二月十二日。水曜日。

 最近顔色がいいね、と保健室の先生に言われた。逆に言えば、それまでの僕の顔色はよくなかったということだろうか。そう尋ねることはせず、僕はただ頷いた。「そろそろ教室に行けるかな」、と先生は言わなかった。保健室登校を始めてから、先生は一度も教室へ戻るよう僕を促したことはない。

 だが今の僕にとって大切なことは、ヒジリの返事を待つことだった。保健室で授業を受けている間も、昼休みにお弁当を食べている間も、早く放課後になればいいと願ってる。なんて返事が来ているだろう。今日は何を書こう。そんなことを何度も考えては、それだけで胸が軽くなるようになっていた。

 そんな風に。

 僕は勝手に期待して、勝手にショックを受ける。


「あ」


 放課後の図書室。いつもの本棚の前で思わず声が出てしまい、慌てて口を手で押さえた。辺りを見回すものの、やはりそこには誰もいない。


〈二月十一日。火曜日。朝ご飯はクリームパン。お昼ご飯はお弁当。晩ご飯は天津飯。

今日マフラーが壊れた。正確にはカバンのファスナーに引っかかって、まさかとは思うのだけれどビリビリと破れてしまった。新しいマフラーを買わなきゃいけないけど、柄とか色とかどうにも迷ってしまう。僕は優柔不断な人間だ。ヒジリはすぐに決められるタイプ?〉


 文章は、それが最後。僕の言葉で終わっていた。いつもはそこにあるはずの、新しいヒジリの言葉がなかった。お弁当と天津飯の写真も、挟まれたまま。

 悲しいとは思わなかった。腹立たしいとも思わない。ただ、ショッキングだった。僕はいつのまにか、ヒジリが必ず返事をしてくれると信じていたのだ。どこの誰かわからない人を、言葉を、心の底から楽しみに待っていた。

 たとえば、と僕は考える。たとえばこれが架空の物語であれば、ヒジリは本当に妖精であるとか、実は三年ぐらい前の存在で、時空を超えて交換ノートをしているだとか、そんなことが起こりえるかもしれない。だけどここは、まぎれもない現実だ。そんな僕にとって都合のいいことは、そうそう起こらない。

 そう。交換ノートは、ヒジリは、僕にとって都合のいい存在だったのだ。まるで漫画のような特別は、僕だからこそ経験なし得たのかもしれないなんて、ヒジリは僕のことをたいそう気に入っているかもしれないなんて、そんな自惚れを、僕は信じかけていた。

 しょうがないと、最初は思っていたはずだ。いつかヒジリが飽きて返事が来なくなっても、それは普通のことだと。仕方のないことだと。

 でも、僕はシャーペンを握り、考えている。ご飯のことでも、今日の出来事でもない。

ヒジリへの言葉を。


〈二月十二日。水曜日。

君の声は、どんな声ですか。〉


 それだけ書くと、僕は昨日撮ったお弁当と焼きそばの写真をノートに挟んで閉じた。本棚に戻し、すぐに図書室を出る。また本を返却するのを忘れてしまった。だけどそんなことはどうでもいい。


「(―――ヒジリ)」


 心の中で、その名前を呼ぶ。

 結局のところ、僕は、ヒジリのことをとても気に入っていて。

 この特別を絶対に失いたくないと、思ってしまったのだ。


***


 二月十三日。木曜日。図書室へ足を踏み入れるのは、とても勇気が要った。心臓がばくばくとうるさくて、静かな図書室に響いてしまうのではないかと不安に駆られるほどだ。僕の心臓がこんなに騒がしい性格なことを、僕は初めて知った。

 深呼吸してから、いつもの場所からノートを取り出す。手に取れば、厚さで写真が挟まれていないことがわかった。途端に別の緊張が身体を駆け巡る。写真が無くなっているということは、ヒジリがこのノートを開いたということだ。つまり、僕のあの言葉も読んだということで。

 返事が欲しい。返事がなくてもいい。どちらの気持ちも溢れ出て、結果的にそれは緊張に変化していく。怖い、と反射的に思う。誰かに、人に、こんなに心を揺さぶられるということは、逃げ出したくなるほど怖い。

 覚悟を決めないままノートを開く。


〈君の声は、どんな声ですか。〉


 緊張で歪んだ文字。その下を、なぞる。


〈そこで待っていて。〉


 はっと顔を上げる。辺りを見回す。しかしそこには誰にもいない。

 待っていてってどういうこと? どこで? ここで? いつ? 今? 五分後? 一時間後? というか、放課後にここに僕が、いるの、知ってるの?

