第3話「舞百乃」

「こんな所で立ち話してたら、委員会に遅れちゃうんじゃない? それに、買い出しとか引き受けていいの? 体育祭のあとも委員会ごとにいろいろ片付けがあるんでしょ? できれば、打ち上げ始まるまで休んでたいんじゃないの?

 あと、遥介って、昔っから食べ物の好き嫌い激しいよね。子どもの頃からの偏食、ほとんど治ってないって、お弁当の中身でわかるんだよねー。そんなんで、闇鍋なんてろくに楽しめないでしょ」


「え……そうなの?」


 聞き返した早川のほうを見て、佐里はうん、と大きくうなずいた。


「遥介は、人一倍周りに気を遣うから、こういうとき本音を言わないんだよ。頼み事するときとか、みんなで何かを決めるときとかは特に、遥介の言うこと、あんまり言葉どおり受け取らないほうがいいよ」


 そう言われて、早川は黙ってしまった。

 手に持ったノートにそろそろと視線を下ろした早川は、数秒間ノートの表紙を見つめたあと、どうしたらいいかと、困った顔で遥介のほうへ目を向けた。


 遥介は、すかさず平然とした笑顔を作って、早川に告げる。


「気にしなくていいよ。闇鍋ってことなら、当たったものはなんでも食べるからさ。好き嫌い多くても、闇鍋って面白そうだと思うし。参加したいよ」

「そ……そうか? でも……」

「どうしてもいやだったら、そのときは、俺だってちゃんとそう言うからさ」

「……うーんと……」


 早川は、ちらちらと佐里のほうを気にしながら口ごもり、それから、ハッとして言った。


「あっ。まあ、とにかく、おまえは委員会行けよ。悪かったな、時間取らせて」

「ああ、うん、大丈夫。あの、早川――」

「当日の買い出しも、こっちでやっとくからさ。おまえは、体育祭の片付け終わったら、ゆっくり休んでろ、な!」


 念を押すように遥介の肩を叩いてから、早川は、足早に教室のほうへと引き返していった。


 遥介は、ぼんやりと廊下の奥に視線を置く。

 そして、浅い呼吸を繰り返していた肺に、少しずつ空気を満たしていって、胸の中を限界まで膨らませると、その息を細く長く吐き出した。


 唇の隙間を閉じてから、遥介は佐里を振り返った。

 いつもどおり、穏やかな笑みを浮かべて。


 さっきのようなことを、あえてあの場で隠した自分の本音を、級友の前で、晒されたくはなかった。

 悔しくてたまらない。

 今、ちょっとでも気を緩めると、笑顔が崩れるだけに留まらず、涙でも出てしまいそうだった。


 いっそのこと、この場で佐里の胸倉を掴んで思いきり怒鳴りつけてやりたい。

 そんな気持ちに駆られてしまう。


 けれど、そうはするまいと、遥介は決めていた。

 どんなに腹が立ったって、気分が悪くたって、自分は佐里に笑いかけてやる。

 これが自分なりの佐里への対抗手段なのだ。

 たとえ他の誰かに怒りや恨みをぶつけることがあったとしても、佐里に対してだけは、決して「本音でぶつかって」などやるものか。



 佐里と向かい合って、遥介は、一言挨拶して別れようと口を開いた。


 しかし、その口の中で思わず「あれ?」と小さく呟く。

 目の前にいる佐里の姿に、なんだか違和感があるような気がしたのだ。

 どこか、普段の佐里と違っている。


 まじまじと佐里を見て、すぐにその理由がわかった。


「佐里、今日はヘッドホンしてないんだ」


 学校の中で、ヘッドホンを付けずに歩いている佐里の姿を見るのは珍しい。

 でも、そうか。

 ヘッドホンを外していたから、佐里はさっき、自分と早川の会話を聞きつけて話しかけてきたのだ。


「プレイヤー、充電切れ?」

「ううん。なくなっちゃったの。プレイヤーもヘッドホンも」


 佐里はためらいなくそう答えた。


「体育の授業のあと更衣室に戻ったら、どこにも見当たらなくてさ。たぶん、クラスの誰かが隠したんだと思うんだけど。それで、今捜してるとこなんだ……」


