結晶時間 -Snow flakes-

なつの真波

1


 今でも、耳に残る声がある。



 


 幼い頃から私には、孤独癖があった。


 どうということでもない。ただ、時折、どうしても独りになりたくなるのだ。


 そんな時には、父も母も、年の離れた仲の良い兄ですらも私は近づけさせなかった。誰にも見つからない場所を探して、じっと時間が過ぎるのを待つ。夢想する。空想する。思考する。ただ、独りきりで、時間を過ごす。


 いつから孤独癖があったのかは、私自身覚えてはいない。ただ、物心つく頃には独りの時間をたしかに確保していた。小学校の頃なら、校舎の三階の音楽準備室の端。人の通らない、影の場所。中学の頃なら、屋上へ上がる前の短い階段。そして、高校にあがった私にとっての独りの場所は、図書室の奥だった。


 ほこり臭く、陽のあまり良くあたらない図書室は使用する人間の極端に少ない場所だった。当然といえば当然かもしれない。学校のすぐ近くに市の大型図書館があり、そこは施設も書籍も充実している。学校の図書室を使うよりそちらに行った方が早いのだ。だからこそ私は、人の来ない図書室が好きだった。


 ロバート・A・ハインラインや、アーサー・C・クラーク、アイザック・アジモフといったSFから、アガサ・クリスティやコナン・ドイルといったミステリー、あるいはフィリパ・ピアスやサン・デグジュペリといった児童書、指輪物語りやモモといったファンタジーまで――基本的にジャンルを問わず、私は雑多に本を手に取った。時に激しく、時に軽やかに、時に物悲しく、そして時に愛しい物語の世界は、独りの私を自由へと羽ばたかせていた。友人たちと連れ立って立ち寄るファースト・フードやカラオケももちろん好きではあったのだけれど、月に一度か二度、私は必ず独りになりたかった。そんな時に傍にいたのはそんな数多の物語たちで、そして――ただ、一人。


 私が一人の時間を過ごすときに、独りではなくした彼がいた。


 図書室の隅で、私と同じように物語を読みふけっている眼鏡をかけた少年だった。





 彼と私は、同じ図書室の中で、けれど一度も言葉を交わしたことはなかった。


 ぴんと張り詰めた独特の空気が、口を割ることで崩れてしまいそうな――そんな気がしていたのだ。そしてそれは、耐え難い喪失を意味していた。失ってはいけないもののような気がしていたのだ。図書室の扉をどちらかが開けたとき、その音に反応して先に室内にいたほうが顔を上げる。視線を交じらせる。そして、微笑む。暗く落ちた照明が、時折命が少ないことを示すようにじじっと点滅するとき、私たちはなんとなく天井を見上げ、同じ動作をしている互いに気付く。そして、微笑む。夕暮れが差し迫り、どちらかが下校するとき椅子を引く音に顔を上げる。帰る相手を見つめて、そして、微笑む。


 ただ、それだけだった。


 入学して二週間後の春の日差しの中で、彼と私は出会った。そして、時は過ぎていく。


 図書室のすぐ外にある桜の花は散り、やがて青々と茂り、陽光はきつくなり、からからと古びた扇風機が図書室内の空気をかき混ぜる。誰かが気まぐれにぶら下げたらしい窓脇の風鈴がちりんと音を立てる。その音が涼しげになり、やがて陽が短くなる。図書室内はオレンジに染め替えられ、窓の外の桜の葉は僅かながらに紅色にかわる。短い陽は駆け足でさらに短くなっていき、やがて分厚い雲が窓の向こうの空を覆う。図書室内には暖房器具が持ち込まれ、かすかな熱を放出する。


 そんな、一年が過ぎた。


 私たちは一度たりとて言葉を交わさなかった。不思議では、あっただろう。だけど私はこの時間を宝物のように感じていたし、決して誰にも口外しなかった。言葉という純粋さを失ったものが入り込むと、幻影のような、あるいは幻想のようなこの時間が消え行くような――そんな不安感が確かに合ったのだ。この時間は、まるで何かに取り付かれたかのような儚さではあった。触れればもろく崩れていく結晶のような、そんな時間。私たちは決して口約束はせず、けれどどこかで確かに約束を結んでいるようなものだった。いや、あるいは契約か。互いに口を開かない。そんな、不思議なつながりとも言える契約。そうすることで保たれる、ぴんと張り詰めた空気を伴った、結晶時間。


