君の言葉が僕になる

笹川チエ

一月六日。月曜日。

〈一月六日。月曜日。朝ご飯はクリームパン。お昼ご飯は家で食べる。昨日の晩ご飯はハンバーグ。

今日は始業式だった。だからお昼の休憩時間もない。式には出てないけれど、きっと校長先生の話というものは話が長いに違いない。これは小中高どこも一緒なのかな。〉


 つまんない文章だなあ、と我ながら思いつつ、書き終えたB5ノートを閉じる。辺りを見回して、誰もいないこと、人影も見当たらないことを確認する。

 高校の図書室というところには人が少ない。僕以外の生徒がいるのは稀なくらいだ。カウンターに駐在している図書係と司書は除外すれば、覚えている顔は片手で数えるくらい。だからわざわざ人がいないか確認する必要はないっちゃない。でも、そうして油断すると誰かに見つかってしまう。小説とか、漫画とか、得てしてそういうものだ。だから僕は毎回辺りを見回す。

 そして僕は、そっとノートを本棚に差し入れる。図書館の一番奥、一番人が来ないところ。いつも同じ棚、同じ段数のところ。同じ本と本の間。奥まできっちり入れて、そっと息を吐く。

 それは僕が保健室登校を始めたときからの日課だ。高校に入学してから二ヶ月が経った頃、ふいに学校に通うのが嫌になってしまった。「クラスメイトとのコミュニケーションを難しく感じる」と先生に伝えると、僕は保健室で勉強を教わることになった。

 今日は始業式だけで授業はないというのに、とりあえず保健室に来なければならなかった。必要性はよくわからないけれど、保健室に行くこと自体は苦痛じゃないから問題ない。何より、こうして日課をこなすことができるから、来なくていいと言われても僕は来ていただろう。

 僕がそのノートに書いているのは、ただの日記だ。その日食べた朝ご飯と昼ご飯。昨日食べた晩ご飯。その日の出来事や感想を一言、二言。それを書いて、勝手に、こっそり、図書室の本棚に入れる。誰かに見つかれば黙って没収されて処分されるだろう。だけど今のところ見つかった形跡はなく、僕の日記はいつも定位置に置かれたままだ。

 小説コーナーの棚のところへ移動し、適当に一冊選ぶ。カウンターに持って行くと、じろりと図書係の男子が僕の方を見た。


「……返却、と、貸し出しを、お願いします」


 多分、本人は「ちらり」程度のことなのだ。僕にはそういうことがよくある。人との受け取り方が、絶妙にずれること。

 ぼそぼそ喋りながら先ほどの本と、借りていた本の両方を差し出す。図書係は何も言わずに手に取り、小型の機械に本のバーコードをかざした。そして僕に差し出してくる。その機械が貸出返却の処理をしているのだろうか。よくわかっていないが、司書の人も何も言わないからそうなのだろう。

 受け取った本を鞄に入れてから僕は逃げるように図書室を出た。あとは家に帰るだけ。今日会話をしたのは保健室の先生だけだ。廊下で他の先生と遭遇するとたいてい話しかけられるが、今日は運良く見つかっていない。

 誰もいない廊下で、ひとり、息を吐く。

 なぜ黙って自分のつまらない日記を図書室に隠しているかというと、大した理由はない。僕はただ、何か「特別なこと」がしたいだけだ。人に隠し事をする。隠し通す。自分だけの秘密。たったひとつ、それがあるだけで、案外心はときめくし、その反面、穏やかにもなる。

 つまるところ、僕はちょっと人と違うことをしたい、ごく普通の、つまらない人間なのだ。


「(つまらない、人間なのだ)」


 心の中で僕はいつも通り帰路に着く。まあ、あの日記が見つかったところで大ごとにはならないだろう。僕の名前は書いてないし、書いてあるの食事のメニューと当たり障りもない日常ばかり。人の悪口や愚痴を書いているわけでもない。変な落書きもしていない。たとえ僕だとわかったとしても、この程度の悪戯なら、許されていいだろう、なんて、そんな甘いことを考えている。やはりつまらない人間だなあと、ほとほと呆れてしまう。


