第十話 元魔王は意外といい人、という話

 “炎蛇”のレイカはわけが分からなかった。

 自分では、狙いあやまたず憎き魔王を攻撃しているはずだ。

 まさに今も、炎蛇の片方が魔王を頭から呑み込んだ……はずなのに、気付いたら少し離れたところに立っている。もう一方の炎蛇を向かわせても、直撃したと思ったらやはり空振り。大剣で直接斬りかかっても、脳天をかち割ったはずの刃から手ごたえは伝わらず、無駄に土を抉るばかりだ。

「クソクソ、クッソォォォ!!」

 悪態をつくのは苛立ちが半分、もう半分は無駄な攻撃を続けることに疲弊してきた精神を奮い立たせるためだ。

 何としても、あのニヤケ面を叩き斬ってやらねばならない。妹に対して行った罪を万倍にもして返してやるのだと、燃え尽きそうになる闘志へ燃料を継ぎ足していく。

 そうして、どれほどの攻撃を行っただろうか。

 いつの間にか、魔王はもちろんベルーカの姿も見えなくなっていた。

「クソッ、どこに隠れた!」

 決して逃がしはしない。燃え続ける無人の宿場町を、レイカは一人走り抜けていく。


   ***


「いやはや、普通は諦めるものだと思いますがねえ」

 いまだに俺たちを探しているのであろう、一人で燃える町中を走り続けるレイカを遠目に眺めながら、クモが感心したような呆れたような声で言った。

 レイカとの戦闘から離脱した後、俺たちは宿場町から少し離れたところで、火傷の治療がてら一息ついていた。

「陛下の幻術が力不足だったのではございませんか?」

「こうやって逃げることができたんだから、十分だろ。ってか、てめーだけは偉そうに言うな。安全な場所から見ていただけだったクセに」

「失敬な。援護する機会をうかがっていたら、最後まで出ていく機会がなかっただけでございます」

 睨みつけると、クモはわざとらしく口笛なんか吹いて目を逸らした。

 対レイカ戦でのことを簡単に説明すると、以下の通りだ。

 俺が幻術をかけてレイカの知覚を狂わせた。具体的には、俺やベルーカの居場所を正確に知ることができないようにしたのだ。そうなれば当然、攻撃を当てることなどできないし、その場から逃げ出しても理解することもできないだろう。おそらくレイカは、幻術の効果が切れるまで俺たちがすぐ近くにいると誤解したまま探し回るハメになるだろう。

「ご主人さまの言う通り、十分な結果だと思います。わたしの“神速”みたいな高速移動ならともかく、こんな方法で姉さんから逃げおおせるなんて、驚きました」

 手当てを終えたベルーカが顔を上げて、純粋な尊敬をたたえた瞳で言った。

「あんな風になった姉さんを見るのは複雑ですが、わたしが返り討ちにあったときも同じような感じだったんでしょうか。だったら、手も足も出ずに負けてしまったのも納得です」

「幻術のレベルとしては、あんたに使った方が上位だけどな」

 水筒を開けて喉を潤しつつ肩をすくめると、少女勇者は意外そうに目をまたたく。

「そんな、姉さんを相手に手を抜いていたってことですか?」

「アホか。最強の技を使わなかったから手抜きだった、なんていえるほど戦いってのは単純じゃねーだろ」

 いっぱしの戦士がとぼけたことを言うな、と嘆息する。

「あの時は自分の家で襲われたんだぞ。逃げ場がなかったから確実に倒す必要があったし、その後はゆっくり休めると分かってたから、遠慮せずに最大出力で魔術を使えたのさ。

 だけど今回は旅の途中だろ。大技を使って消耗しても回復できる保証がない。それに最後まで戦い抜かなきゃなんない理由もなかった。だったら、その場をやり過ごすための最小限に抑えるのが合理的ってもんだろうが」

 説明はこれで終了、と水筒を片付けて俺は立ち上がった。

「そろそろ動くぞ。最小限の幻術だから、何の拍子に解けるかわからねー。今のうちにできるだけ離れておくべきだ」

「かしこまりました。くぷぷ」

 追従して立ったクモがこらえきれずに笑いを漏らした。何だと目を向ければ、意味深な笑顔で見返してくる。

「合理的とおっしゃりますが、本心は別でありましょうに。陛下も大概甘いお方でいらっしゃいますね」

「どういうことですか?」

 荷物をまとめる手を停めてベルーカがたずねると、クモは口元を隠してクスクス笑いつつ話し出す。

「幻術は相手に大きな負担をかけるのでございます。強制的に幻覚を見せられたことによる精神ダメージは馬鹿にできないもので、幻術の強度によっては物理的に攻撃されたのと変わらないくらい心身が消耗してしまうのです。