 相変わらず、こういうことも包み隠そうとしない。

 とはいえ、佐里はさすがに少し困った顔をしていた。


「捜すの、手伝おうか?」


 尋ねた手前、放っておくのも気が引けて、遥介はそう言った。


「委員会は?」

「あ……そうか。でも……。じゃあ、委員会が終わってからなら……」

「いいよ、無理しなくて」


 佐里は鬱陶しげな目で遥介を睨んだ。


「手伝ってはほしいけどさ。私なんかのために労力使うの、ほんとは嫌でしょ? だから……いいよ、別に」


 言葉の最後は、溜め息を吐き捨てるような口調だった。

 佐里は唇を結び、目を伏せる。



 きゅ、と、遥介の胸が痛んだ。


 佐里の視線の中に、声の中に、表情の中に、仕草の中にある何かが、遥介の胸の奥深くを、締めつけた。



 佐里は無言で遥介の横を通り過ぎた。

 遥介は、動けなかった。声も出なかった。


 なぜ、自分が佐里に対して胸を痛めなければならないのかと、そのことに戸惑うも、戸惑いはだんだんと麻痺していって、それにつれて、意識が霧に覆われていくような感覚に捉われる。



 何を見つめるでもない目を見開いて、遥介は立ち尽くしていた。


 そのとき、くすくすと、背後から笑い声がした。



「大変ね、眉村くん。あんな幼なじみがいて」


 振り向くと、そこに一人の女子生徒が立っていた。

 見覚えのある顔だった。

 そうだ、確かよく佐里と一緒にいる……黒崎くろさき舞百乃まものという子だ。

 たぶん、佐里の唯一の友達だろう。


「黒崎さん……も、佐里が友達なんて、大変じゃない?」


 冗談めかした態度で、遥介はそう返す。

 黒崎は、ふふっと笑った。


「まあ、ね。でも……眉村くんなら、もっと優しくされたっていいと思うけど」


 黒崎は、その黒い瞳で、じっと遥介の目を見上げる。


「だって、眉村くんて、優しいもの。面倒見いいし、いつも周りに気を配れるし。だから人望あるのよね。周りの人間を大切にできるから、そのぶん、眉村くんも周りから大切にされるんだわ」

「…………」


 遥介は、曖昧な笑みを浮かべた。

 こんなに露骨に褒められるのもまた、どう反応していいか困ってしまう。


 でも、本当にそう思われているのならうれしい。

 自分の信念が、よい結果に繋がっているのだと信じられる。


「眉村くんにあんな無神経な態度とるのって、佐里くらいよね。相手がどんな人でも、佐里ってああなのよね。遥介くんのこと、ちょっとは見習おうとか思わないのかしら」


 口元に薄く笑みを含ませる黒崎の言葉を、遥介も軽く笑って流そうとする。


 だが、上手くできなかった。

 笑い声にしたかった息は、かすれて、苦しげな吐息となって漏れただけだった。


 無神経、か。

 確かにそうだ。今の佐里は。

 でも――。


「佐里は……昔は、ああじゃなかったんだ。小さい頃の佐里は、もっと、人の気持ちを考えて行動できるやつで……。いいやつだったよ。本当だ。その頃の俺なんかよりも、よっぽど――」

「知ってるわ」


 そう言って、黒崎は目を細めた。



 ――知ってる? 黒崎が? あの頃の佐里を?



「あ……ああ、そっか。そうだよね」


 とっさにうなずいたが、遥介の頭の中には疑問符が漂っていた。


 そういえば、黒崎舞百乃は、いつから佐里と知り合いだったのだろうか。

 幼稚園が一緒だったのか?

 小学校の同級生だったのか?

 それとも、昔近所に住んでいたんだっけ?


 不思議なことに、どうもそこのところの記憶がはっきりしない。



 気がついたときには、佐里のそばに、この子がいたのだ。

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