第3話
時刻は夜だった。場所は駅周辺のはずれにある放棄された雑居ビル、その3階だ。部屋の中には当然明かりなどなく、外から入る駅の照明だけがぼんやりと中にあるものの輪郭を浮かび上がらせていた。そこには倒れた棚や、机、椅子など元々事務所として使われていたころの家具があった。そしてその中にある恐らく応接用のソファに一つ人影があった。その人影は身動ぎ一つしない。寝ているのかと思えばそうでもない。ただじっと窓の外を見つめているのだった。その目つきは澄んだ、およそ迷いのないものだった。余計な感情が浮かんでおらず、この人影の精神が容易く揺るぐことのない実に強靭なものであることを示しているように思われた。ただその目を中心に顔に現れている表情は、この世のものとは思えないほど陰険で暗いものだった。
と、その時。部屋の壁の一部が淡い紫色を帯びて光った。その光が描いているのはいわゆる魔法陣だ。そこからぬっと、細い節くれだった手が現れ、それから人ならざる顔、ぬらぬらと光る体の順に何者かが部屋に入ってきた。
「やぁ、すまないね。思ったよりも手間取ってしまったよ」
アザムヤゼムは開口一番、ソファに座る人影に謝罪した。
「そうか」
男は短く答えた。アザムヤゼムの姿は昨晩とは様変わりしていた。頭と手など、パーツは同じだがフォルムが随分人型に近づいている。いや人型というにはまだまだ寸胴なのだが二足歩行で立っているのだ。
「それで、どんな感じだい。状況は良くなってるかい」
アザムヤゼムとこの男は協力関係にあった。現界においてアザムヤゼムを呼び出し、計画を始めたのはこの男だった。
「いや、また一つ法陣が消された」
「やれやれ、精の出ることだ。このペースだといつか全部消されるね」
「そうだな」
男はただ答える。自分たちの行動に関することだというのにこれといった感情がないかのようだ。視線はまだ窓の外に固定されている。
「どうする? このままじゃ後手後手だけど」
「やはり、打って出るしかあるまい。あの娘を殺さないことには状況が良くならん」
「だねぇ。なら、まず僕にやらせてくれよ」
「また禁術の餌食になるのではないのか。分け身ではあの術は破れんのだろう」
「まぁ、僕が直接戦ったらね。でもやり方は他にもあるからね」
「そうか、なら任せた」
この二人は協力関係にあるが、今まで魔法陣を張るなど実働は主に男がやってきた。現世から異界に開く扉はこちらの術式で組まれる。アザムヤゼムは異界でも屈指の魔術師だったが、こちらの術式を扱うのはこちらのものの方が適している。急ぐことでもないため主に男がやっていた。さらに言えば先のイオとアザムヤゼムの戦いでもあったが、現界の魔力は基本的に魔族にとっては毒物である。扉を開く程度でどうこうなるものでもないがアザムヤゼムが嫌がるのは道理なのだ。アザムヤゼムは扉の設置の補佐、そして計画全体の監督役として役目をこなしてきた。
そのように主に男が計画を遂行してきたわけだが、ここにきてようやくアザムヤゼムにも本格的な仕事が出来たというわけだ。
「どちらにしてもお前じゃあの娘には勝てないだろう」
「ああ、下級と言っても魔族なのだろう。ならば私が敵う道理はない」
魔族はどれだけ下級でも普通人間の及ぶ相手ではないのだ。とてつもなく戦闘能力のある連中だけが相手を出来るのである。なので、一介の、所詮『呪術師』でしかない男にはどうすることもできないのだ。
「なにか呪いがあれば別なのだがな」
「呪いっていうのがまだ僕には良く分からないね。負の魔力を送って相手を死に至らしめるのとは違うんだろう」
「ああ、それは違う。呪術は呪術だ。相手を呪う、もしくは相手の呪いを増幅する術だ」
「いつ聞いてもそれだけだよね。お前は。結局それじゃ呪いがなにか分からないんだよ」