***


 まあでも、結局そんなものなんだろう。ごく普通の人間がごく普通に過ごす。いずれは普通に教室に通うようになって、普通に高校を卒業する。

 と、ノートを開く一秒前まで僕は思っていた。


〈一月六日。月曜日。

ハンバーグはデミグラスソースですか。おろしポン酢ですか。君の家の晩ご飯はいつも美味しそうですね。

校長先生の話は、君の言う通り長かったです。ボクは一秒一秒数えていました。きっちり六百秒でした。校長先生はタイムウォッチを測って喋っているのかも。〉


 僕は思わず今までの日記を見返した。ハンバーグの前はオムライス。その前はからあげ。その前はトンカツ。その前はナポリタン。字面は美味しそうだけれど、なんとも子どもっぽいメニューばかりだ。我ながら恥ずかしい。

 って、問題はそこじゃない! ようやく事態を把握し、僕は辺りを見回す。人影は見当たらない。どこかで慌てふためく僕を見ているのだろうか。この文章を―――僕へのメッセージを書いた人は。

 こんなことは初めてだった。今まで誰にも見つかっていないと思っていた。でも本当は前から見つかっていたのか? でもそのままにされていた? なんで? というか、なんで、メッセージ?

 そんな疑問符だらけの中、もう一度僕は人影がないか確認する。いつも通り、図書室には僕と図書係、司書以外の生徒はいなかったはず。ということは、図書係の人が? まさか司書が? いやいや、さすがにそれは。だとしたら、それこそ勝手に没収されているだろう。

混乱が治らないまま、何度もそのメッセージを読み返す。綺麗な字だ。達筆というよりは、丁寧に書いてるって感じ。

 その文字を、そっとなぞる。僕だけだったノートに、知らない誰かの文字がある。

 ブレザーのポケットに入れていたシャーペンを取り出し、いつものように立ちながら書こうとする。まずは日付。それから今日の朝食、昼食、昨日の夕食。そして―――。


〈一月七日。火曜日。朝食はアンパン。昼食はカレーパンとクリームパン。昨日の夕食はエビフライ。

ハンバーグはおろしポン酢でした。

今日、廊下で校長先生に遭遇して、立ち話に付き合わされた。体感一時間ぐらいだったんですけど、実際には十五分くらい。僕も秒数をかぞえればよかったかも。

君のことをなんと呼べばいいですか。僕のことはヒジリと呼んでくれたら嬉しい。〉


 上手く言葉がまとまらず、見事に敬語とタメ口がごちゃごちゃだ。しかし書き直すつもりにもならず、そこでノートを閉じる。

 周りに人がいないことを再度確認し、ノートをいつもの場所に差し込んだ。すぐに本棚から離れ、カウンターを通り過ぎ。図書室を出た。早足で廊下を歩きながら、あ、と僕はようやく気づく。


「(本返すの忘れた)」


 あそこで日記を書き始めてから、毎日本を借りるようにしていたのだ。それは秘密ごとをしている罪悪感でもあったし、保健室の先生に「できる限り色んな本を読みなさい」と言われているからでもある。昨日借りたばかりの本だから、まだ返却期限は二週間ある。別に急ぐ必要はないけれど、今日読む本はなくなってしまった。

 それでも図書室に戻る気にはなれず、改めて歩き出す。歩いて、歩いて、僕は鼻歌でも歌い出しそうなほど足取りが軽いことを自覚する。


「(―――どんな返事が来るのかな)」


 僕は、まごうことなきにワクワクしていた。ドキドキしていた。これこそ、「特別」なことじゃないか。そう、まるで幼稚園児の頃、無邪気に見つめていたアニメのように。そこに出てきた妖精に出会ったように。その妖精に粉をかけてもらったら、空でも飛べそうなくらいに。

 どうか返事が来ていますように! 心の中で叫びながら、僕は帰路に着く。


***


〈一月七日。火曜日。

おろしポン酢、いいですね。エビフライもいい。君の食事メニューを見ていると、いつもお腹がすきます。

自分で書いておいてあれだけど、秒数でかぞえるのはあまりオススメしません。その秒数の間が有意義だったかどうか、なんて生意気なことを考えて、自己嫌悪に見舞われるから。

ヒジリ、名前を教えてくれてありがとう。ボクのことは、どうしようかな。じゃあボクのことも、ヒジリと呼んでください。ふたりだから、混同することもないでしょう。あと、敬語はなくていいですよ。ボクも使いません。

ボクのことは気にせず、どうか、今まで通りの日記を続けてほしい。ボクは感想を書かせてもらうだけ。勝手に書いておいてあれだけど、ボクは、君の日記を読むことが好きなんです。〉


