第5話「扉」

 帰り道に、遥介は佐里の家へ寄った。

 佐里はまだ帰っていなかった。

 佐里の父も仕事のある時間で家にはいなかったし、佐里の母は、離婚して家を出ていったので、もうここにはいない。

 遥介を出迎えたのは、一人で留守番をしていた佐里の祖母だった。


 そこで佐里の祖母にプレイヤーを渡して、帰ってしまってもよかったのだが。

 遥介は、なんとなく家に上がって、佐里の帰りを待たせてもらうことにした。


 応接間に通された遥介は、お茶などを出されてもてなされた。

 昔なじみの顔なので、相手の態度も気安いものだった。

 佐里の祖母は、遥介が幼い頃の昔話を掘り返したり、学校のことやら家のことやらをいろいろ聞いてきたりした。


 しばらくの間、そうやってなんてことのない話をしていた。

 佐里はなかなか帰ってこなかった。


 途中で、遥介はトイレを借りに席を立った。

 トイレから出てきて、応接間は、さてどっちだったかと、遥介は迷った。

 勝手知ったる家だったとはいえ、何年かぶりに訪れると、さすがに細かい間取りまでは忘れているものだ。

 かすかな記憶を頼りに廊下を歩いたが、いつの間にか、遥介は応接間を通り過ぎて、玄関まで戻ってきてしまっていた。


 玄関のすぐそばには、二階へと続く階段があった。

 遥介は、無意識に足を止め、階段の上を見上げる。



 この上には――……。



 キシ、と、足元から音が響く。

 自分の足が階段を踏みしめた音だった。


 キシ。キシ。キシ。


 一段一段、ゆっくりと、遥介は階段を上っていく。


 勝手に人の家の二階に上がるなんて、普段ならそんなことはしないのに。

 何か、礼儀とかを守ろうとする理性よりもはるかに大きな力が、遥介の中のどこからか湧き出して、心身を支配していた。


 二階にたどり着いた遥介は、引き寄せられるように一つの部屋の前まで来て、立ち止まった。


 閉じられたドア。



 この部屋は……。



 覚えている。昔の佐里の部屋だ。

 あの、薄いオレンジ色のカーテンが掛かっている部屋だ。

 小さい頃、この家に来るたび、よくこの部屋で佐里と遊んだ。



 この部屋は……。



 遥介はゆっくりと腕を上げ、その手をドアのノブに向けて伸ばした。

 ノブを握る。だが、それ以上は手が動かなかった。

 ドアノブと握手をするような格好で、遥介の体は固まった。



 この部屋は……。



 ドアノブを握る手の袖に、ぽたり、と何かが落ちた。

 涙だった。

 それが自分の涙だと、気づくと同時に、また、頭の中が霧で覆われる。


 どうして自分は泣いているのか。

 そんな戸惑いも、疑問も、次第に麻痺していって、だんだんとこの涙が、流れるべくして流れているもののように思えてくる。



この部屋は……。


この部屋は……。


この部屋は……。




「遥介」


 その声で、遥介は我に返った。

 振り向くと、佐里がこっちを見ていた。

 ずっとこっちを見ていた――なんとなく、そんなふうに思える様子だった。


「何してるの? こんなところで」

「いや……」


 遥介は慌てて涙を拭った。何をしているんだろう。

 説明できるものならしたかったが、自分にも何がなんだかわからなかった。

 話題をそらそうと、遥介は、急いで鞄の中から佐里の音楽プレイヤーを取り出した。


「これ、見つけたから、届けに来たんだ」

「えっ……」


 佐里は目を見開いた。


「見つけたって……捜してくれたの?」

「ああ、まあ……。えっと……とりあえず、壊れてはないみたいだったけど」

「そう……」


 佐里は、遥介の手からプレイヤーを受け取った。

 それから、持っていた紙袋を遥介に見せて、


「もう見つからないと思ったから、今日、新しいプレイヤー、買ってきちゃったんだけどね」

「え……」


 しまった、と遥介は思った。

 うかつだった。プレイヤーを捜す前に、なぜその可能性を考えなかったのだろう。

 しかも、佐里が電気店の紙袋を手に提げているのが目に入っていたはずなのに、そのことに気づかず、プレイヤーを取り出して渡してしまった。


 遥介は、うなだれて、溜め息をついた。


「じゃあ……余計なことだったな。昨日、捜すの手伝えばよかったよ……ごめんな」


 佐里のことだ。

 うん、無駄な苦労だったね、くらいのことは言うかもしれない。

 もしかしたら、それよりもっと腹の立つことを……。


 遥介は大きく息を吸って、身構えながら顔を上げた。

 佐里は、じっと遥介の目を見つめた。


「余計なことだなんて思わないよ。ありがとう、遥介。私、すごくうれしい」


 一言一言、噛みしめるようにそう言って、佐里は笑顔を浮かべた。


 意外だった。

 遥介は、呆気に取られて佐里を見つめ返した。

 佐里がこんなことを言うなんて。こんなふうに笑うなんて。

 どうしたというのだろう。いつもの態度とあまりに違う。


 けれど――佐里は、嘘をつかない。

 だから、少なくとも、この言葉が、この笑顔が、今このときの佐里の本当の気持ち、なのだろう。



 それから、どんなふうに言葉を交わして佐里と別れたのか、よく覚えていない。

 ぼんやりとしたまま、遥介は佐里の家をあとにした。





 門を出て、立ち去り際、遥介はふらりと二階の窓を見上げた。

 夕陽を浴びて、その色の中に溶けて消えそうな、オレンジ色のカーテンが、目に映った。


 好きだよ、と。

 遥介は、昔一度だけ、佐里に言われたことがあった。


『私は、遥介のことが世界でいちばん大切なの』


 そう言って微笑む佐里。

 記憶に残っているその光景は、幼い頃に見た夢だったんじゃないかと、遥介は今までずっと思っていた。

 だって、ちょうどその頃から、佐里は「変わって」しまったから。


 ある日を境に、佐里は変わった。

 以前の佐里とは別人のような、正直者に。


 その「ある日」について、他のことは何一つ思い出せないのだけれど。

 でも、自分の記憶が正しければ、佐里にあの言葉を言われたのは、確かにその「ある日」のことだったのだ。


 だけど、そんなことがあるだろうか。


 あれ以来。

 自分は、変わってしまった佐里と一緒にいるのが、耐えられなくなって。

 佐里のほうも、自分に対して、ないがしろな態度を取るようになって。

 そのまま、互いに疎遠になっていったというのに。


 でも。それでも、もしかして。

 あれはやっぱり、本当にあったことだったのだろうか?

 今日の佐里の笑顔を見て、遥介はまたわからなくなった。



 どうも何か、大切なことを忘れているような気がして、ならなかった。

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