、その中空の空間からだった。そこにヒビが入り、そこが突き破られた。
『シクシクシクシク』
何かが泣いている声が聞こえた。見ればそれは足元の石畳のものだった。
『ゲタゲタゲタゲタ』
何かが笑っている声が聞こえた。聞けばそれは吹き荒れる風のものだった。
『ギャハハハハハハハハハハ』
何かが狂ったように笑いながら涼子さんの後ろの空間を蹴り破って現れた。それは真っ黒だった。なんの光も感じられない真の真っ黒だった。熊のように大きく、アンバランスな大きさの太い腕は地面に届いている。その先には巨大な爪があった。対する足元は存在していなかった。陽炎のように揺らめきながら地面に接しているのかどうかも分からない。そしてまともとは思えないほどうねった角を数え切れないほど体中から生やしている。顔にはマグマのように赤く光る目と長く避けた口があった。そして強烈な臭いがした。骨董店に微かに漂っていた錆た金属のような匂い。それは化物だった。明らかにアザムヤゼム以上に常識はずれの化物だった。
「ひいいいい! 『恐ろしいモノ』!」
アザムヤゼムが悲鳴を上げる。正直俺も悲鳴を上げた。なんだこれは。どう見ても正義の味方のような外観ではない。だが、これは明らかに涼子さんの呼びかけに応じて現れた。つまり、これは涼子さんが従える味方ということだ。だが、どうみても禍々しさしか感じない。俺を助けてくれそうにない。どっちかというと殺されそうだ。
「涼子さん。こいつは一体」
俺は思わず聞いた。いや、聞かなくてはならないだろう。あんまり得体が知れなさすぎる。
「これは悪魔、名前はアルバート。私の使い魔よ」
涼子さんは平然と答えた。
「悪魔? なんですかそれは」
「説明は難しいけど、存在は世の中で知られてるのとおんなじ感じかしらね。まぁ、ろくなものではないわ。でも、こいつは私の言うことなら聞くの。そしてこいつならアザムヤゼムの相手くらいは出来る」
涼子さんがアザムヤゼムを指差す。すると悪魔、アルバートはまた狂ったように笑いだした。
『ギャハハハハハハ』
「ひいいいいい」
アザムヤゼムがまた悲鳴を上げる。
「だから、あなたが暴走させられる心配はないわ。安心して棘と戦って頂戴」
「ほ、本当に大丈夫なんですか。涼子さんは」
「心配ないわよ。アルバートは強いもの」
涼子さんはにっこり笑った。俺はなんだか分からない。悪魔と契約するというのはよく知らないがろくでもないことのはずなのに涼子さんは実に涼しい顔だ。この状況をどう判断すべきなのか。いや、今は力を借りるべきだろう。涼子さんが言うなら、きっとどうにかなる話なのだ。だったら、俺は棘との戦いに集中すべきだ。棘を倒して、イオを解放する。俺は覚悟を決めて身構えた。
「どうやら相手はそういう腹積もりのようだ」
「や、止めろ。『恐ろしいモノ』の相手はお前がやれぇ」
「任せたぞ」
「くそがぁ!」
アザムヤゼムは吠えたが、そこにアルバートが笑いながら飛びかかり、戦闘が始まった。悪魔はその図体のでかさからは想像もつかないほど、いや明らかに物理法則を無視した速さだった。その腕は不定形なアザムヤゼムにもしっかりと当たりアザムヤゼムを吹き飛ばした。何から何まででたらめだ。
「さ、棘は任せたわよ、春太君」
涼子さんはテクテクとアルバートの後を追って歩いて行った。と、棘が涼子さんに続く灰の流れに指をかける。
「させねぇ!」
俺はそれを見て間髪入れず飛びかかった。スムーズに無駄なく動ける。悲しいかなこの体の扱いにも慣れてきているようだ。棘はそれをすんででかわした。俺は体勢を整えながら着地する。
「ふむ。随分動きが良くなっている。これは厄介だ」
「そうだ。お前がくれた刀のおかげでお前の術も効かない。はっきり言って手詰まりだぜ」
「それは違うな。お前に見せたものが私の術の全てなわけがなかろう」
グルリと棘を取り巻く灰が舞いそれが俺の元まで届く。そして棘はひとつの道具を取り出した。それは数珠だった。
「豪」
棘が数珠を握り言うと灰の流れはさらに勢いを増した。なんだ、何をしているんだ。
「災」