 それ今、このノートに書いても意味はない。ヒジリ、と、誰もいないのに呼んでしまいそうになる。無暗にその場を歩き回る。ひょっとしたら、からかわれているだけかもしれない。こんな風に慌てふためく僕を、ヒジリは遠くから見て笑っているのかもしれない。それならそうと言ってほしい。だって、もう、また、心がくじけるのは、もう。

―――こん、と。

 音がした。


「―――……」


 こんこん、と、また聞こえる。拳で本棚を軽く叩いた音だと、気づくのに時間がかかる。

ノートを置いているのとは違う本棚。僕のいる場所からは裏側が見えない。だけど、そこから聞こえた。

 ヒジリ、と、声に出そうになる。ねえ、ヒジリなの? そこにいるの?

 音のした本棚の前に立つ。こん、と小さく本棚を叩く。すると向こう側から、こん、と返ってくる。

 ああ、それっぽいなあ、と、僕は何故か泣きそうになってしまう。ヒジリが、本棚の向かい側にいる。その存在が、わかる。もう十分だ。ヒジリが返事をくれた。こうして来てくれた。ただ、それだけで。


「―――こんにちは」


 あ、と僕は思う。ヒジリの声。僕だけに聞こえるよう、小さく潜めた声。

 低い、男の人の、声。

 答えなければいけない。だってヒジリが「こんにちは」と言ってくれた。だから僕も、「こんにちは」と。

 それなのに、声が出ない。緊張がなくなっていく。その代わりに滲み出るものを、僕は直視することがない。だってこれは。黒くて、もやもやして、ぐるぐるして、息をするのも億劫になるそれを、僕は知ってる。


「……ヒジリ?」


 ヒジリが僕の名前を呼んだ。その瞬間、僕は逃げ出した。

 図書係の人が走る僕を見てぎょっと目を見開いたのは見えた。そんなことを気にする余裕はひとつもなかった。図書室を出て、僕は廊下を走る。走って、走って。図書室から遠く離れて、僕はようやく立ち止まる。

 肩で息をしていた。保健室登校になってから体育の授業にも出ていない。走るという行為自体が一年ぶりぐらいだった。喉が痛くて、頭も痛くて、胸は、どうしようもなく苦しかった。

 あんなこと、書かなきゃよかった。ヒジリの声が知りたいなんて、思わなきゃよかった。だって僕は、ヒジリの声は僕と同じだと信じていたのだ。晩ご飯はいつもコンビニ弁当のヒジリ。僕の写真に喜んでくれるヒジリ。ヒジリの声は低くて、格好良くて、僕より少し上の方から聞こえた。おそらくヒジリは、僕よりも背が高い。

 僕とヒジリは対等だと思っていた。僕をヒジリと呼んでくれるヒジリ。同い年で、同じ男で、性格も身長も身なりも同じならいいなんて、そんな夢をいつのまにか抱いていた。

 それなのに。

 今僕は、どうしようもなく。

 ヒジリに劣等感を抱いてしまったのだ。


***


 それから僕は、二週間もの間図書室に行かなかった。ヒジリにちゃんと謝りたいのに、図書室の扉の前までは行けても、中に入ることができなかった。身勝手な話だ。僕が会いたいと行ったようなものなのに、挨拶もしないまま逃げ出したのだ。ヒジリだって、もう僕に幻滅したかもしれない。僕がつまらない人間だということがわかって、それこそ本当に、飽きてしまったかも。

 それでもようやく図書室へ足を踏み入れたのは、「借りていた本の返却期限を過ぎてしまったから」という名目が出来たからだ。怒られるかと思ったが、図書係の人は何も言わなかった。拍子抜けしつつ、僕は図書室の奥の本棚へ向かう。

