石版の桃乃紋

「はるかな川」

「なんだ」

「まさかとは思うが、なんの宛てもなく歩いてるんじゃないよな?」

「見てわからないか? 左手を壁に付けているだろう」

「いや無理だろ……」


 顔中を汗の滝にしながら、優一はへたり込んだ。


「ずりーよ、お前だけ上着脱げて」

「手錠をなんとかしろ」

「斬新刀で斬ってくれよ」

「断る。刃が痛むだけだ」


 優一はそのまま熱い砂の地面に身体を投げだして空を見上げた。

 高い壁のはるか上空に、抜けるような青空が見える。

 その空の色、四角く壁に区切られた狭さを見た時、ふわりと優一の胸に去来する記憶があった。だが彼は、その去りゆく記憶を留めようとも、引き戻そうともしなかった。


「どういう意味だったんだよ」

「なんのことだ?」

「この手錠さ。僕に手錠を掛けたのは、誰でもないのかもしれない、って」

 少し先を歩いていたはるかな川は引き返して来て、優一の近くの壁にもたれ、そのままストン、と座った。

「……ここに来た君と最初に会った時を覚えてるか?」

「ああ」

「君は私になんと言った?」

「確か……助けて貰った御礼を言って、君に次々と質問を」

「違う。私は訊いた。死にに来たのか、それとも助けが必要か、と」

「あ、ああ……」

「君はなんと答えた?」

「助けてください、死にたくない……?」

「そうだ。そして君は、誰だ?」

「渡辺優一」

 優一のその答えの先を促すように、はるかな川がじろりと睨む。

「……の、作家性」

「そうだ。君の疑問は、作家性である君に鎖を掛けて、ミラムバルドの最下層に押し込んだ犯人は誰か、だったな」

「まさか……僕自身。僕の、本体?」

 はるかな川は否定も肯定もしなかったが、優一には彼の辿り着いた答えが真実だと思えた。

「なんで、そんなことを……」

「さあな。見たとこ君はその姿が実年齢のようだ。多感な時期には色々なことが起きる。何かのきっかけで、断筆を心に誓うとかな」

「何かのきっかけって?」

 彼女は少しだけ肩を竦めた。

「私に分かるわけがない」

「君の本体の実年齢は幾つなんだ?」

「知らん。女ですら、ないかもしれない」

「封印される前の、僕のスキルって?」

「自分の胸に訊いてみろ。その方が近道な筈だ」


「……綺麗な文章だな」

「なに?」

「この迷路さ。プロフェッサーって奴の、つまり文章なんだろ?」

「そうだ。年齢も職業も分からないweb作家の中にあって、プロフェッサーはまた異質な存在だ。豊富な知識の引き出しと確かな構成能力、緻密に編まれたそのプロット。今、君が体験してる通りだ。無菌の砂漠を四角く区切る透き通るガラスの迷路。奴は読者をそこに誘引し、その行き先を自在に操る」

「斬新刀の受賞実績で壁を壊せないのか?」

「奴も受賞者だ。効かないだろうな」

「じゃあ仕方ない。やるか」

「何をだ?」

「プロフェッサーって奴を、ぶっ倒す」

「どうやって?」

「斬新刀は鎖は斬れない」

 優一は起き上がった。

「だけど、切れるものもある」


***


 プロフェッサーは、片眼鏡を直して、改めて自らの『構成防壁』を眺めた。

 入り口から出口まで、無駄のない緻密な構成。全ては計画され、管理されている。

 彼は空中の一点に、自らを固定して浮いていた。痩せた身体にぴったりと仕立てられたツイードのジャケット。同じ生地のベスト。螺鈿のタイ留で留めたシルクのタイ。きちっと撫で付けられた白髪の下で、彼は気難しげなその表情を少しだけ緩めた。完璧な世界。この構成防壁も、きっと沢山の読者を魅了するだろう。

