聖なる奇蹟(前編)

 ピンクのダウンを羽織りながら、優衣はサンルームに向かった。

 世界は愛で溢れているというのに、表情は冴えない。

 とうとう、工藤と沙也香が企画したクリスマスの朝がやって来てしまったからだ。


「おじさん、おはよ……」


『オッ、ユイお早よー』


 おじさんは、優衣の編んだ帽子を被りながら、優衣の様子をチラチラと気にしている。


「ゲッ、ちょーいい天気!」


 窓から見える空を、恨めしそうに眺める優衣。


「本当なら、最高の気分なのに……」


 不幸な境遇をボヤきながら、ダウンのファスナーを閉める。


『別に、ワタシは行くの止めちゃっても構わナイヨ』


「私だって、そうしたいけど」


『ドーシテモ行かなきゃならないのナラ、モー楽しんじゃった方がいいんじゃナイノカイ?』


「それは、そうだけど……」


 ピンポーン♪


 気のない返事と同時に、玄関のインターホンが鳴った。


「誰だろう?」


 走り出る母親のスリッパの音は玄関で一端止まり、すぐにサンルームへと上がってくる。


「優衣! 大谷君が迎えにきてるけど」


「…………えっ、なんで?」


「さぁ〜?」


 ニヤニヤと笑いながら、母親は首を傾げている。

 訳がわからず、2階の廊下から玄関を覗いてみた。


(えっ、本当に居る!)


「大谷、どうしたの?」


 見下ろす優衣を、見上げる大谷。


「あっ、荷物持ってやろうかと思って」


(ど、どういうこと⁉︎)


 若干パニックになり掛けている自分を隠しながら、普通に声を掛けてみる。


「ちょ、ちょっと待ってて! すぐに下りるから」


「おーっ」


 急いでサンルームに戻り、おじさんの前にしゃがみ込む。


「おじさん、行こ」


『行く気になったのカイ?』


「うん」


 ダウンのポケットを開いて、おじさんを入れようとすると、


「まさか、妖精さんを連れていく気?」


 背後から、冷ややかな母親の声が聞こえてきた。

 妨害を察した優衣は、乱暴におじさんを掴んでポケットの中に入れ、階段に向かって走りだす……。


「ちょ、ちょっと優衣! 危ないから、おじさんは連れていっちゃダメよーっ!!」


『ンギュ、オカーサーン! 娘を止めてオクレー』


 スニーカーのかかとを踏んだまま、勢いよくドアを開ける。


「大谷、行こ」


「おっ、おー?」


 血相変えた母親に軽く会釈をして、大谷も外に出た。


 *


 透き通った空からは、ふわふわと粉雪が舞っている。


「う〜っ、寒いっ」


 かじかんだ指先を白い息で温めながら、優衣は荷物を持ち直す。


「持ってやるよ」


「いいよ、大丈夫」


「いいから」


 大谷は強引に鞄を受け取ると、自分の荷物と一緒にまとめて軽々と肩に掛けた。


「優しいじゃん」


「まぁな。今日は、記念すべき決戦の日だからな」


「決戦……?」


『ナンナンダヨ、コイツ!』


 ポケットの中で、おじさんが不機嫌そうに様子を窺っている。


「大谷だよ」


 大谷に気付かれないように、優衣は小声で説明をした。


「おい、聞いてんのかよ」


 そっぽを向いている優衣に、大谷が迫ってくる。


「き、聞いてるよ」


 優衣は慌てて、大谷の方に向き直した。


「まずはひろ先輩と勝負して、早川優衣とはそのあとだなっ」


「はっ!?」


「まぁ、ハンデは充分にやるから安心しろ」


「いや、別に、ハンデなんて要らないけど」


「そんな強気でいいのかな?」


 自分のボードを空に掲げ、大谷が眩しそうに見上げている。


(この人、今日がどういう日だか分かってんの?)


