二月二十五日。火曜日。

 二月二十五日。火曜日。放課後、四時三十分。

 僕は携帯で時間を確認してから、図書室の扉を開けた。図書係の人がちらりと僕を見たけれど、見慣れた存在なのもあり、すぐに視線を逸らされる。

 いつもの本棚へ行く道とは、一本ずれたルートを選ぶ。ノートを入れている本棚から隠れる場所に。二月九日、ヒジリがこんこんと本棚を叩いた場所に着くように。

 その場所へ近づくと、人の気配がした。いつもは感じないもの。

 緊張する。心臓がばくばくする。それでも、もう僕は、ヒジリから逃げない。

 ノートを入れている本棚からは死角になっている場所。一歩踏み出せば、ヒジリの姿が見える場所。

 こんこん、と、震える拳で本棚を叩く。

 すると、ばさっと何かが落ちる音がしてびっくりする。ヒジリがノートを落としたのだろうか。続けて慌ててノートを拾う音。おそるおそる、こちらに近づく足音が、する。

 こん、と、本棚の向こう側から聞こえる。

 こん、と、もう一度答える。

 息を吸う。


「―――こんにちは」


 少しの沈黙。

 それから、こん、と音がする。


「この間は、僕が、君を呼んだのに。勝手に逃げて、ごめん」


 こん、と返事をしてくれる。


「僕は」


 もう一度、息を吸う。


「僕は、僕のこの、高い声が嫌いだ」


 自分の喉を触る。震えても、必死に言葉を探して、声に出し続ける。


「生まれたときから声が高かった。今でこそ声変わりして少しマシになったけど、中学二年のときまで、甲高いというか、耳がキンキンするような声だった。

そんな声なものだから、周りによくからかわれたし笑われた。僕は僕で笑ってた。ネタにするというか、おどけてた。そうしたら周りも楽しんでくれた。友だちもたくさん出来た。中学二年生のときに声変わりしても、それは変わらなかった。僕がおどけて、友だちが笑って。僕は別に、気にしてるつもりは、なかったんだ。おどけるのは、笑ってくれるのは、友だちと話すのは楽しかった気がしてたから。

これはたまたまなんだけど、高校には小中学校が同じ人が誰もいなかった。だから、一から友だちを作らなきゃいけないなと思ってた。頑張らなきゃいけないなって。それで、一年生のとき、隣の席になった男子と話してて、なんでもない雑談だったはずなんだけど」


 一度息継ぎをしてから、続きを言う。


「そのときに、『声高いね』って言われた。次の日から、僕は教室に入れなくなった」


 自分の喉を、ぎゅっと握る。


「僕はずっと、気にしていたんだ。笑われるのも、からかわれるのも、ずっとずっと嫌だった。目を逸らしていただけだった。僕は自分の声が大嫌いで、それをとやかく言われるのが、馬鹿されるのが、本当はしぬほど嫌だったんだ。そんな、ごく普通の、心の弱い人間だった」


 こん、と音がする。聞いているよと言うように。


「ヒジリ。君は、僕が教室に行かないことを選んだと言ったけれど、そんな、格好良いものじゃない。僕は、ヒジリの方がすごいと思う。ヒジリは逃げなかった。僕は逃げてばっかりだ。それを認めたくなくて、自分がちっぽけな人間であることを直視できなくて、こんな、日記を隠すなんて馬鹿みたいなことをしてた。それだけで優越感に浸った。こんなちっぽけな「特別」に、僕はすがっていた。

ヒジリの文字を初めて見たとき、すごく嬉しかったんだ。僕なんかの言葉に答えてくれることが。僕の声じゃなくて、文字で、言葉で、僕を知ってくれることが、すごくすごく嬉しかった。

ヒジリ。僕もずっと、楽しかった。ヒジリが僕の言葉を読んでくれることが、僕のためのヒジリの言葉が、すごく嬉しかったんだ。何よりも特別だった。失いたくないと思った。でもあの日、ヒジリの返事がなくて、これで終わってしまうのが怖くて、あんなことを書いた。ただ君の気を惹きたかっただけのつもりだった。

それなのに、あのとき、ヒジリの低い、格好いい声を聞いて、僕はめちゃくちゃ惨めになった。ヒジリと同じじゃないことが悔しかった。だから、また逃げた。僕こそが、本当に、つまらない、人間なんだ」