 ひょっとしたらヒジリがいるかも、なんて何の根拠もない不安―――いや、期待かもしれない。どちらの感情もあるかも。そんな風に考えていたものの、いつも通りそこには誰もいない。本棚を確認すると、変わらずノートはそこにあった。

 あのとき、僕は返事を書かないまま逃げ出した。あの日のまま言葉は止まっているか、もしくは。おそるおそるノートを取る。すると、その厚さに違和感を覚えた。妙に分厚い。まるで何かをたくさん挟んでいるような。

 疑問はすぐに解消される。ノートを開くと、ばさばさと写真が零れて床に落ちてしまったからだ。


「……っ」


 写真だから然程大きな音ではないものの、誰かが来たら何事かと思われてしまう。慌てて写真を拾い集め、ようやくその中身を確認する。

 オムライス、カレー、ハンバーグ、ビーフシチュー、クリームシチュー。どれもこれも、僕がヒジリにあげた料理の写真と同じだ。だけどそれは、僕の作ったものじゃない。どの料理も、どこか焦げていたり、形が歪だったり、クリームシチューは茶色っぽくなっていて、もはやクリームにはあまり見えなかったり。そんな写真が二週間分、ノートに挟まっていたのだ。つまり、これは。


〈二月十四日。金曜日。オムライスを作りました。だけど卵を焼いたら穴が開いたし、焦げ焦げになってしまいました。どうしてヒジリのオムライスはあんなにふわふわで綺麗な色になるんだろう。不思議です。〉

〈二月十七日。月曜日。カレーを作りました。隠し味にコーヒーを入れたら美味しいとネットに書いてあったので、入れたら、入れすぎたみたいでコーヒー味のカレーが出来ました。〉

〈二月二十日。木曜日。この間ビーフシチューがそこそこ上手くいったので、クリームシチューに挑戦しました。見事に失敗です。でも、味は案外美味しかったんです。信じてください。〉


 ヒジリが作った料理だ。ヒジリが、僕に、写真を贈ってくれたのだ。僕が来なくても、返事がなくても、ずっとずっと、ヒジリは交換ノートを続けてくれていた。

 ページを捲ると、日付は今日になっていた。一番新しいヒジリの言葉。


〈二月二十四日。月曜日。

大学の合格通知が来た。〉


 ヒジリの声を思い出す。低い声。こんにちはと言ってくれた、とても優しい声。


〈ヒジリに、君に、謝らなければいけないと思っていました。

二月七日。返事を書けなくてごめんなさい。本当は書きかった。写真も見たかったし、ヒジリの言葉も早く読みたかった。本当です。

それでもボクが返事を書けなかったのは、大学の一般入試を受けに行っていたからです。〉


 ヒジリの言葉は続いている。指でなぞりながら、それを追いかける。


〈ヒジリ。ボクは君と同じ高校に通っている三年生で、受験生です。そして、僕はヒジリが保健室登校に通っていることを知っています。

学校というものは、他の人と少し違う人間の噂話がすぐに広まってしまいます。「保健室登校をしている二年生がいる」という噂は、たくさんある雑談の一つとしてボクの耳に入ってきただけでした。

保健室に入る君を見かけたのも、図書室でノートを本棚に入れている君を見つけたのも、本当に偶然だったんです。そしてボクは、勝手に君のノートを見てしまいました。去年の十二月のことです。黙っていて、勝手に見てしまって、勝手に、返事をしてしまって、本当にごめんなさい。ボクはずっと、君に謝りたかった。〉


 ヒジリの文字はいつだって綺麗で、丁寧で、これらの文字も同じことで。でも、なんだかところどころ固くなっているようで、まるで緊張しているように見えた。


〈ヒジリ。ボクは君が、ずっと羨ましかった。

去年の十二月にボクは、受験に落ちました。推薦入試というやつを受けて、落ちたのです。「まあお前なら受かるだろう」と先生にも親にも言われていた試験でした。ボクもそうだろうと思っていました。ボクはきちんと勉強を頑張っていたし、先生や親の期待に応えたいと思っていたからです。

