第1話 貯金箱ククヴァヤ

 セーターを着た自分に愕然としたこの日。ハルは普段よりも早くベッドに横になった。サッサと明日になれば良いと思って。ぼんやりした頭で、自分がショックを受けていたんだと自覚する。

 眠ろうと何度も寝返りをうっていると、低い囁くような声が聞こえてきた。

「まだぐずぐずと悩んでおるのか」

 ハルは動きを止め、周囲の物音に神経を集中する。寝室にはハル以外誰もいない。それにこんな声に聞き覚えなんかなかった。

 空耳。いや、家の外で話している人の声が聞こえてきたのかもしれない。家の周りは静かな住宅地。あり得ない話ではないだろう。

 そう納得した時。

「悔やむばかりでいることに、意味なぞあるまいに」

 同じ声だ。しかも、耳をそばだてていて分かった。近い。断じて外ではない。家の中。もっと言えば……この部屋の中。

 幽霊。その言葉が頭にまとわりつく。

 なんで。どうして。今までこんなことなかったのに。変わったことなんて……セーター! もしかして、あの服に憑りついていたとか。呪いのセーター。なんであんな物買ったのか。

「その方、こちらを向け」

 絶対に嫌だ! 振り向いたら白目をむいた幽霊が髪の毛振り乱して突っ込んでくるに決まってる。それか、気味悪い冷たい手で顔じゅう撫でまわされるとか、呪いをかけられて明日死ぬとか。

「聞いておるのか」

 聞いてません。聞いてません。何にも聞いてません! 目をかたくつむって、掛け布団を握りしめるとそっと引っ張り上げた。ここは無視してやり過ごす。

「お主、絶対に聞いておるな。起きているのは分かっとる。面をあげてこちらを見よ」

 今までで一番長いセリフ。しかも、この低い声は聞いた感じ苛立っている。これはマズイ。非常にマズい。

 びくびくしながら体を硬直させて固まっていると、バサバサッという軽やかな音が聞こえた後、ハルの肩に何かが触れた。

「ギャー!」

 とうとう金縛りがやって来た。恐怖に叫び声をあげたハルは、体が普通に動いていることに驚いた。金縛りってこんな簡単に解けるものなの?

「ようやくこちらを見たか、愚か者」

 私の左肩に小さなものが載っている。そう、大きさは缶コーヒーの缶より一回り大きい感じ。ハルは驚いて跳ね起きた。

「え、貯金箱?」

 布団の上にちょこんと止まっているのはいつも机の上に置いている貯金箱だった。薄暗い室内ではあるが目と鼻の先にいるので間違えようがない。

「なんでここにいるの?」

「飛んできたからに決まっておろう」

 目の前でくちばしをカチカチ言わせながら平然と貯金箱が答えた。あまりにも滑らかな動きに、すでにおかしくなりかかった頭がいよいよ決壊してくる。

「え、ちょっと待って。なんで喋ってるの。なんで動いてるの。っていうか、何者!?」

「待てばいいのか、話せばいいのか。お主が要求していることはどうにも矛盾しているがまあ、答えてやった方が良いのだろうな」

 上から目線で発言したあと、貯金箱は首をちょこっと傾げた。顔を倒すのではなく、回転させるような動きが本物のフクロウそっくり。

「順に答えてやろう。まずなぜ話しているのか。それは妾はもともと言葉を操れるからだ。ただこれまではお主に話しかける機会がなかっただけ。また何故動いているかというのも同様。妾は前々から幾度となく飛び回っていた。愚鈍なお主が気づかなかっただけだ。最後になったが、我が名はククヴァヤである」

 貯金箱は胸をそらして、自慢するように自らの名前を口にした。それにしても、なんて変わった名前なのか。

「ククバヤ……ね」

「違う。ククヴァヤだ。バではなく、下唇を噛むヴァだ」

 ハルが何の気なく口にした発音が気に入らないらしく、英語の先生みたいにククヴァヤが文句を言った。残念ながら、相手はくちばしなので発音を見せられてもハルにはさっぱり分からない。けれども、体を上下にゆすりながら懸命に説明しようとする様はかなり人間味があり、この異常な光景に張り詰めていた神経がようやく元に戻っていくのが感じられた。

 「クク、ヴァヤ。なんで急に話しかけてきたわけ」

 「ああ、そうそうそのことだ」

 ククヴァヤが頷くたびに胸の羽毛がふさふさ動く。やわらかそうでハルは触ってみたかったが、さすがに遠慮した。

 「最近お主、妾の中に収められていたお金を引き出したであろう。かつてなかった事なので妾も気にかけていたのだ。ところが、買いこんだ服を着たかと思えばため息をつくは、ブツブツと独り言を吐くは。これで気にならぬ方がおかしいであろう」

 聞かれていたのか。忘れ去ってしまいたい黒歴史があっさりと蘇って来たことはせっかく和らいできた心をドーンと沈み込ませた。もしも心に実態があったなら、ハルの体からこぼれ落ちて床にドスンと落ちたことだろう。