「―――ヒジリ」


 低い、格好良い、声。ヒジリの声。


「そっちに、行ってもいい?」


 返事が、声が出ない。出せない。あっというまに、勇気が萎んで消えそうになる。

 それでも僕は、こん、と本棚を叩いた。

 本棚の向こう側で、誰かが動く気配がする。僕は俯いて目を瞑った。会ってしまえば、夢が覚めてしまう予感がした。今までのことは全部僕をからかうためにしてきたことで、「つまんない奴だな」とヒジリに笑われてしまうのではないかと、怖くてしかたがなかった。

―――それなのに。


「ヒジリ」


 ヒジリが僕を呼んで。

 気づけば、大きな身体が、僕の華奢な身体を抱きしめている。


「あの写真は、あの料理は、君が作ってるんだろ」


 はっとして、顔を上げようとする。だけど強く抱きしめられてしまい、顔はヒジリの胸にうずめられたままだ。さっきまで目を瞑っていたものだから、ヒジリがどんな顔をしているのか、どんな髪なのかもわからない。ただ、ヒジリは僕と同じ制服を着ていて、僕よりも身体が大きい。


「最初は君の母親か、父親が作ってるんだろうと思ってた。でもよく考えたら、俺がシチューの話をしたその日にシチューを作ったり、そういうのって、親にしてもらうのは難しい気がする。それに、途中からお弁当になったのも、もしかしたら、ヒジリが俺に見せてくれるために作り始めてくれてくれたのかなって」


 ああ、ヒジリは、本当は自分のことを「俺」と呼ぶのか、と思う。それから口を開く。


「親は、仕事で忙しいから。親の分まで、僕が作ってる」

「そうか。やっぱり、ヒジリはすごい」

「すごくない、こんなの」

「俺は、自分が料理なんかして、親に何を言われるのか、怖くてしかたなかったよ」

「どうして」

「自分でもよくわからないんだ。母さんも父さんも普通に優しいし。仲良いつもりだし。でも、『別にコンビニで買えばいいのに』と言われたとき、俺はとても惨めになった」

「でも、続けてるんだ」

「君に写真を見せたくて」

「どれも美味しそうだった」

「嘘だ。どれもそんなに上手くいかなかったよ」

「どれも、嬉しかった」

「それは、嬉しい」

「ヒジリ、僕は」

「うん」

「僕も、君と話せて楽しかった。君がどんな言葉を返してくれるのか、毎日楽しみに待っていた。あのノートにいる僕のことだけは、特別で、好きになれたんだ」

「うん」

「本当なんだよ」

「うん」

「ヒジリ」

「うん」

「どこの大学に行くの」

「N大学」


 ヒジリが口にした大学は、受験にまだ関心を持てない僕でも知っている有名なところだった。偏差値が高い、という噂も聞いたことがある。


「ヒジリは、進路はまだ決めてない?」

「うん。今もままならないのに、大学なんて」

「それなら、俺と一緒の大学に来て」

「無理だよ、そんな偏差値の高いところ」

「俺ができたから、ヒジリにも出来るよ」

「そんな発言は、無責任だ」

「そうだよ。でも」


 ヒジリの声が、ずっと耳に響いて、残る。


「ここで、終わりにしたくない。ヒジリじゃない君も、俺は知りたい」


 ヒジリの制服に、涙が滲んでしまいそうになる。


「嘘だ」

「嘘じゃない」

「だって僕は、こんな」

「俺の名前は」


 そこでヒジリは言葉を区切った。息が震えているのが、緊張しているのがわかる。


「俺の名前は、ハヤマ、ユウタ。葉っぱの山に、雄と太いで、葉山雄太」


 大きな身体に腕を回す。その背中に、手を伸ばす。


「僕の名前、は」

「うん」

「キノシタ、タイチ。木の下に、太い、一番の一で、木下太一、です」


 若干の沈黙のあと、吹き出したのは同時だった。くすくすと小さく笑う。誰にも気づかれないように、たった二人の秘密のままでいられるように。


「全然ヒジリじゃない」

「葉山雄太だって、全然ヒジリじゃない」

「なんでヒジリにしたの」

「なんか、格好いいなって思って」

「それはわかるけど」

「だから同じヒジリにした?」

「うん。その方が、それっぽいかなと思って」

「うん。それっぽい」

「あと、太いって漢字は、一緒だ」

「うん。そこだけ、一緒」

「太一」


 初めて、名前を呼ばれた。両親以外に下の名前で呼ばれるのは随分久しぶりだった。


「俺は、君と話せて嬉しかった」


 僕の中にあった黒いものが、溶けていく。


「君にやっと会えて、よかった」


 葉山雄太の胸に、ぎゅっと顔をうずめる。


「もう返事は書いてくれないの」

「本当は、三年生は自由登校になってるんだ。来る必要はない」

「でも今日は来てくれた」

「このまま続けるのは、あまりよくないと思う」

「どうして」

「俺も君も、あまりにお互いを特別扱いしすぎなんだ。このままだと俺たちは、俺たちを拠り所にしすぎてしまうと思う。今だってこんな風に抱き合ってしまってる。そういうのとは違うのに、キスとか、その先とかをしかねない」