棘は言う。しかし、別段何が起きたわけではなかった。俺は警戒してしばらく様子を伺った。
「何をした」
俺は聞くが棘は何も答えなかった。陰鬱な表情で俺を睨んでいるだけだ。後ろで轟音。アザムヤゼムとアルバートと涼子さんが戦っている音。こっちは膠着状態で動きがない。俺は足に力を込めた。このまま止まっていても勝負は動かないのだから。
「おらぁ!」
俺は力いっぱい踏み込み棘に飛びかかる。しかし、
「おろ?」
足元が突如砕けた。レンガが砕けたのだ。もろくなっていたのか俺の踏み込みに耐えられなかったらしい。俺は力をあらぬ方向にかけてしまい、転がってしまった。
「くそっ! ・・・・っ!!!」
起き上がる俺が見たのは短刀を今ままさにふり下ろそうとしている棘だった。俺は反射的に全身をバネにして横に飛び退った。受身を取りながら転がる。
「痛っ」
転がった俺に痛みが走った。腕に割れた栄養ドリンクの瓶が刺さっていた。しかし、大した傷ではない。
「くそ!」
俺は再び足に力を込める。が、その俺の顔にどこからか飛んできたスーパーの袋が被さり視界が遮られた。
「っ! やべぇ!」
俺は無我夢中で袋を外しながら横っ飛びする。顔から袋を取ると今俺が居たところに棘の投げた刃物が飛んだところだった。あのままなら突き刺さっていたところだ。こんな戦いのさなかに袋が顔に被さるなんてとんだ災難だ。災難、そう災難だった。その前は足場が砕け、戦っている最中落ちていた瓶が腕に刺さる。災難が続いたのだ。なにか妙な気がした。俺はしばし動きを止めた。
「ほう、勘が悪いわけではないようだな」
と、そんな俺に棘が言った。俺はもう一度問うた。
「何をしたんだ」
「貴様に災いが集まるように呪った。今から貴様には様々な災難が襲いかかる」
「なんだって」
涼子さんが言っていた。『呪術師』とは因果律を操るもの。そうやって相手に不幸を降りかからせるのも『呪術師』の術だと。これがそういうことなのか。
「だったとしても。こんな瓶くらいじゃ死なないぜ。今の俺なら傷だって治るしな」
事実、腕の傷はもう塞がり始めていた。数分とかからず傷はなくなるだろう。
「その通りだ。さらに言えばやはり貴様の呑んだ古刀の効果は厄介だな。通常これだけ呪えばすぐにでも死を与えるような災いが降りかかるものだが」
俺は戦慄した。この古刀がなかったらとっくに死んでいたかもしれないということか。それが『呪い』。だが、やはり古刀があればこの程度で済むのだ。なら、全然勝機はある。が、俺の目の前で棘は地面に刃物を山ほどばらまき、蹴って辺りに撒き散らした。
「自然に任せて死の要因を作れぬなら、己の手で作るまでだ」
これはまずい。あの刃物妙な匂いがする。恐らく俺のような化け物用の武器なのだ。広場に何もなかったから俺はちょっとした災難に遭う程度で済んでいたのだ。それを、こんな危険をばら蒔かれたらいかに古刀の効果があるといっても死ぬような災難は避けられなかった。
「さぁ、始めるぞ。どこからでもかかってこい」
棘はそう言った。そして本当に動かない。ただ立っているだけだ。しかし、俺も動くに動けない。何が起きるのかが分からなかった。動けばそれがなにかの危機の引き金になるということが十分に考えられた。さっきのように足場が崩れただけで大変なことになるのかもしれないのだ。俺は歯を食いしばってどうすべきか悩んだ。
と、そんな俺を尻目にアザムヤゼムとアルバートの戦いの余波で飛んできたレンガの破片が刃物のひとつを弾き飛ばした。
「っ!!」
俺は横に飛んでそれを躱す。しかし、着地点にどこからか転がってきた空き缶があり、俺は足を滑らせた。転倒する俺。体勢を立て直すと棘が投げナイフをこちらに投げつけてきた。
「ちきしょう!」
俺はそれも身をよじって躱すが、肩口にかすってしまった。傷口から傷が滲んだ。と、やけに傷口が痛んだ。ただ切れたたにしては嫌に痛いし、なんだか熱い。訝しげに傷口を抑える俺に棘は言う。
「致死性の毒を塗ってあったのだがな。思った以上に貴様の生命力は高いらしい」