「どうしようかな」って、と思わず僕は吹き出しそうになる。「敬語はなくていいですよ」って書いたそばから敬語だし。僕と同じチグハグだ。同じように、どう書いたらいいか戸惑っているのだろうか。顔も見たことのない、この「ヒジリ」も。

 ちらりと後ろを振り向いてみるものの、やはり人影は見当たらない。僕はシャーペンを取り出し、かちかちと芯を出す。


〈一月八日。水曜日。朝ごはんはクリームパン。昼ごはんは焼きそばパンとチョコクリームパン。昨日の夕食は生姜焼き。

今日は一瞬だけ雪が降った。たった数分だったけど初雪だと思う。雪は好きだ。冬ですよ、寒いですよ、って黙って言われてる感じが、風情、情緒がある。気がする。ヒジリも雪を見た?〉


 そう書いた次の日の放課後も僕は図書室を訪れた。うっかり辺りを見回ずにノートを取ってしまい、慌ててノートを抱きしめながら辺りを確認する。それからこっそり中身を開く。


〈一月八日。水曜日。

生姜焼き、いいですね。ご飯がよく進みます。そういえば、ヒジリの晩ご飯は白いご飯が進むメニューが多いですね。

雪、ボクも見ました。ボクは冬だぞって上から言われているような気がしていたけれど、ヒジリがそう言うと、雪が優しいものに見えてきました。ボクが気にしすぎだったのだと思います。〉


 敬語はやめると言っていたのに、どうやら諦めたらしい。二度、三度と読み返してから、僕はシャーペンを取り出す。


「(―――たのしい)」


 僕は、この状況を楽しんでいる。

「ヒジリ」が何者なのか、そんなことはどうでもいい。ここの生徒かもしれない。もしかしたら先生かもしれない。揶揄われているだけかもしれない。もしかしたら、妖精かも、とはさすがに思わないけど。でも、ヒジリがこの日記に参加することもやぶさかではないようだ。彼―――もしかしたら彼女かもしれない、ヒジリ。正体不明の誰か。そんな人と、僕は、秘密を共有した。

 正直に言えば、すぐにヒジリが飽きて返事が来なくなってしまうんじゃないかとも思っていた。幼稚な遊びなのは重々承知の上。自然消滅しても致し方ないと、心の中で予防線を張りながら、僕は日記を続けた。


〈一月九日。木曜日。朝ごはんはフルーツサンド。昼ご飯はカツサンドとタマゴサンド。昨日の晩ご飯はビーフシチュー。

風情とか書いたけど、僕はちゃんとそういうのをわかってるわけではないと思う。ただ格好いいそれっぽいことを言いたい、書きたい? だけだと思う。だから僕は、冬のツンとした、凛とした冷たい空気が好き。な気がする。〉

〈一月九日。木曜日。もしかしてヒジリは甘いもの好きですか。クリーム系のパンが多いような。ビーフシチュー、いいなあ。ボクはシチューと一緒に白米を食べたい派です。

その気持ちは、ボクも、よくわかります。「凛」、格好いいです。でも漢字がすぐに思い出せず、今も携帯で調べてしまいました。格好悪いですね。〉

〈一月十日。金曜日。朝ごはんはアンパン。昼ごはんはカレーパンとメロンパン。ヒジリの言う通り、僕は甘いものがそこそこ好き。ヒジリはご飯に合うものが好きなの? 僕はシチューにはパン派、ではないけど、白米とは一緒に食べないかな。

僕も「凛」は携帯で調べないと書けない。漢字は苦手。国語も苦手。数学は少し得意な気がする。ヒジリは何が苦手で何が得意?〉

〈一月十日。金曜日。ご飯に合うものも好きだけど、あったかいものが好きな気がします。ほかほかと湯気が出ている料理。作りたてというものに、そそられるもかもしれないです。だから、君の晩ご飯もそそられます。

ボクは、なんだろう。あまり得意と言えるものはないけど、点数は国語が一番高いと思う。理数系はめっぽう弱いから、ヒジリはすごいなと思います。〉

〈一月十三日。月曜日。朝ごはんはピザトースト。昼ごはんはクリームパンとアンパン。昨日の晩ご飯はハンバーグ(デミグラスソース)。

僕とヒジリは、なんだか反対のものが多いね。でも、凛がすぐに書けないところとか、同じところもある。こういうのは、すごくそれっぽくて、なんかいいと思う。「それっぽい」が、ヒジリにも伝わるかな。伝わると、僕は嬉しいのだけれど。漫画っぽくて、楽しいってことです。大体。なので僕も、もう少しそれっぽいことをしたいと思う。〉