 バスに乗ってからも、大谷の熱いルール説明が続く……。勝負への意気込みは半端ではない。


 窓から差し込む透明な光に照らされて、大谷の嬉しそうな笑顔がキラキラと輝いている。


「大谷が負けたらどうする?」


「俺を誰だと思ってんの!」


 人目を気にしないで、素直に言い合える2人の時間……。

 大谷の笑顔と一緒に居ると、優衣はなぜか幸せな気持ちになる。

 大谷の隣りは、とても居心地がいい。


(このままずーっと、バスに乗ってたいなぁ……。このバス、もう停まらなければいいのに……。って私、大谷のこと……)


 嬉しいような、切ないような、モヤモヤしたこの想い……。

 これは、もしかして……。


 幸せな時間はあっという間に過ぎ去り……、会話の途中だというのに待ち合わせの駅に到着した。


「おはよー!」

「おはよう」


 ハイテンションの工藤と、少し緊張気味の沙也香が合流する。

 そこからは4人で、スキー場行きのバスに乗り換えた。

 大谷は素早く工藤の隣りの席をキープして、またまた今日の決戦について語っている。

 初めは適当に流していた工藤も、大谷の挑戦的な態度に次第に熱くなっていく……。


『変なヤツラダナァ』


「あっ、おじさん!」


 突然ポケットの中から顔を出すおじさんに、優衣は異常なまでにびっくりしてしまう。


『完全ニ、ワタシノコト忘れてタデショ!?』


「忘れる訳ないじゃない」


 しらじらしく、優衣はおじさんに目配せをする。


「えっ、なーに?」


 ひそひそと話す優衣の声に、隣りに座っていた沙也香が反応する。


「な、なんでもないよ!」


 首を横に振りながら、優衣はさりげなくポケットを隠した。


「私、滑れるかなぁ」


「そっか。沙也香、初めてだもんねっ」


「うん……。大谷、教えてくれるかなぁ」


「教えてくれるよ! 相当、自信あるみたいだから」


「あーっ、優衣。ひとのことだと思って、適当に流してるでしょ!?」


「そんなことないよ! この、おニューのウェアとボードで、今日は頑張るんでしょ」


「うん」


「健闘を祈ってるから」


「ありがとう。やっぱり、優衣の応援が1番のパワーになる!」


「うん……」


 嬉しそうに優衣の手を握る沙也香。

 けれども優衣は、その細い手を握り返すことができない。


(沙也香、ごめん……。私、同じひと好きになっちゃった……)


 優衣は、大谷への想いをはっきりと認識した。

 誰にも言えない、伝えることのできない想いだということも……。


 沈んでいく優衣の気持ちとは裏腹に、バスの中のテンションは徐々に上がっていく……。

 目の前に、真っ白に迫りくる壮大なゲレンデが出現した。

 歓声が湧き起こり、乗客達はもう興奮状態に……。はやる気持ちを抑えながら、ただそこに停まるのを待つ。


 バスを降りるとすぐに、テンポのいい最新曲が流れてきた。

 軽快に滑る若者達、笑顔溢れる家族連れ、ホワイトクリスマスに酔いしれる恋人達。

 そこは、幸せそうな人達で賑わう白銀のパラダイス!


「着替えが終わったら、ここに集合ね」


 仕切りやの工藤の指示に従い、優衣と沙也香はロッカールームに向かう。

 更衣室に入ると、沙也香は個室に入って着替えを始めた。

 その隙に、人目の届かない温風ヒーターの脇におじさんをそっと下ろす。


『アッタカァ〜』


 幸せそうに、目を細めるおじさん。


「着替えてくるから、ちょっと待っててね」


『アイヨ』


 優衣も個室に飛び込んだ。

 急いで着替えを済ませ出てくると、沙也香は大きな鏡の前で自分の姿をチェックしている。


「おじさん、お待たせ」


 まわりを気にしながら、優衣は小声で話し掛けた。


『アッ、ワタシはココで待ってるから、楽しんできてオクレ』


「えっ、そんなこと言わないでよ! 最高の雪景色を、おじさんと一緒に見るんだから」


『イヤ、お気遣いナク』


「ダメ! 早く、いこ」


 素早くおじさんをポケットに入れ、沙也香と2人で外に出た。


「キャーッ、無理かもー!」


 沙也香は、立ち上がるのにも一苦労。とても滑れる状態ではない。


「取り合えず俺達は滑ってくるから、2人はここで練習してて」


(はぁーっ!?)