 それでも、間近で見つめられていては話さないわけにはいかない。極力端折って説明することにした。

「友達の誕生日に向けて新しい服を買ったんだけど。似合わなかったのよ。それで落ち込んだだけ」

「なるほど。それで、どうするつもりなのだ」

 ククヴァヤの発言に意表をつかれたハルはオウム返しに尋ねる。てっきり、説明したら会話が終了するような気でいたからだ。

「どうするって?」

「友人の誕生日会に着ていくのだろう?」

「着ていかないわよ。今までの手持ちで済ませるわ」

 当たり前だ。合ってもいない服でわざわざ友達が集まるパーティーに行くなんて。そんなの、自分から恥をかきに行くのと同じではないか。

 ハルは少し機嫌を損ねて横になる。そのまま、布団に潜り込もうとしたが途中で止まった。

「逃げるのか」

 ククヴァヤのセリフのせいだ。つられて見上げたハルは彼女の目だけが鋭く光っていることに気づいた。闇の中から獲物を狙う捕食者の目。初めて抱いた畏れという感情に圧倒され、枕に頭を押し付ける。

「お主言うていたであろう。大人へのステップだと。ここで引き返せば、その目標を叶えることができなくなるぞ」

 雲の切れ間から月光が漏れククヴァヤの小さな体を照らし出す。彼女の声は穏やかな優しいものに変わっていた。

「似合わないならば、似合うようになれば良いのだよ」

「似合うようになる……」

「そうだ。可能性というのは、人が思っているよりも広いものだよ」

 確信を持ったククヴァヤの口調に乗せられたのか、私もだんだんできるような気になってきた。人が思っているよりも可能性は広い。その通りだとハルは思う。

「なんたって、貯金箱が喋るくらいだしね」

「妾は貯金箱ではない。フクロウだ。思いのままに飛び回ることができるのだからな」

 ムッとしたように、ククヴァヤが訂正した。彼女の中ではそこが重要なポイントであるらしい。どう考えても、フクロウの中にお金が収まるはずないのだが。

「ねえ、似合うようになれるかな」

「多少努力や工夫をすれば、なれるだろう。知恵の化身として妾も力を貸すにやぶさかではない。ずっと部屋の中に居て退屈だからな」

「ありがとう」

 飛び回る貯金箱。かなり変わった存在だと思うが、一応味方もできてなんだか、変われるような気がしてきた。はっきりした根拠はないが、モチベーションは上がった。

「明日から、頑張るよ」

「うむ」

 私は上に乗っかったフクロウを落とさないように気を付けながら、布団をかぶり眠りについた。

 朝陽が顔に届いて目が覚めた。いつもと何ら変わらない朝だ。フクロウ型貯金箱は普段の定位置に戻っている。体を起こしながら室内を眺める。やっぱり、いつもと変わらない朝だ。こうなってくると、昨晩の出来事が夢だった気がしてくる。いや、むしろ置物が動くなんて話、現実だと思う方がおかしいのかもしれない。

 「ねえ、クク。動ける?」

 ハルは机の上で腕を組みながらフクロウを覗きこむが、当然のように返事はない。指ではじいてみても、キイーンという軽い澄んだ音がするだけだった。陶器に特有のとがった音だ。

「動かない、か」

 ハルはやっぱり夢だったのかと結論付けて、手早く制服に着替える。その途中、昨日着たセーターが視界の隅に入る。見ただけで昨日の自分の情けなさが思い出されて、朝っぱらから気分がめげる。

「なかった事にしよ」

 そう決めて、ハルは学校へと向かった。

 空は良く晴れていたが、今日は少し肌寒い。とうとう夏が終わったということを感じていると、後ろから声をかけられた。

「ハルちゃん。おはよう」

 まったりとしたスピードは芽原里美だ。ショートカットでたれ目の女の子。いつものんびりふんわりとしたオーラをまとった癒し系である。ハルはよく覚えていないが、幼稚園も一緒だったらしく、親同士も仲がいい。

「ねえ、ねえ。ハルちゃん」

「何?」

 2人で肩を並べて歩き出す。通りの向こうでは柴犬2匹がじゃれ合いながら散歩を楽しんでいる。リードを持っている人物のうち、片方は里美のお母さんだ。軽く挨拶してから脇をすり抜ける。

「穂乃果ちゃんの誕生日なんだけど、どんな服着ていくの?」

「えっと、いつも通りのつもりだけど」

「あれ? お母さんが、ハルちゃんはわざわざ新しい服まで用意するんだって言ってたよ。ハルちゃんのお母さんから、ハルちゃんが自分で注文したって聞いたって」

「え……ああ、そうそう。そうだった。セーター買ったんだ。もう秋だしね」

 しまった。まさか通販で服を買ったことが家族以外にまで知れ渡っているなんて思いもよらなかった。ママ友コミュニティー恐るべし。

 ハルが内心冷や汗をかいているのには全く気づかない様子で里美は無邪気な笑顔を浮かべている。

「わあ、楽しみだな。わざわざ取り寄せるなんてすごいよ。似合うんだろうね」

「そんなこと言わないでよ。でも、楽しみにしてて」

 何を期待させようとしているんだ。ハルは自分の発言にツッコんだ。ただでさえ、絶望していたのにさらにハードルを上げるだなんて。相手が本当に無垢な里美だから、子供に期待させるように接してしまった。

「うん。もう待ちきれんよ」

 里美は何の疑いもなく微笑んでいる。

 ああ、これで着ていくしかなくなった。ハルは漏れ出てきそうなため息を必死で押し殺した。

 昨日、ククヴァヤは言った。『似合わないならば、似合うようになれば良いのだよ』、と。今、ハルは似合うようにならねばならない。

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