 一月十三日、僕はノートに写真をはさんだ。昨日の晩ご飯、デミグラスソースのかかったハンバーグの写真だ。残念ながら湯気は上手いこと映せなかったけど、一応作り立てを携帯で取って、わざわざプリンターで印刷した。次の日これがノートから無くなっているのを想像したら、とてもワクワクしたから。

 次の日、予想通りノートから写真は無くなっていた。ヒジリが受け取ってくれたのだ。早速ヒジリからの返事を確認する。


〈写真、ありがとう! 一月十三日月曜日。嬉しくて、先にお礼を書いてしまいました。すごくすごく美味しそうです。ボクの晩ご飯は、いつもコンビニ弁当とか、インスタントラーメンとか、なので、こういう、作りたて、っていうのは新鮮で、楽しいです。それに、写真を見てるだけで、ヒジリと一緒に晩ご飯を食べた気分になれる。と書いてから思っただけど、これって気持ち悪いかな。ごめんなさい。ヒジリのお母さん、お父さん? は、とても美味しそうな料理を作るんですね。

それっぽいは、わかります。ボクも、とても楽しい。楽しいです。でも、コンビニ弁当は、それっぽくなかったかもしれない。気をつけます。それでも、写真、ありがとう。〉


 あ、と思ったけど、声に出すことはない。初めてヒジリがビックリマークを使った。そして、ヒジリが、初めてプライベートなことを書いた。

 得意科目などは話しても、僕たちは自分たちのプライベート、というか、自分の私生活については一度も触れなかった。どこに住んでいるとか、どんな食生活なのかとか、自分がどんな容姿なのかとか、どんな声なのかとか。

 だから僕の頭の中にいるヒジリは、今まで透明人間だったのだ。そんな彼―――今は彼としておく。彼に、肌の色が付き始める。服を着て、家のリビングで一人、コンビニ弁当を食べているヒジリ。

 その理由を尋ねるのは簡単だろう。でも、今ここで書くべきではない。それは、「それっぽい」ことじゃない、ヒジリもそれに気づいてる。でも僕は、ヒジリがコンビニ弁当やインスタントラーメンを食べていることに、不思議と幻滅することはなかった。ヒジリはどうやら妖精ではなく、人間であるようだけれど、それを知れたことは、妙に嬉しかった。その理由は、今の僕にはわからなかったけれど。僕は、「コンビニ弁当とか、インスタントラーメンとか」という綺麗な文字を、三回なぞった。

 それから僕は、放課後必ず夕食の写真をノートに挟み、日記を書いた。ヒジリは律儀に毎回写真を受け取ってくれたし、言葉を書いてくれた。土日は学校が休みだから、平日の間、僕が書いた次の日には必ずヒジリの文字が増えている。それは何か特別でも、格好いい言葉でも、格言めいたことでも何もないけれど、ヒジリの一言一句丁寧に書かれた文字を、僕は読み返すたびに好きになっていった。


〈一月十四日。火曜日。朝ご飯は納豆トースト。昼ご飯はミックスサンドとフルーツサンド。昨日の晩ご飯はビーフシチュー。

喜んでもらえてよかった。こんなものでよければ、これからもノートに挟んでおく。昨日はビーフシチューで、白米と一緒に食べたので、並べて撮ってみた。一緒に食べるの、結構美味しい。〉

〈一月十四日。火曜日。納豆トーストって美味しい? 僕は納豆を食べたことがありません。匂いがどうしても受け入れられず、食わず嫌いなんです。なので、納豆とトーストという組み合わせは、とても不思議に感じます。

白米とビーフシチューは、素晴らしいです。ありがとう食べてくれて。信じられないかもしれないけれど、クリームシチューと白米もちゃんと美味しいです。ぜひご賞味ください。〉

〈一月十五日。水曜日。朝ご飯はピザトースト。昼ご飯は弁当。昨日の晩ご飯はクリームシチューと白米(すこぶる美味しかった)。弁当の写真は、昨日の弁当のやつです。さすがに学校で印刷できないから。