そう言ってもう一本棘はナイフを投げてきた。俺は転がってそれを躱した。今度はなんとかかわしきった。起き上がって再び棘に向かう。致死性の毒だって。今のところ動きが鈍った様子はない。多分大丈夫なのだろう。この体に感謝だ。
しかし、状況は想像以上に悪いらしい。災いが降りかかるというと実害が想像しにくいがこれは相当なものだ。攻撃するたび、防御に転じるたび、こちら側が不利になる出来事が必ず起きる。しかもだからといって様子を見ることさえできない。
「ぼーっとしている暇などないぞ」
そうこうしているうちに棘がまたナイフを投げてくる。俺はそれをかわす。かわすだけならなんとかなる。幸い、災いとやらも行動の一つ一つに降りかかるわけだはないようだ。しかし、油断できるわけでもない。今度は俺が勢い余って激突した円柱状の照明。それがミシリと音を立てて曲がる。そこに涼子さんたちの戦闘で発生したガレキが突然発生した突風にあおられ、信じられない動きをして鉄柱にぶつかった。そのままこちらに倒れてくる。
「くそっ」
俺は必死にそれも躱す。下敷きになればこの体といえども無事では済まないだろう。だが、身体能力だけは跳ね上がっているのだ。この程度を躱すくらいなら訳はない。俺は横っ飛びした後に棘に向かって飛ぶ。しかし、また足場が砕け力が伝わらず俺は前につんのめった。また、刀で切りつけられてはたまらない。俺はそのままそこを離脱する。
「どうすりゃいいんだ」
防御面はまだなんとかなる。鉄柱が倒れたり死にそうな災いも出てくるがこの体ならなんとかかわせる。そして棘にはどうやら遠距離から俺を殺す術がない。あの刀で首をはねれば話は別だろうが。問題は攻撃だ。一回でもまともに棘に攻撃できれば勝負は決まるのにそれができない。『呪い』というのは恐ろしいものだ。単純な魔術より厄介だ。まるで運命を操っているかのようだ。
「攻めあぐねているな。こちらとしてはそれで十分だ。時間さえ経てば儀式は終わる」
「何? もう儀式は始まっているのか」
「その通りだ。この土地の魔力を吸い上げ、まさにそこの娘は『鍵』として起動しようとしている」
なんてことだ。じゃあ、様子見なんてしている場合じゃない。早くイオを助けなくてはならない。
「儀式が終わるとどうなるんだ。『門』が開いて、イオはどうなるんだ」
「『古き母』が現界する。何もかもが死に絶える。その娘がすぐに命を落とすかといえばどうかわからんがな。元々向こうの存在だ。だが、あいつがどうするかは分からん。身の保証は出来んな」
「クソッタレが」
そうだ。アザムヤゼムはイオを随分逆恨みしている。儀式が終わったあとなにをするか知れたもんじゃない。なにがなんでも助けなくてはならない。
「そこの娘に随分入れ込んでいるな」
「そいつと一緒にしばらく時間を過ごしたんだ。友達みたいに思うのは自然な流れだ」
「そうか。それもまた『呪い』だな」
「なんだと」
涼子さんは『呪い』とは因果律、モノとモノとの関係性のことだと言っていた。つまりそれに良いも悪いもない類のものなはずだ。だが、棘の口調は違った。明らかに、悪いものと言っているようだった。
「その仲間意識は『呪い』だ。貴様に絡みつき、貴様の行く手を阻むだろう。現にこうして貴様を命の危機に晒している」
「これは俺の意思だ」
「その意志こそが『呪い』なのだ。そして友愛は憎悪に変わる。たとえばここで俺がこの娘を殺すとしよう」
棘は刀でイオを指す。それだけで俺は穏やかではいられない。
「すると貴様は強い憎悪を俺に抱く。強い後悔を抱える。そしてそれと生涯に渡って戦うことになる。それは貴様の人生を大きく狂わせるだろう。全てこの娘を愛しているがゆえだ」
棘はイオに視線を向け続ける。
「この娘もまた強く呪われている。通常即日的な快楽主義者の魔族はここまで呪われるということはないのだがな。どこかで人間が混じっているのだろう。この娘の中には強い後悔、良心の呵責、懺悔、ありとあらゆる負の感情がわだかまっている。そしてそれを無理やり押し殺して生きてきたが故の歪みもある。全てこの娘が人間を愛したがゆえだ。愛は『呪い』だ」
「なんだと」