男は自分の術について多くを語らなかった。秘匿しているというよりは単に話す必要を感じていないのだろう。もしくは恐ろしく口下手なのかもしれなかった。
「まぁいいよ。とにもかくにもさっさと始めよう。僕は勝手にやらせてもらう」
「攻めるのか」
「まさか、待ち伏せするに決まってるだろう。ただ、準備しようと思っただけさ」
そう言ってアザムヤゼムは部屋を出て行く。
「ふふ、あの娘が『ペテン師のイオ』だったとは驚いたよ。異界じゃちょっとした有名人だからね。どうやって料理しようか悩ましいよ」
アザムヤゼムはクツクツと笑う。
「そうか」
アザムヤゼムの言葉に男はまったく関心を示していなかった。
「じゃあ、お前もお前で法陣の設置をこなしてくれよ。頼んだよ」
アザムヤゼムは部屋のドアに手をかける。しかしふと立ち止まった。
「呪いか。まぁ、まだ良くわからないけど、お前の言うことをなんとなくは理解した上で言うとすれば、あの娘は呪われているかもしれない。一度直に見てみるといいかもね棘」
そう言ってアザムヤゼムは闇の中に姿を消した。棘(おどろ)、それが男の名だった。男の不吉な視線は結局、はじめから最後まで窓の向こうに向けられたまま動くことはなかった。
「忘れ物はねぇだろうな」
「持ってくものなんか財布くらいだ」
「二人共気を付けていってらっしゃい」
手を振る涼子さんに小さく手を振り返し俺たちは『笹川骨董店』を後にした。目的は一つ。魔法陣の破壊、及びアザムヤゼムの痕跡の捜索だ。時刻は早朝である。秋の冷気が街を満たしていた。天気は晴れで、空には何本もの筋雲が流れている。日は登り始めたばかりで街はまだ薄暗かった。
「で、具体的には何をするんだ」
「とりあえず、法陣を消そう。もう見つけてあるのがいくつかある。そのうちのひとつを今から消しに行く」
「ははぁ」
魔法陣を消すといっても具体的に何をするのかは良く分からない。素人なので、何となく想像することさえ出来はしなかった。とりあえず付いていくしかない。
「そういや、お前普段は『ガッコウ』ってとこに通ってるんだろ」
「ああ、涼子さんにことが落ち着くまでは休んだ方がいいって言われてるからな。しばらくは休むよ。インフルエンザにかかったことにしといた」
いつまで通用するかは分からない。いい加減に出席日数なんかのこともあるし。あんまり長いと明らかに怪しいので、10日以上かかるようなら多少の危険を押してでも登校しようとは思っている。
「私にはその『いんふるえんざ』ってやつも良く分かんないけどな。ガッコウって勉強するところなんだろ。で、毎日毎日通わなくちゃならないっていう」
「異界には学校はないのか」
「ないさ。まず社会ってもんがあるともないともいえないような状態だからな。言葉で説明するのが難しいほど混沌としてるよ」
「なんかすごそうだな」
恐らく俺の想像すら出来ないようなすさまじい場所なのだろう。
「物好きだな。そんなに毎日同じ場所に行っては家に帰るって生活を送るなんざ。楽しいのか?」
「楽しいよ、一応。勉強は嫌いだけど、友達と遊ぶのは楽しい」
「はぁ? お前は勉強しにガッコウに行ってるんだろ? そこで勉強そっちのけで友達と遊ぶことを中心にしてるってことか?」
「いや、改めて言われると確かにおかしい話ではあるんだけど、学生なんて基本そんなもんだ」
「なんか妙な連中だな」
イオは「不自然だ」と付け加えた。真顔で言われると確かにその通りで耳の痛い話だ。そんなこと真顔で言うのはイオが人間ではないからなのだろう。普通に学生生活を送ってる子供や、送った大人では出てこない率直な意見だ。勉強と言えばイオの魔術とやらも勉強が必要なのではないのか。
「お前の魔術はどこで習ったんだ」
「んー。一応先生は居たけど、基本を学んだらいろんなんところを旅して、その土地その土地で魔術を習得したな。だから、半分近くは我流だ」
「そんな感じで使えるもんなのか魔術って」