 最早、熱血バトルのことで頭がいっぱいになっている大谷は、仕切りやの工藤を説得してリフト乗り場に直行しようとしている。


「全く、なんで大谷が仕切ってんの!」


 不服そうに、その後ろ姿を眺める優衣。

 沙也香は淋しそうに、


「優衣も滑ってきたら。大谷が居ないんじゃ意味ないし……」


 そう言って、雪の上に座り込んだ。


(私まで滑りたがってどうすんの!)


 優衣は、つい熱くなってしまった自分を反省しながら沙也香の隣りに移動する。


「私も久しぶりだし、2人で練習しよ! すぐに滑れるようになるよ」


「……うん、そうだよね。私、滑れるようになりたい!」


 沙也香は、ボードを取り付けて立ち上がった。


 それから2人は、華やかなゲレンデの麓にて地味な練習を続ける……。

 その間、大谷と工藤が何度か通り過ぎていったが、勝負に夢中になっている為、完全に別世界に居た。


「少し休もっか」


「うん」


 優衣の提案に、沙也香も頷く。

 2人は、近くにあるレストハウスで休憩することにした。


 ゲレンデが一望できる窓際の席に座り、揃ってココアを注文する。


「あったか〜い」


 カップを両手で持って、嬉しそうに顔を近付ける優衣。


「ほんと、優衣はいつでも幸せそうだね」


 沙也香はフッと笑ってから、急に沈んだ表情を浮かべた。

 店内には、楽しそうな笑い声が響き渡っている。

 隣りのテーブルでは、小学生になるかならないかという女の子が美味しそうにオムライスを頬張っていた。


(うわぁ〜、ふわとろ〜……。お昼は絶対にオムライスにしよー!)


 既に昼食のメニューを考えている優衣に、沙也香は静かに話し始める。


「今日、本当は模擬試験だったの」


「えっ、大丈夫なの?」


「うん……。パパはわかってくれたんだけど、ママがね……」


「そっかぁ」


「今朝も、2人で言い争ってたから、もう黙って出てきちゃったの。まぁ、いつものことだから慣れてるんだけど」


 沙也香は悲しそうに、外の景色に目をやった。


「そっかぁ……。でも、うちの親だって、しょっちゅう喧嘩してるよ」


 優衣は、あっけらかんと微笑んだ。


「優衣のお父さんとお母さんも、喧嘩するんだ?」


「うん! でも、すぐに仲直りしてる」


「いいなぁ〜……。優衣のお父さんとお母さんって、私の理想の親かも」


「ほんと、普通の親だよ」


「普通の親に普通の子供……、普通の家庭に普通の食卓……。なんだか憧れちゃうな」


「もーっ、普通に憧れるのなんて、沙也香ぐらいだよ」


 呆れたように笑いながら、優衣はココアを飲み干した。


「最近、大谷にも、時々愚痴を聞いてもらってるの」


 沙也香の表情が、少し和らいだ。


「そうなんだぁ」


「うん! 美山が頑張ってれば、全てが良くなるよって言ってくれてる」


「へぇ〜、アイツ、そんな気の効いたこと言えるんだぁ」


「優衣とはよく衝突してるけど、本当の大谷は、優しくて頼もしくて……」


 もう聞きたくない! と優衣は思った。

 けれども、その事実からは逃れられない。


(そっか……。私の知らない間に、2人の距離は近付いてたんだね……。私、1人でバカみたい。何を期待してたんだろう……。もう終わり! こんな中途半端な想いは、早く終わらせなきゃ。って、別に何も始まってないかぁ……)