俺には棘の言っていることが理解できない。いや、認められない。だってそれは俺が正しいと信じ、人生における大きな基準なのだ。愛すること、仲間や友人は素晴らしいということは。
「でも、愛のおかげで助かることもあるだろうが。人を好きになって救われることもあるだろうが。確かに悪いことはあっても良い事だってあるだろうが」
「確かにな。他人の存在で救われることはある。人間は元々群れて生きるように出来ている生き物だ。他人によってもたらされるもの、他人を思うことによってもたらされるものは大きい」
「なら『呪い』だなんて罵倒は出来ないじゃないか」
「だが、それもそれほど大きいものではない。そもそも大前提として人間は孤独だ。空腹に苦しむとき、病に苦しむ、そして死を前にしたとき、人間はどうしようもなく孤独だ。本当の瞬間に人間は誰の助けも得られん。我々は他人と支え合っているようでその実、一人ぼっちなのだ。本当のところ、他人が助けになっていることなど、他人を助けられている場合などないに等しいのだ。我々は勝手に悩み、勝手に助かっている。人生とは暗黒にして孤独なのだ」
棘は表情を変えずに言う。
「故に他人を思うこと、他人に思われることは我々にとって最も重要なことではないのだ。最も重要でもないことによって人生を狂わされる。これを『呪い』と言わずしてなんとする」
棘はただ虚空を見つめる。
「努力は執着を生む。成功は欲望を生む。勝利は優越感を生む。誇りは価値観を凝り固まらせる。信念を抱えれば身動きがとれなくなる。愛は憎しみを生む。絶望は歪みを生む。疎外はひがみを生む。失敗をするたび踏み出す勇気を失う。生きるというのは呪いを延々と抱え続けることだ。我々は生きるに連れて呪われ続け、苦痛を抱え続けていくことになる。我々という生き物の生とはそういう類の地獄のようなものだ」
棘は険しい表情で、ただ強い意志を持って言った。そこに哀愁も絶望感もない。揺るぎない事実として棘は言った。俺はその言葉をやはり理解したくない。それは俺の信じることを否定する言葉だ。それはあんまりな言葉だ。俺はこいつを認められない。いや、恐ろしかった。この男の発言は俺が暗がりだと思っているものだ。だが、この男はその暗がりこそがこの世界の真実だと確信を持っているのだ。この男はおれの知らないものを知っているのだ。この男は俺の知らない絶望を知っているのだ。俺はこの男に恐れを感じた。なにか絶対に勝てないようなそんな恐怖。
だが、それでも、
「お前の言っていることは分からない。正しいことなのか間違ってることなのかも、嘘っぱちなのか本当なのかも分からない。でも、それでもイオは助ける。必ず」
いかなる理由であっても、イオが死ぬのは正しいはずがなかった。
「そうか。若さゆえの無鉄砲さといったところか。眩しくすらある。ならば貴様は俺を倒さねばならん。全霊を持って来るがいい。私も全霊をもってそれを阻もう」
棘は再び刀を俺に向ける。良く分からないが棘は俺を否定はしなかった。この男は良く分からなかった。ただの狂った悪党ではなさそうな気がした。でも、それでもイオの精神をずたずたにかき乱したのは事実だ。必ず倒してイオを助けなくてはならない。だが、話し合いをして、お互いの言いたいことを言ったからといって状況が変わったわけではなかった。
俺は自分の手札を考える。驚異的な身体能力。尋常でないタフさ。これで戦っている。あとは、そう俺の目に触手がうつった。先に口が付いている。そうだ。これが刀を食ったらその力を取り込んだのだ。アザムヤゼムの能力が引き継がれているという話だった。なら、
「来ないならばこちらから行くぞ」
棘がそのまま踏み込んできた。どう見ても刃物の扱いさえ知らない素人の動き。だが、それでも今の災いの最中にある俺には防ぐのがやっとだろう。案の定、かわそうとした俺の足がぬかるみに取られた。そのまま体勢を崩すこれでは刀をかわせない。その切っ先は俺の喉元に向かっている。このままでは首を断ち切られてしまう。
「っ!!!」
俺はそれを防ぐために触手の口でアスファルトを食った。