苦手な科目をひとつ思い出した。体育だ。冬は好きだけど冬の体育はめちゃくちゃ嫌い。縄跳びをしていたら縄がべちんと脛に当たって、しぬほど痛い思いをしたことがある。もう二度と縄跳びは握らない。〉

〈お弁当の写真もありがとう! 一月十五日水曜日。タコさんウインナーが可愛いです。甘いものは食べなくて大丈夫でしょうか。クリームシチュー、さっそく試してくれてありがとう。ヒジリがシチューに飽きてしまわないことを願います。

ボクは二重跳びだけは好きでした。あのときの、ビュンビュンって音が格好いいと思います。でも、足に当たったら痛いという気持ちもよくわかります。冬の足は、どうしてあんなに痛みに弱いのでしょうね。〉

〈一月十六日。木曜日。寝坊して朝ご飯食べてない。昼ご飯はカレーパンとカツサンド。昨日の晩ご飯は麻婆豆腐。

午前中、あまりに僕がぐうぐうと腹を鳴らすから、先生が飴をくれた。どうしてあんな小さいものでも多少お腹がふくれた気分になれるんだろう。でも、今既にお腹がすいてる。図書室で腹が鳴るのは、めちゃくちゃ怖い。〉

〈一月十六日。木曜日。朝ご飯は大事ですよね。実は今日、初めて納豆を食べました。ヒジリの好きなものを否定するのは嫌だけど、ごめん、僕には合わなかったみたい。朝ご飯に食べたのだけれど、正直今日は体調がよくないです。

でも、食べたことのない食べ物を食べるのは、随分久しぶりで、新鮮で、どきどきしました。お腹はもやもやするけど楽しかったです。不思議です。ありがとう、ヒジリ。〉


 ヒジリは律儀に毎回言葉を書いてくれた。土日は学校が休みだから、平日の間、僕が書いた次の日には必ずヒジリの文字が増えている。それは何か特別でも、格好いい言葉でも、格言めいたことでも何もないけれど、ヒジリの一言一句丁寧に書かれた文字を、僕は読み返すたびに好きになっていた。

 それにしても、僕もヒジリも図書館でこのノートを書いているというのに、本の話を一切しない。僕は本よりもヒジリの文字をなぞる方が好きだった。ヒジリの言葉は世界中の何より面白いかというと、正直、そんなことはないと思う。それでも僕だけに向けられた文字は、随分綺麗なものとして僕の目に映るのだ。


〈一月三十一日。金曜日。朝ご飯は納豆トースト。お昼ご飯はお弁当(オムライス)とプリン。昨日の晩ご飯はチャーハンと餃子と青椒肉絲(携帯で調べた。読める?)。

また雪が降った。今日は一時間ぐらい降った。雪が積もることはなさそう。もし積もったら、雪だるまぐらい作ってもいい気分なのに。ヒジリはそんなことない?〉

〈一月三十一日。チンジャオロース、読めました(自慢気)。でも、漢字で書けって言われたら書けないと思います。どれだけ勉強しても漢字は難しいですね。

雪だるま、作るの楽しそう。そういえば作ったことがないです。人生で一度くらいは作ってみたいな。〉


 それにしても、僕もヒジリも図書館でこのノートを書いているというのに、本の話を一切しない。僕は本よりもヒジリの文字をなぞる方が好きだった。ヒジリの言葉が面白いかというと、正直そんなことはない気がするのに、僕だけに向けられた文字は、随分綺麗なものとして僕の目に映るのだ。

 気づけば約一ヶ月の間、一日も欠かさずに僕は日記を書いていた。ヒジリも必ず返事をくれた。ヒジリの正体を探ろうとか、そんなことは一切しなかった。僕は放課後になったらすぐ図書室へ来て、日記を書いている。図書室が空いているのは昼休みと放課後の時間だけ。だからおそらくヒジリがノートを書いているのは、それよりもっと遅い時間か、もしくは翌日の昼休みだろう。時間を見て本棚の陰に隠れていれば、きっとヒジリを待ち伏せることはできる。だけど僕は、いつも決まった時間に来て、すぐに図書室を去った。ヒジリと遭遇してしまわないように。

 それこそが、僕とヒジリの「それっぽさ」であり、「特別」であり、ふたりきりの「秘密」だ。ヒジリもそう思っていてくれたらいいなと、僕は、とてもとても期待していた。いつまでもこの日記を―――気づけば交換ノートとなっているその「秘密」を、続けられればいいなと、強く願うようになっていた。

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