 それは僕も心のどこかで気づいていたことだ。毎日ヒジリのことを考えていた。ヒジリの返事があるだけで元気になった。教室のことを考えられないでいられた。そのことは、きっと、この先よくないことになる。


「だから、ここで、特別は終わりにしよう。俺はこのまま卒業して、普通に、大学に通う」


 わかった、とすぐに言えなかった。とんとん、と葉山雄太の背中で叩く。


「雄太、先輩」

「はい」

「それじゃあ、僕は。明日から普通に、教室に通います」

「……無理はしてない?」

「してないです。ヒジリの言葉を覚えていれば」


 強く抱きしめる。強く抱きしめ返す。


「太一」

「はい」

「あのノート、俺が貰ってもいい?」

「はい」


 迷いはなかった。彼がノートを持ってくれているだけで、僕の言葉を持ってくれているだけで、後ろを振り向かないでいられる気がした。


「太一」

「なんですか」

「もう一度、俺を呼んで」

「雄太先輩」

「もう一度」

「雄太先輩」

「ありがとう」


 彼が、僕の頭を撫でる。


「ボクは、君が大好きだった」


 ヒジリの背中を撫でる。


「僕も、君が大好きだった」


 結局、彼の顔を一度も見ることはなかった。

 彼の身体が離れても、僕は顔を上げられなかった。立ち去る彼の足音を、俯いたまま、ずっと聞いていた。

 図書室の扉が開いて、閉まる音が聞こえてから、僕はノートを挟んでいた本棚の前に立つ。いつもの棚、いつもの場所に、もうノートはない。

 そのとき、足に何かが当たった。視線を下げると妙に可愛くラッピングされた袋がある。彼が、置いていったものだろうか。しゃがみ込み、リボンをほどいて袋を開ける。


「……あ」


 中には、マフラーが入っていた。可愛いラッピングとは相反する。紺色の無地。触るとふわふわとした生地が心地いい。

 しばらく触っていると、かさりとマフラーとは違う感触がした。小さなカードだ。取り出して、そこに書かれた文字をなぞる。


〈葉山雄太。N大学、文学科。

××××年、四月十日。

大学の正門で、待ってる。〉


 綺麗で丁寧な、ヒジリの文字。

 年数は、今から二年後。僕が受験に成功すれば大学一年生になる年だ。

 カードを袋に入れ直し、形がくずれないようにしながら自分の鞄に入れる。ノートを入れていた本棚には、小難しい哲学やら何やら本しかない。難しい専門用語が表紙に書かれたものを一冊手に取り、カウンターに向かう。


「貸し出しを、お願いします」


 そう言って図書係に本を差し出す。いつものように黙って受け取ると、図書係はなぜか僕をじっと見つめた。ひやりとする。もしかして、先ほどの会話を聞かれていたのだろうか。抱き合っているのを、見られてしまったのだろうか。小声で話していたから、気付かれはしないだろうと思っていたのに。

 図書係が口を開く。何を言われるのかとひやひやする。


「前は、ごめん」

「え」

「オレ、木下の気に障ることを、言ったから」


 あ、と僕は思い出す。教室で、隣の席にいた子だ。「声高いね」と言った、クラスメイトだ。僕は、そんなことにも気づいていなかった。

 僕は首を横に振る。君のせいじゃない。それがちゃんと伝わるように。


「僕が、気にしすぎていただけなんだ」


 明日から、僕は教室に通う。毎日ヒジリの言葉を思い出しながら、教室の扉を開いて、クラスメイトと笑って話す。頭はそんなによくないから、今から大学受験の勉強をする。そしてあの人と同じ大学を受けて、受かって、二年後の四月十日、大学の正門に行く。もし彼がいなければ、何が何でも探して見つけてやる。抱きしめてキスしてでも僕を思い出させてやる。

 そうしたら、実はもうマフラーは買ってしまっていたんだって話そう。会わなかった二年間のことを話そう。どの講義は面白くて、どの講義は面白くないとか、こっそり教えてもらおう。一緒に料理を作って、これは上手くできたとか、できなかったとか、好きな人はいるのかとか、そういう、なんでもない話をしよう。

 そしてようやく僕らは。木下太一と葉山雄太は。

 普通のつまらない、友だちになれるんだ。

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君の言葉が僕になる 笹川チエ @tie_sskw

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