「まぁ、そんなもんだよ」
それも良く分からない話だが普通の勉強とは勝手が違うのかもしれない。そうこう話しているとイオは商店街の裏側。雑居ビルと雑居ビルの間の裏路地に入っていった。レンガのタイルに古めかしいデザインの窓、その裏は薄汚れた配管が通り空調が音を立てている。
「こういうところに入るのは初めてだ」
「まぁ、普通の人間が入ってくところじゃないわな」
裏路地をしばらく歩き、やがてビルと工場の間にぽっかりある空き地に出た。ビルの影が落ち、半分以上に影が差している。チンピラが書いたであろう落書きがあったが数はひとつだけ。チンピラでさえめったに入らない空き地であることが分かる。
「さて、ここだぜ」
「・・・・何もないけどな」
空き地は空き地だった。なんなのか良く分からない材木が脇に積まれているだけだ。それ以外には何ら不自然なところはなかった。
「どこに魔法陣があるんだ」
「日が差してる間は動いてないから見えないんだ。本当はその辺にある」
イオは空き地の真ん中を指さした。ただ、地面があるだけだ。
「今から術式の解除をする。お前は黙って見てればいい。そんで魔法陣を見てなにか感じるだろうからそれを覚えろ」
「感じる?」
「もう半分魔族のお前は魔力を感じることが出来るはずだ。その感覚を覚えるんだよ」
そう言ってイオはパーカーのポケットからチョークを取り出した。白色だ。それを使って地面に図形を書き始めた。丸の中に三角を書き、何やら文字を書いていく。
「なんなんだそれは」
「魔法陣を解除する魔法陣だ。これくらいの魔法陣になると防御機構が備わってるからな、それを解除してかつ破壊する術式を組まないとならない。特にこいつは世界と世界を繋ぐ魔法陣だからな。扱いは慎重にやらないとろくでもないことが起きる場合もある」
そう言いながらイオは魔法陣を書いていく。最終的に4つ、空き地の四方にひとつずつ白い魔法陣は描かれた。丁度空き地の中心を囲むような形だ。それぞれ丸の中に三角が書かれているのは同じだったが、刻まれた文字が違うように見えた。そして仕上げにそれぞれの円を線で繋ぎ、その四角形の線の辺の一つに小さな丸を1つ書いた。
「さて、それじゃあ始めるか」
イオは最後に書いた小さな円に手を当てる。すると、ぼんやりと白線が赤く光り始めた。それに呼応するように今度は空き地の中心が紫色に光り始める。そして浮かび上がったのは一昨日の夜に見たのと同じ魔法陣だった。
「どうだ、なにか感じるか」
「ああ、赤い光からは甘い匂いがする。紫色からは酸っぱいような匂いか」
二つの光が現れた時から明確に普通でない匂いを感じた。甘い匂いは果物とかに近いだろうか。酸っぱい匂いの方は別に腐った匂いとかではなく酢を無機質にしたような匂いだった。化学薬品っぽいというのだろうか。どちらも今まで嗅いだことのない不思議な感じだったが、別に嫌な臭いという感じではなかった。
「なるほど、お前は魔力を匂いで感じ取るのか。変わってるな。赤い方は現界の魔力、紫は異界の魔力だ。よく覚えとけ」
どっちかの匂いがしたら何かしらの魔術が使われているということなのか。なんというか普通の匂いとは明らかに違うのでしたら多分分かると思う。
そうこう言っている間も作業は進んでいる。扉の魔法陣はジリジリと音を立てて光が波打つように揺らめいていた。よく見ると、それに対して周りのイオの書いた魔法陣はそれぞれ光り方が違う。
「全部別の魔法陣なのか、あれは」
「ん? ああ、そうだ。魔力の流れの調整と、術式の解析、術式の解除、それから全体的なシステムの制御だな」
「色々と細かいんだな」
「もっと凄まじいのとかもあるけどな」
そう言いながらイオは手元の円に手を当てながら微妙に手を動かしたりしている。あれがいわゆるコントローラーみたいなものなのだろう。
「っち、街中にあるやつだから作りが微妙に違うのか」