「私、大谷と出逢えてよかった♪」


「うん……」


 複雑な想いを隠しながら、優衣は笑顔で頷いた。


「ちょっと、化粧室に行ってくるね」


 すっかりご機嫌になった沙也香が、席を立った。その隙に、優衣は急いでポケットの中を覗く。


「おじさん、聞いてた?」


『キイテタ、キイテタ』


「なんだか、よくわかんないよー」


『サヤカは可哀想ダケド、チョット面倒の臭い子ダネ』


「う、うん」


『普通に憧れてるッテ、言ってたネ』


「本当かなぁ?」


『本当デショ』


 おじさんは、まわりを気にしながらゆっくりと顔を出した。


『ユイ! 普通ってのは、実は凄い事ナンダヨ』


「普通が! なんで?」


『普通とか平凡ってのは、刺激や変化がないからツマラナイと感じてしまうケド、ソコには計り知れない愛が溢れてるカラネ』


「愛?」


『マァ、多くの人間は、ソレを失った時に初めてソノ偉大さに気付くらしいケド』


「そっかぁ。確かに、お父さんとお母さんが居なくなったら、私生きていけないよ。あんな生意気な陽太でも、居なくなったら淋しいし……」


『デショ!』


「うん! おじさん、今日は冴えてるね」


『ワタシは、いつでも冴えてるヨ』


「はいはい……」


「ゆいちゃーん!」


 店の入り口で、工藤が嬉しそうに手を振っている。


「あっ、ひろ先輩」


『ユイチャ〜ン、ダッテ!』


 嫌みっぽく工藤の真似をしながら、おじさんはポケットの中に沈んでいった。

 そのままの勢いで、工藤はテーブルに近付いてくる。大谷も、そのあとに続いている。


「もう、美山さんも大丈夫でしょ。午後からは、4人で頂上を目指そうよ!」


「あっ、はい」

(ヤッホー! やっと滑れる)


 心でガッツポーズを決める優衣。


「その前に、お昼食べちゃおっか」


 工藤の提案に、優衣は大きく頷いた。


「私、オムライスにします!」


「えっ、もう決めてんの?」


 2人のやりとりを黙って聞いていた大谷が、呆れたように吹きだした。


「どんだけ食い意地張ってんだよ」


「じゃあ、大谷は絶対にオムライス食べないでよ」


「あっ、俺もオムライスにしよ」


「もーっ!」


 そのまま席に着き、4人でオムライスを食べると、今度は4人揃って頂上に向かうことにした。


 まずは、頂上へと繋がるペアリフトの列に並ぶ。


「美山さんは初めてだから、じゅんぺーと乗ってね! 俺は、ゆいちゃんと」


 沙也香と入れ替わり、優衣の隣りで微笑む工藤。


(やっぱ、そう来たかぁ……)


 予想通りの展開に、優衣は若干うんざりしたが、一応愛想笑いをしてみせる。


 係員と大谷に支えられて、沙也香がリフトに乗った。

 後ろで待っていた優衣は、その光景に少し胸が痛む……。

 そして、優衣と工藤も次のリフトに乗った。


「女の子とこれ乗るの初めて!」


 白々しく、工藤が大袈裟に喜んでいる。


「え?」


 呆れきった目で、優衣は工藤を見た。


「あっ、信じてないでしょ?」


「はい」


 笑顔で答える優衣を、工藤は嬉しそうに見つめている。


「それにしても、じゅんぺー達ちょっと離れ過ぎじゃない?」


 前を見ないようにしていた優衣も、リフトの端と端に座っている2人の背中に目をやる。


「ゆいちゃんも危ないから、もっとこっちにおいで」


「あっ、大丈夫です!」


 更に端に寄り、横の手すりにしがみ付く。

 工藤は、警戒する優衣を豪快に笑いながら携帯を開いている。


「おじさん……」


 気付かれないように、優衣はそっとポケットを開いた。


『ウッ、眩シー! 目ガッ…』


「どうしたの?」


『目ガ、ヤラレルッ! 早く、閉めてオクレッ』


 おじさんは、手のひらで顔を覆ったまま動かなくなってしまった。

 笑いを堪えながら、人差し指でおじさんの頭をつっ突いてみる。


『痛ッ! 何スルンダヨッ』


 迷惑そうに優衣を見上げながら、おじさんがポケットの中からゆっくりと顔を出す。


『オーーッ!!』


 おじさんは、目を見開いて声をあげた。

 頭のすぐ上に、霧のような真っ白い雲が広がっている。その隙間からは、鮮やかな青い空が見え隠れしている。


『美クシー!』


「おじさん、下も覗いてみて」


 ポケットから身を乗り出し、視線を下ろすおじさん。


『ヒェーーッ! 落チル、落チルッ』


 足元には、吸い込まれてしまいそうな純白の大地がどっしりと構えている。


「大丈夫! しっかり捕まえてるから」


 絶対に落ちないようにと、おじさんの体を右手でギュッと掴む。


『凄イ! 凄スギルーッ』


 その美しい景色に魅せられ、おじさんが瞳をキラキラと輝かせている。


「地球って凄いよね」


『コノ星は、素晴ラシーッ!』


 大自然をいっぱいに感じながら、2人は同じ感動に浸る……。


「ゆいちゃん、大丈夫?」


「えっ!?」


 携帯を握ったまま、工藤が優衣の顔を覗き込んでいる。


「えっ! あっ、大丈夫です」


 おじさんを隠しながら、にっこりと微笑む。


「いいなぁ、ゆいちゃんのその笑顔」


「えっ、本当ですか?」


「本当だよ! みんな言ってるよ」


(まじで! みんな〜?)