 ベルーカさまの場合は隠居所のそばでしたので看病する用意ができていましたが、ここは見た通りの焼け野原でございましょう。負荷をかけすぎて後遺症が残るようなことが無いようにと気遣って、陛下はあえてなるべく弱い幻術をですまそうとしたのでございます」

「……そこまで考えてたなんて」

「だーから、大魔術は疲れるから使いたくないだけだって言ってるだろ」

 いまにも感涙にむせびそうなベルーカを見てられず、俺は頭をガシガシかきむしって足早に歩き出した。

「おや、違いましたか? では、こういうことでございましょうか。強力な幻術で昏倒させてしまうようなことがあれば、そこらの野盗に見つかって乱暴されてしまうかもしれない。だから簡単に解除されるような幻術を選んだ、と」

「しつけーぞ、このアマ!」

 いじめっ子みたいな笑顔でからかってくるクモを黙らせるため、俺は片足を持ち上げて蹴りを放とうと――

「何すんのよ!?」

 レイカの叫びが耳朶を打った。

 もう幻術が解けた――にしては様子がおかしい。

「放しなさいったら!」

「姉さん!?」

 ベルーカがまとめたばかりの荷物を放り出し、青き閃光となって飛び出していった。俺とクモも後を追う。

 声が聞こえたのは、下火になってきている宿屋の向こう側だ。すでに建物から炭の山へと変貌しつつある宿屋を回り込むと、奇妙なものが待ちかまえていた。

 漆黒の球体。

 闇の精霊の卵、とでも言われたら信じてしまいそうな、真っ黒な塊だった。その周辺を青色の光が飛び回り、ギャリリリリッッッ!! と激しい火花をまき散らしている。

 ひとしきり攻撃して効果が無いことを確かめたベルーカが、“神速”を解除して俺の傍に降り立った。

「……なんだい、ありゃ」

「分かりません。千回単位で斬りつけたのに、びくともしない」

 唖然とするしかない俺たちの前で、黒い球体が変化を始めた。徐々に闇が薄れていき、中にいるの者の姿を現わしていく。

「手荒いご挨拶をどうも、お嬢さん。そしてそして、そちらにおわしますは『元』魔王陛下ではありませんか。ご機嫌麗しゅう」

 クモとはまた違った仰々しいしゃべり口で姿を見せたのは、外側の闇と同じくらい真っ黒な装束で身を固めた中年の男だった。わし鼻で長身痩躯、顔は土気色で目だけが病的にギラついている。

 そして、男の左腕には気絶しているらしいレイカが抱えられていた。

「姉さん!」

 実姉の姿を見止めるや、ベルーカの体から青い燐光がこぼれた。

 加速と同時に突撃――すると予期していた俺は、彼女が行動に移る前に止めた。

「やめとけ。今のこいつには何しても逆効果だ」

「ほっほほ。さすが陛下、ワタシのことをよく分かってらっしゃる」

「まあ、長い付き合いだからな」

 今にも俺の手を振り切って飛び出していきそうなベルーカを押さえながら、努めて冷静な声で返す。癇に障る笑い声だが、苛立ちを見せたところで相手を喜ばすだけだ。

「どうせ、また名前変えてんだろ。何て呼んだらいい? 昔みたく、『先生』って呼んでやろうか?」

「いまは『カゲ』と名乗っておりますよ」

 軽くあてこすってみたが、相手も眉一つ動かさずほほ笑んで返した。

 これ以上は時間の無駄だな。

「さっさと要件を言え。わざわざ俺の前に姿を見せたってことは、何か言いたいことがあるんだろ」

「ほほほ。いえいえ、今宵は単なる顔見せだけ。話は次にあったときにでも、ゆっくりといたしましょう。それでは失礼」

 カゲが大仰にお辞儀をすると周囲の闇が再び色濃くなってヤツの体を覆い隠す。そして、漆黒の球体に戻ったかと思うと物凄い勢いで上空へと飛び去って行った。

 どこへ行くのかと目で追いかけたが、球体は夜空の闇に紛れて見えなくなってしまう。

「……ヤツが出てくるとはな。こりゃ本格的に面倒になってきやがった」

 どこかでまた一軒、建物が炎に飲まれて倒壊する音が聞こえた。

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