無冠の女王

「ここまで? 冗談だろ?」

 固まるはるかな川は答えない。


 優一が敵に目をやれば、石版の桃乃紋と呼ばれた怪物は立てていた槍を水平に寝かせ、その切っ先をはるかな川と優一にぴたりと指向した。


「嘘だろおい」


 桃乃紋はそのまま身をよじるように姿勢を低くすると、馬そのものの脚力を余すことなく硬いアスファルトの路面に伝えて、大型バイクのようなパワフルさで疾走を始めた。

 

「逃げるぞはるかな川! おい!」


 優一のその呼び掛けにも答えず、はるかな川は青ざめた顔で固まるばかりだ。馬の蹄の音はどんどん近づいている。


「くそっ‼︎」


 優一は悪態をついて、はるかな川の小さな身体を抱え上げ、道の脇に倒れこむように跳んだ。そのすぐそばを重量を伴う一陣の風が駆け抜け、殺意に尖る槍先が捉えたマフラーが引き裂かれ、夜の道路に舞い散った。


「走れるか、はるかな川」

「あ、ああ」

「広い場所はあいつに有利だ! 路地に入ろう」


 再び背後に迫る蹄の音。

 二人は支え合うようにして、夜の大都会に駆け出して行った。



***



 狭い路地の、ごみ収集コンテナの陰に座り込んだ二人は、荒い息が収まらないのも構わずに、追っ手の気配だけを心配していた。


 入り組んだ路地に入り込むと、流石に馬サイズの桃乃紋は自由には動けず、徐々に距離を稼ぐことに成功した二人は、なんとかその追跡を逃れることが出来たようだった。


「なんなんだ……アイツは。あのスピード。あのパワー。ゴリラ女やモノクルジジイより全然強いじゃねえか」

「奴は……桃乃紋はるみ。通称、石版の桃乃紋。またの名を、無冠の女王」

「無冠の女王?」

「そうだ。奴は小説では、なんの賞も受賞していない」

「なんだ。なら、はるかな川の方が立場が上じゃないか。受賞実績を前にしたら、奴もグウの音も出ないだろ」

「デビューしてるんだ」

「デビュー?」

「商業デビューだよ。やつの著作は電子書籍にも、紙の本にも、コミック化されて漫画にもなっている。今年には翻訳されて海外展開も始まった」

「な……」

「これがどういうことか分かるか? 奴は天才だ。怪物だと言っていい。無冠だが、私より全然格上だ。桁が二つ三つ違う。そもそも私が受賞した賞というのは、あの桃乃紋主催の小説賞なんだ」

「なんでそんな奴がweb小説界にいて、俺たちに襲いかかって来るんだ⁉︎」

「知るか。本人に訊いてみろ。

 だが、あいつは師匠もいなければ文筆の学校にいたわけでもない。完全に独学で商業小説家になったという話だ。確かめずにいられないんだろう。誰かと戦って、驚いたり驚かせたり、殴ったり殴られたりすることで、自分が今どの程度の力なのかを」

「殴るのが俺たちじゃなくたっていいじゃないか」

「web小説界隈は狭い。ゴリラのずんだ原とプロフェッサーを退けた奴らがいる、なんて話が奴の耳に入ったのかもな」

「と、いうことは……?」

「我々か奴か、どちらかが倒れるまでこの戦いは……」


 そこまで言ったはるかな川の視線が自分から外れたのに気がついて、優一はその視線の先を追った。


 そこには、手に抱える程の石版が音もなく浮遊していた。その表面に刻まれた全く隙間のない文字列が赤く明滅すると、石版の中央が火花を散らし、激しい電光を伴う雷撃を吐き出した。


「危ない!」

 短く叫んだはるかな川が優一を庇う。

 そのはるかな川の背中を、光の刃と化した稲妻が真っ直ぐに刺し貫いた。

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