 相当、浮かれだす優衣。


『ユイは、バカダナァ』


 軽蔑するように、おじさんは優衣を見上げている。


「ゆいちゃん! 俺の彼女になってよ」


 突然、工藤が真顔になった。


「えっ! だって、ひろ先輩、彼女居るじゃないですか」


「はっ?」


「綺麗な彼女が、いつもMバーガーに来てるじゃないですかぁ」


「あ〜っ! あの子は友達だし、ゆいちゃんの方が断然綺麗だよ」


「そんなぁ〜っ」

(さすが、チャラ男! 軽過ぎるっ)


『ハーッ! バカバカシーッ』


 おじさんは、苦笑する優衣と視線を交わしながら眉間にシワを寄せた。


「そうだ! ゆいちゃん、写真撮ろうよ」


「えっ!」


 工藤は、自分の携帯をカメラモードに設定し始めた。


「ゆいちゃんとの2ショット、待ち受けにするから」


「えぇーっ!」


「ほら、入らないからもっとこっちに寄って」


 馴れ馴れしく、工藤が優衣の肩に手をまわす。


『ユイ! 離れナサイッ』


「いやっ、それはちょっと……」


 工藤から離れようとする優衣。


「いいじゃん、いいじゃん! 1枚だけ」


『ユイ! コイツヲ突き落トセッ』


 工藤が、優衣の肩を抱き寄せる。


(もーっ、なんなの! 馴れ馴れし過ぎるよ)


「だから! 嫌だって言ってるでしょ!!」


 体を避けながら、工藤の腕を振り払った。

 その勢いで、

 なんと、

 工藤の黒い携帯が、

 山林地帯の深い雪の中に落下!