 そして、二年目がまわる。


 私は二学年に進級し、彼は三年生になったようだった。襟につけられている緑の年章は一学年上のものだった。それだけを私は知っていた。


 あとは、笑みが穏やかなことと――せいぜい、どうやらSFが好きらしいということ。そのことくらいだった。目立つ人ではなかったのだろう。校内で見かけることが驚くほどなかった。すれ違っていても気付かないのかもしれない。私はこの時折の孤独癖を除けば、騒がしい女子高生の典型的な人物であったし、友人たちとはしゃぎながら歩く校内では、友人たち以外目に見えてはいなかったとして不思議ではないのだから。


 孤独を好む私は、この瞬間にしか存在しない。


 そして、私のそんな姿を知っているのは彼、ただ一人だった。


 不思議と、独り時間に彼が伴うことに苦痛はなかった。ただ、ぬくもりだけがあった。


 両親や、兄でさえ、あるいは親友と称していい一握りの友人たちでさえ近づけなかった私の独り時間に、彼は何の抵抗もなくそこにいた。


 時が過ぎる。


 季節はめぐり、月に一度、あるいは二度、彼と私は出逢う。私が図書室へ行くときには必ず彼がいた。何故だろう。考えたことがある。おそらく彼は私と違い、毎日この場所に通っているのだろう。そう考えた。


 今年もまた、大きなストーブが持ち込まれる。冷たい空気は少しだけ暖められ、彼は眼鏡が曇るのか時折外して磨く。


 その仕草を、時々視線で追う自分に気付き始めたのは十二月の頭で、私は戸惑いを隠せなかった。


 眼が合えば、微笑う。


 赤くなる頬は、暖房器具の熱のせいだと自らに言い聞かせ、私は物語の世界へと舞い戻る。


 私は気付いていなかったのだ。

 それは確かに限りなく奇跡に近い時間で、儚く結晶のように美しい時間ではあったけれど、つまりは永遠ではないということを。


 二月。如月。


 それはとても寒い日だった。

 結晶は儚く、崩れ去る。





 いつものように、彼が椅子を引く音を耳にした。顔を上げ、もうすっかり慣れ親しんだ仕草で微笑みあう。二年の歳月はそれを自然なものとしていた。

 けれど、その日はいつもとは違った。


「さようなら」


 鼓膜を震わせたのは、穏やかな、見た目よりやや低い声だった。


 口に出さず結んでいた約束が崩れたような、張り詰めていた空気の何かが音を立てて壊れるような、そんな不安感が私を包み込んだ。けれど、彼は驚く私に変わらない穏やかな笑みを向けたまま、続けた。


「ありがとう。君との時間が、好きだったよ」


 呟きのような、あるいは囁きのような言葉を残し、彼は図書室を出て行く。


 残された私は呆然としたまま、背中を見送った。


 手がかじかんでいた。


 ストーブのぬくもりは、儚いものと知った。彼のいない図書室は、あるいは約束が途切れた図書室は、ストーブでは温めきれないものだった。


 窓の外には、白いものが舞っていた。


 ひとつ。ふたつ。みっつ。


 分厚い雲から、儚く、もろく、優しく降り積もる雪。

 見つめる。

 私の頬は知らず濡れ始めていて、そして私はようやく気付いた。

 三年生にとって、今日が卒業前の最後の登校日だったことを。


 雪が舞う。

 去年と同じように、静かに、変わらず、美しく。

 私は降り続ける雪を見ながら、少し、泣いた。


 それはさようならという事実に対してか。あるいは、結晶時間が崩れたことに対してか。それとも、彼の言葉に対してか。

 私にも、判らなかったけれど。


 ――静かに、雪は降る。

 もう一度、結晶を固めてみればと微笑むように。

 その微笑みは穏やかで、ぬくもりがたしかにあった。

 その微笑みは穏やかで、彼の笑みに良く似ていた。



 これからどれだけ時を過ごそうとも、この結晶のように儚く、美しく、けれど確かに存在した時間を、私は忘れないだろう。


 永遠は存在しない。

 けれど内耳に残った彼の声は、おそらくはただ唯一、私の中で永遠となる。



“ありがとう。君との時間が、好きだったよ”



 ありがとう。あなたとの時間が、好きでした。





――Fin.


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