「普通街中にはこういう魔法陣はないのか?」
「ねぇな。起動してる間はこういうふうに目で見える。普通の人間が見て妙な騒ぎになったら向こうも行動しづらいからな。場合によっちゃこっちの敵対勢力にバレるってこともある。だから、人目につく場所は避けるんだよ。でも、門を開くには配置の都合があるから、ここはどうしても設置する必要があったんだろ」
「なるほど」
だからあんな誰も来ないような郊外に居たのか。あんなところ通るのは俺くらいだから向こうも想定外だったのだろう。じゃあ知られていないだけでこの街にはまだああいうものがいくつもあるということか。
「よし、来たぞ」
扉の魔法陣の淵が少しずつ薄れ始めた。代わりに赤い光がじょじょに広がっていく。現界の魔力が流れ込んでいるのだろう。こういう風に魔法陣に侵入して破壊するらしかった。
「よし、あとはもう時間の問題だな。魔力を流してるだけで勝手に進んでいく」
しばらくすると赤い光は全体まで達した、そしてイオが手元の円から手を離すとこの場の全部の魔法陣が一斉に消え失せた。
「よし、終わった。あとは」
イオは立ち上がり今度は自分が空き地の中心に行った。そして地面を指でなぞり始める。その指先には魔力を示す赤い光が灯っていた。
「何やってんだ」
「またここに設置されないように別の魔法陣を書いてるんだ。他の術式の発動を妨げるだけで、かつ解除が恐ろしく難解な魔法陣さ。これでそうそうここには設置できないだろ」
アフターケアというやつか。こういう感じで魔法陣を消すらしい。かかった時間は15分といったところか。見た目的には簡単そうに見えたが多分やってる側はものすごいことをやっているのだと思った。
「どうだ、これで私が何やってるかは分かっただろ」
「ああ。こんなことをずっとやってたのか」
「2週間くらい前からな。これで9個消した。もう見つけてるのがあと3つあるから、今日中にあと二つは消したいところだ」
「じゃあ、次に行くのか」
「いや、その前に連中の情報を探そう。これで魔力を見つけることは出来るだろ。お前の場合匂いになる」
「まだ、そんなに自信はないけどしたらすぐ分かる匂いではあったな」
アザムヤゼムのような化物相手に匂いがどうとか感じている余裕があるのかと言われれば無理だとは思うが。
「それが分かれば十分だ。魔法陣の探索もしたいけどまず街中を歩くぞ。連中が根城にしてる場所を探して、最悪手がかりだけでも見つけたいところだ」
「魔力の痕跡を探すっていうのはそういうことか」
「ああ、アザムヤゼムほどの魔族ならどれだけ隠してもかならず魔力の痕跡は残る。それを手がかりに連中の行動を割り出すんだ」
「足あとは必ずあるってことか」
「でも向こうもそれは承知の上だ。かく乱するためにわざと残す足跡もあるだろうし、最悪罠ってこともある。アザムヤゼムならもうとっくにデコイを作ってこっちに戻ってきてるだろうからな」
「なっ。じゃあ、お前狙われるんじゃないのか」
あの化物が「次はお前を狙う」と捨て台詞を吐いていたのを思い出す。あんないかれた化物が再び来るのだ。
「さすがにあいつも昼間に堂々と襲ってくることはないさ。それこそ人目に付くからな。まぁ、人気のないところはヤバイから注意はしなくちゃならねぇ。それにお前だって狙われない保証はない。私といるあいだは身の安全は保証するが、一人で出歩くことがあったら気を付けろ」
「わ、分かった。俺ももうあんな思いはゴメンだ」
もう何かに吸収されるような経験も、死を間近に感じるのもゴメンだ。二度と味わいたくはない。
「よし、ならとりあえず行くぞ」
「おう」
俺たちは街の中を歩き始める。少しでもあの不思議な匂いがしないか俺は自分なりに感覚を研ぎ澄ませ歩き始めた。
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