「えっ!?」

『ヘッ!?』


 驚く優衣とおじさん。

 そのあとを追うように、工藤が叫ぶ。


「うぉーーーっ!!」


 携帯を追うかのように、工藤はリフトから身を乗り出した。


「ひろ先輩、危ない!」


 とっさに叫んだ優衣の声で、工藤は我に返る。

 決して、飛び降りることのできないその高さに気付く。


『プッ、プププッ…』


 焦りまくる工藤に、吹きだすおじさん。


「ひろ先輩! 取り合えず終点まで行って、ここまで滑って戻るしかないと思います」


「そっ、そうだな」


「あの場所をしっかり覚えておきましょう」


 振り返り、2人は位置を確認する。


「うんうん! 熊落としコースとファミリーコースが交差したところから、20m上がってきたところだな」


「いえ、30mはあると思います」


「そうだな。30m上がってきたところだな! よしっ」


 工藤が目指す場所は、もはや頂上ではなく……。あの恐ろしい携帯落下地点に変更されていた。


「ひろ先輩……、すみませんでした」


「いや、俺が悪いんだよ」


 申し訳なさそうに優衣が謝ると、工藤の顔色はようやく元に戻ってきた。


『ソーダソーダ、コイツがいけないンダヨッ』


 おじさんは、半分顔を出して工藤を睨みつけている。


「いえ、私が乱暴過ぎました」


「いや、俺が強引に迫ったから……」


 自分の行動を反省しながら、工藤が照れくさそうに笑う。

 そうこうしているうちに、頂上が見えてきた。

 機嫌の悪いおじさんをポケットにしまい込んで、降りる準備を整える。


 前のリフトが頂上に到着する。大谷は、得意げに気取りながら着地。

 沙也香はコースを外れてしまい、緩やかに転倒してしまった。

 傍に居た係員達が、急いで沙也香の元に駆け付けている。

 工藤は急いで着地すると、


「じゃ、ゆいちゃん! あとを頼むね」


 そう言い残し、フルスピードで下りていく。


「え? ひろせんぱい!」


 目の前を通過していった工藤に、キョトンと驚く大谷。あとから来た優衣が、事情を説明する……。

 全てを理解した大谷は、大笑いしながら雪の上に寝転がった。沙也香はまだ、係員と共に苦戦している。


 見晴らしのいい頂上に座り込み、ボードを取り付ける2人……。


「早川優衣、勝負の時が来たな」


 やる気満々の大谷が、優衣を見てニヤついている。


「はっ!?」


「まっ、一応女子だから、ハンデを10秒やるよ」


 挑戦的な顔で立ち上がり、ボードを雪に馴染ませるようにキュッキュッと音を立てている。


「別に、ハンデなんて要らないし」


 優衣も次第に熱くなる……。


「先に麓に辿り着いた方が勝ちだからな」


(全く、勝負勝負って……。頭の中、それしかないわけ!)


 優衣は、座ったまま後ろを振り返った。沙也香は係員に支えられながら、淋しそうに2人を見つめている。

 その視線にハッとした優衣は、大谷から少し離れた。


「じゃ、行くぞ! よーいっ」


 大谷がスタートを切ろうとした時、優衣は慌ててその流れを止めた。


「何言ってんの! 沙也香は今日初めてなんだよ。置いていける訳ないでしょ!」


「……えっ! あっ、そっか」


 大谷が、完全に忘れていた沙也香の方を振り返る。


「大谷、ボードは相当自信あるんでしょ」


「まぁな」


「それなら、沙也香に教えてあげてよ」


 雪を払いながら、優衣も立ち上がった。


「えっ、俺が?」


 大谷が、混乱したように優衣を見る。


「じゃ、私は、先にひろ先輩のところに行ってるから」


「はっ!?」


 沙也香に目配せをしてから、納得できていない大谷に背を向ける。方向を変えて、一気にボードを滑らせた。


「おじさーん! 危ないから絶対に出てこないでねーっ」


『アイヨーッ』


 念を押すように叫んでから、徐々に加速していく。

 ゴーゴーと耳に響く冷たい風を切りながら、優衣は1人の世界に入っていく……。


(私は、平気!)


 そう言いたいのに、

 後ろに居る2人が気になって、胸が苦しくなる。


(大谷のことなんて、どうでもいいし)


 そう思いたいのに、

 大谷の声や笑顔が離れない。

 優衣は、大谷への想いでいっぱいになる自分を消し去りたいという一心で、その場を離れることに必死になっていた。


 ザーーッ! ザッザッザッ、ガッガガッ‼︎


「ちょっと待てよ!」


 先回りした大谷が、優衣の腕を掴んでボードの勢いを止めた。


「ギャッ‼︎ もーっ、危ないじゃん!」


 強がる優衣に、大谷は優しく歩み寄ろうとする。


「あっ、悪い。 でも、先に行くなよ!」


「もう、なんで来ちゃうの! 沙也香置いてきちゃダメじゃん」


「なんだよ! じゃっ、3人で滑ろうぜ!」


 振り返ると、置き去りにされた沙也香が、今にも泣きだしそうな顔で睨み付けている。


(親や進路のことで壊れてしまいそうな沙也香の心を、大谷が支えている……。そんな大谷への真っすぐな沙也香の想いを、私だけが知っている……。私は……、私は2人を応援しなきゃ!)


 優衣は、込み上げてくる全ての感情を静めると、得意の笑顔で言った。


「大谷、沙也香をよろしくね」


 大谷の腕をそっと払って、そこからまた勢いよく滑りだす。


 何もかもから逃げだすように……、

 スピードを思いっきり上げて……。

 速度が増していくのと同時に、抑えていた感情が溢れだす……。

 堪えていた涙が、こぼれ落ちる……。

 どうしようもないくらい、大谷への想いでいっぱいになってしまう……。


「もーっ、なんで追いかけてくるの! ヒック……」


「優しくしないでよ! ヒック、ヒック……、エェーーン……」


 白い世界の中で、優衣はただ1人泣き叫ぶ。

 強い風の音が、大きな悲しみを優しく受け止めてくれる。


(大谷は、沙也香の大切なひと! 大谷は……、大谷はただの友達!)