 だがその表情がふと曇り、すぐに怒りのそれに変わった。


「……許さん」


 僅かに滲む残像を残して、彼は消えた。


***


 道の形は決まってる


 でも



 彼は彼の作り上げた「構成防壁」に書き殴られたその汚い字の落書きに、怒りを堪え切れずにワナワナと震えた。



 道の形は決まってる


 でも歩き方まで決められたわけじゃない


 誰かが僕らを閉じ込める


 でも心までは縛れない



 赤黒いインクのようなもので、ガラスの壁に大きく書き込まれたその文字を、プロフェッサーは嫌悪した。そしてその落書きにそって、それを書いた犯人を見つけようとした。



 壁ばかりを見るのは


 もうやめよう


 見上げれば、空が


 足元には大地が


 僕らの中には、自由な宇宙が拡がっていて



 プロフェッサーは犯人を見つけた。

 そいつは彼に背を向けて、今まさに「言葉は」と壁に書き殴っているところだった。


「その先に、」


 プロフェッサーは怒りを抑えながら、犯人に声を掛ける。学生服の眼鏡の若者が振り返る。その掌には大きな刀傷があって、落書きはそこから滴る彼の血によって書かれていた。汚い。プロフェッサーは怒りを強くした。


「なんと書くつもりかね」


 プロフェッサーの怒りに反応して、若者の頭上に何枚もの構成防壁の壁が現れ、合図を待つ。彼が眉をぴくりと動かせば、それらは不届きな秩序の破壊者を押し潰し、長い年月がそれをまた砂漠の一部に変えるだろう。完璧な世界は完璧さを取り戻す。


「言葉は」


 手からぽたぽたと血を流し続けながら、眼鏡の若者は言い切った。


「自由を斬り取る刃」


 どっ


 プロフェッサーは自分の胸から何かが飛び出したのに驚いた。それは長い白銀の刃で、均等な幅の小紋の波がその刃と峰とを分かち、そこに彼自身の血が滴って、研ぎ澄まされた刃先を滑ってゆく。

 彼は、刺されたのだと理解した。


「美しい」


 だが、彼の口から出たのは、彼を貫く刃への賛辞だった。


***


 世界は再び暗転し、景色は夜の四車線道路へと戻る。


 はるかな川はビッ、と刀を振って血を払うと構えを解いて鞘に納めた。

「ふう」

「……死んだのか? 奴は」

「いや」

 はるかな川はスカートのポケットからハンカチを取り出すと、優一の右の掌に巻き付け、手の甲に結び目を作った。

「だが、もう襲っては来ないだろう。君の若い情熱と、私の驚天の威力を、奴は認めざるを得なかった」

「情熱なんかじゃねえよ。奴が嫌がりそうなことを書いただけさ」

「冷めた振りはよせ。あの言葉は、君自身の本当の想いだった筈だ。でなければ、この世界では効力を持たない」

 はるかな川は歩き出す。

「全く……」

 優一は何か文句を言おうとしたが、気の利いたそれを思いつかなかった。

「……いつになったら着くんだよ。最上層ってとこは」

「もう見えているさ」

 優一の前をスタスタと歩いてゆくはるかな川の先、晴れた霧の先に、暗い空にそびえる巨塔のシルエットが見えた。

 それは幾条にも伸びる様々な形の摩天楼で、優一は彼がこの旅の終着点のすぐそばにまで来ていることを知った。


***


 大都会の真ん中を、小さな二つの人影がとぼとぼと歩く。


 点滅する黄色信号。だが走る車は一台もない。街をゆく人や、そのビルの窓に映る人も。


 歩く二人はもちろん、はるかな川と優一だ。


「はるかな川」

「なんだ、優一」

「ここに僕の本体がいるのか?」

「君は本当に人の話を聞いてないな。この世界に生身の人間は存在できない」

「え! だって君が……」

「しっ」

 優一の言葉を遮って、はるかな川が刀の鯉口を切った。

「何か来る」


 優一は最初、それは長い棒を持って馬に乗った男だと思った。

 だがそれは、全て間違っていた。


 LED灯の乾いた白い光の下に現れたそれが手にしていたのは長い鋼の槍で、性別は赤いゴシックドレスを着た金髪ツインテールの女性で、種族は、腰から下が真っ白な馬の身体の、いわゆるケンタウロスというモンスターだった。


「最悪だ」


 はるかな川の声は震えていた。


「桃乃紋……! 石版の桃乃紋だ! すまない、優一。我々は……ここまでだ」

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