「む」
ガイイイィインと、金属音が響いた。刀身が石に弾かれる音だ。俺の首に当たった刃は俺の首に傷一つ付けることなく弾かれた。
「ふん。全身を石に変えたか」
棘は俺を目を細めて睨む。そう、俺の体は全身アスファルト並みの硬さになっていた。アザムヤゼムの同化の能力。それが俺に引き継がれているというなら食ったものの特性が得られるということだ。だからあの短刀の特性を引き継ぎ、そして今アスファルトの硬さを引き継いでいた。
「これは面倒なことになった」
「そういうことだ!」
俺はそのまま飛び起き棘に殴りかかる。また足場が砕け、転がるようになったが構わず前進した。なにせもう恐れるものがないのだ。もう刃物も体を通らない。なら、棘には俺を倒す術が正真正銘失われたのだ。
「ふん」
予想通り、棘はつんのめりながらも向かってくる俺に後退することを選んだ。もう直接俺に下す攻撃がないのだ。だが、棘に敗北を認めている様子はない。俺を殺せる災いを期待しているのだろう。確かに刃物は通らないがそれだけで勝った気になってはならないのは俺も分かっていた。だが、それでも今は間違いなく好機だ。
「おらぁ!」
俺は転がりながらもなんとか蹴りを繰り出す。
「ぐぅう!」
人間のそれをはるかに超えた速度の蹴りだ。棘は見切れずみぞおちに見事に当たった。棘は吹っ飛んで行く。俺はそのまま追撃する。襲い来る災いに注意しながら。とんでもないものが飛んでこないか、周囲を警戒しながら棘に再び飛びかかる。
「重」
棘が言う。体が重くなる。しかし構わない。そのまま、また腹に蹴りを見舞う。弱いものいじめのようだがそんなことを言っている場合ではない。なんとか棘を戦闘不能にしなくてはならない。だが、人を殴り慣れていない上にまだ自分の力をうまく制御できないので思っているよりずいぶん弱い蹴りになっているようだった。棘は転がりながらそのまま立ち上がりむせながらも俺を睨む。
「どうした。殺す気で来ないか」
「はっ! こっちはただの高校生だ。そんな気になるわけねぇだろうが!」
俺は走る。顎を狙う。あそこをうまく殴れれば脳震盪を起こして動けなくなるはずだ。そんなに力はいらない。うまく当たれば撫でるような一撃でも昏倒する。この速度なら棘には絶対に見切れない。
「そうか。後悔するがいい。その程度の覚悟ではお前は勝てん。災いがお前に降りかかる」
俺は周囲を確認しながら警戒しながら最速で棘に迫る。
「今日の天気は雷雨だ」
棘がそう言った。それと同時に意識がものすごい衝撃とともに途絶えた。
「春太君!」
すさまじい轟音と閃光が公園に走った。それは落雷の音。尋常ではない爆雷が春太を貫いた音だった。涼子は棘の術を知っている。なので今「災い」が春太を襲ったのだと理解した。アザムヤゼムとアルバートの戦いもそっちのけでそちらを振り返る。立っている棘、そしてそこから5mほど離れたところに春太が前のめりに倒れていた。涼子は走ってそちらに向かう。
「勝負あったな小僧」
棘がそう告げた。春太は動かない。全身から白い煙を上げながらただ伏している。覚悟していたとは言え涼子は最悪の想像を受け入れたくはなかった。棘は動かない春太を見届けると踵を返しイオのもとへ歩き出す。儀式がもうすぐ終わるのだ。最後の仕上げといくのだろう。涼子は春太を見て、しかし、春太が居ないとなればその役目は自分が負うべきだと理解した。
「アルバート!」
アルバートの目標を悲鳴を上げながら戦うアザムヤゼムから棘に切り替える。棘は振り返った。棘も次の標的を涼子に切り替えたのだ。アルバートが負けることはないだろう。だが、悪魔の特性上契約した人間が死ねば消えてしまう。棘の精神攻撃をまともに受けて戦えるのか涼子には自信がない。しかし、迷っていることなど出来なかった。
「行きなさ―――――」
しかし、アルバートが向かうより先に棘にすっ飛ん行く影があった。
「おらぁあ!」
春太の右ストレートは棘の顎にクリーンヒットした。
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