 何度も何度も自分に言い聞かせ、今までに感じたことのない速さでボードを滑らせる。

 もう、スピードも涙も止まらない……。

 流れる冷たい涙で、凍ってしまいそうになる頬と心。

 次から次へと溢れる涙で、前が見えなくなる。


 泣きじゃくる優衣の声をポケットの中でじっと聞いていたおじさんは、もう耐えられなくなってしまった。

 もの凄いスピードを感じていた。

 とても危険な状態だということもわかっていた。

 けれども、それ以上に優衣の悲しみが気になってしまい、おじさんはとうとうポケットから身を乗り出してしまった。

 その時、

 涙で霞んだ優衣の視界を遮るように、誰かが目の前を横切った。


「キャーーーッ!!」


 バランスを崩し、派手に転倒する優衣。

 その体は宙に舞い……、ポケットの中に居たおじさんは、外に放り出されてしまった。


『ユィーーー……』


 遠ざかっていくおじさんの声。

 雪山に投げ出されても、その勢いは止まらない。

 流れに逆らうことも、抵抗することも出来ず、そのままただ滑り落ちていく……。


 やがて、何かの力が加わり……、

 その激しい勢いから、ようやく解放された。


「だいじょぶーっ!」


 滑り落ちてくる優衣を発見した工藤が、体を張って止めてくれていたのだ。

 放心状態の優衣からは、言葉が出てこない。


「ゆいちゃん! 怪我してない!?」


 徐々に意識が戻ってくる中で、自分の体を確認する。


「あっ、はい、大丈夫です」


「あーーっ!」


 優衣が応えるのとほとんど同時に、驚いた工藤が後ずさりしながら声をあげた。


「ゆいちゃん、大変だよ! 顔が」


「えっ!?」


「顔が、凍傷になってるっぽい」


 優衣は、自分の顔に手を当てその状態を理解した。

 泣き腫らした真っ赤な顔……。工藤には、それが凍傷に見えるらしい。


(ひろ先輩が鈍感な人でよかったぁ)


 優衣は、少しホッとした。


「とにかく休憩所まで下りよう! ゆいちゃん滑れる?」


「はい。あっ、ひろ先輩、携帯は?」


「それが……、無事に救出したんだけど、電源が入らないんだよ」


 取り出した携帯を吐く息で温めながら、情けない顔で笑う工藤。

 その顔がなぜかおかしくて、優衣は思わず吹きだしてしまった。

 工藤も、真っ赤な顔で笑う優衣を見て、お腹を抱えて笑っている。


「ひっどーいっ」


「ゆいちゃんだって笑ってんじゃん」


 お互いを笑い合いながら、休憩所まで下りていく。


「はいっ、とにかくこれでその顔を少しあっためるといいよ」


 工藤が、湯気の上がっているお絞りを広げながら手渡した。


「すみません……」


 それを受け取り、顔全体に当てる。


「あったかぁ〜い」


 暖かさが、じんわりと沁みてくる……。

 同時に、止まっていたはずの涙が、また熱く溢れだしてしまう。


(もう、泣いちゃダメ! ひろ先輩にバレちゃうよ)


「ゆいちゃん、帰ろっか」


 工藤の言葉に、顔を覆ったまま戸惑う優衣。


「じゅんぺー達には、ラインしとけばいいよ。あっ、そっか」


 自分の携帯に反応がないことを思いだした工藤は、頼む! と念を入れながらポケットから取り出した。


「おーっ! 復活してるー」


「えっ」


 優衣は思わず、覆っていたお絞りから顔を覗かせてしまった。


(まずい! 泣いてる顔見られた)


 目が合ってから、すぐに下を向く……。

 そんなことには気付いていないかのように、工藤が明るく振る舞う。


「まだ、赤いなぁ……。新しいお絞りもらってくるね」


 そう言って席を立った。


(ひろ先輩、本当は私が泣いてることに気付いてたんだ)


 工藤の優しさが、弱っている優衣の胸に沁みる……。


 それから2人はそれぞれに帰る支度を済ませ、スキー場のバス停に向かった。


 駅へと戻るバスに乗ろうとした時、優衣の携帯が鳴った。


(沙也香……)


 なぜか、電源を切ってしまう。


「さすがに、まだ空いてるねぇ」


 工藤は嬉しそうに、後部の2人座席に飛び込んだ。


 そんな工藤の明るさで、優衣にも少しずつ笑顔が戻る。


 太陽が少しだけ西に傾いた時、2人は、まだ楽しく賑わう真っ白いゲレンデをあとにした。


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