でもボクは、試験に落ちました。先生も親も、ボクを叱ったり、怒ったりしませんでした。「次があるし、なんなら大学を変えてもいい」とまで言ってくれました。それがボクはどうしようもなく嫌でした。だってボクは、親が喜んでくれると思ったから、先生が褒めてくれると思ったから、その大学を選んだのに。頑張ってきたのに。そんな簡単に言われても、ボクは、どう受け止めていいかわからなかった。大学に受かった友だちが、気遣うようにボクを励ますのがしぬほど惨めだった。

でも、ヒジリ。ボクは、自分で物事を決められない人間なのです。仕事で忙しい親の邪魔をしたくない、というのは体の良い言い訳で、ただ、誰かの期待する道に進んでいるのはとても楽だったから。自分で何かを選んで失敗するのはとても怖いから。誰にどう見られるか、思われるか、とてもとても怖かったから。だからボクは、受験を失敗したことにショックでも、どうしたらいいかわからなくても、本当は友だちに馬鹿にされてるんじゃないかと思っても、学校に行かないという選択をすることは出来ませんでした。苦しくてももやもやしても、いつも通り、変わらず、笑いたくないのに、友だちと笑っていました。ボクはそんな、つまらない、どこにでもいる自分が、嫌で嫌でしょうがなかった。

だからボクは、君が羨ましかったのです。教室に行かないという選択肢を選んだ君が。図書室に日記を隠すなんてことをしている君が。ボクはそんなこと、とうてい出来ないことだから。ボクはずっと、君のようになりたいと思っていた。

一月六日。正確には、ボクは昼休みにこれを書いているので、君が日記を書いた翌日の一月七日。勇気を出して、ボクはこのノートに、ボクの言葉を書きました。君が答えてくれたら、ボクを認めてくれたら、ボクも君のように「特別」になれる気がした。

ボクは、とても楽しかった。ヒジリになって、君と、ヒジリと話すのは、本当に楽しかった。君の言葉はどこか格好つけていて、でも素直で、ボクのことも知ろうとしてくれて、すごく嬉しかった。ボクは、ボクが「特別」になるのではなく、君の「特別」になれていることが、すごく嬉しかったんだ。

君がくれた写真も全部大事に取っています。初めて料理に挑戦しました。「コンビニで買えばいいのに」と親に言われたけど、ボクは、料理を続けます。ボクは、ボクのやりたいことを、選べました。ヒジリのおかげです。

今日合格通知が来た大学は、十二月に落ちた大学と同じところです。ボクは四月から、そこに通うことになります。将来のやりたいことはわからないけれど、まだ不安はたくさんあるけれど、それでもボクはそこに通って、普通の人間に戻っていく。ヒジリの言葉があれば、ヒジリがボクの、ボクがヒジリの「特別」だったことを覚えていれば、きっと大丈夫だと思う。

だから、あの日、二月十三日。ボクが君に何かしてしまったのなら、君を傷つけてしまったのなら、謝りたい。でもボクは、君がどうしてあのときいなくなってしまったのか、わからないままです。

ヒジリ。どうか、返事をください。ボクに飽きないで。幻滅しないで。ボクに悪いところがあったなら。

君の言葉で、どうか教えてください。〉


 ノートを閉じる。抱きしめる。しゃがみこんで、強く強く、抱きしめる。

 ここにあるのは、僕とヒジリの言葉だけ。僕のためのヒジリの言葉。ヒジリのための僕の言葉。

 僕の言葉が、ヒジリの心を支えていた。その事実が。

 息を吐いて、もう一度ノートを開く。緊張して、文字の角という角が九十度になってしまう。それでも、最後まで書き切った。


〈二月二十四日。月曜日。

二月二十五日の、放課後、四時三十分。ここに、いてください。〉


 ノートをいつもの場所に差し込む。本を借りることなく、僕は図書室を出る。

 手が震えていた。気を抜けばよろけてしまいそうだった。それでも明日、僕は、もう一度この場所に来るのだ。

 ヒジリが僕のために、言葉をくれた。ボクを特別だと受け入れてくれた。

 だから、僕も。

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