蘇る感覚

 新作、グレーのニットに袖を通し、優衣は満足そうに鏡の前に立っている。


「おじさん、行こ」


『アイヨ』


 おじさんも一応、いつもより念入りに髪を整えている。

 ワインカラーのブルゾンを羽織り、そのポケットにおじさんを忍ばせて玄関のドアを開ける。


「うわっ、おじさん見て!」


『オーッ、眩しーっ!』


 どこまでも高く続く青い空に、飛行機雲が幾つもの大きなラインを描いている。


『素敵な空ダネー』


「気持ちいいねー」


 おじさんとの外出に胸を弾ませ、2人でバスに乗る。


「おじさん。次の停留所で、瑞希が乗ってくるからね。気を付けてよ」


『アイヨ』


 バスが停まると、おじさんは頭まですっぽりとポケットの中に隠れた。

 開かれたドアからは、瑞希が嬉しそうに飛び乗ってくる。


「おっはよーっ」


「おはよ。あっ、瑞希、それ!」


 瑞希は、雑誌に載っていたキャメルのジャケットを着ている。


「ヘヘッ、買っちゃった。優衣も可愛いじゃん!」


「えっ、そーお?」


『プッ…。ジブンデモ、カワイイッテイッテタクセニ』


 ポケットの中で、おじさんがバカにしたように吹きだしている。


 駅前に到着すると、清楚な服装をした沙也香と合流。そこから更に電車を乗り継いで、目的地に向かう。

 空港に直結している大規模な駅に、3人は降り立った……。

 賑やかな大通りを通り抜け、キラキラと煌めく黄金色の並木道を並んで歩く……。


「ねぇ、瑞希は深沢のどこが好きなの?」


 不快そうに、瑞希の顔を覗き込む優衣。


「う〜ん、そうだなぁ……。友達思いで優しいところかなぁ」


「えっ、深沢が優しい?」


 思わず優衣は、怪訝な表情を浮かべてしまった。


「えっ、なんで? あっ、もしかして優衣、嫉妬してんの?」


 余裕の笑みを浮かべて、瑞希が優衣を見る。


「それは絶対にないから、安心して!」


 そんな2人のやりとりを、沙也香は笑いながら眺めている。


『プッ』おじさんも、笑いを堪えて揺れていた。


 優しい木漏れ日の中に響き渡る、3人の楽しそうな声……。

 やがて、それらしき建物が見えてきた。


「あっ、あれじゃない!」


 瑞希が、褐色のビルを指差す。沙也香は、持っていた案内書を確認した。


「そうみたい」


 勢いよく走りだす3人。2階の特設会場へと急ぐ。


 佳作……、佳作……、佳作……、佳作が続く。


「凄いね」

「うん」


 静けさの中で、優衣と瑞希は深いため息をつく。


 特別賞……、特別賞……、優秀賞……、“優秀賞 美山沙也香”


「あったぁーっ!」


 3人揃って、沙也香の絵に走り寄る。


 堂々と掲げられているその作品を見た瞬間、優衣は言葉を失った……。


 大きなキャンパスには……、優衣達が毎日手掛けている、あの学校の花壇が広がっている。

 色鮮やかに……、生き生きと……。そしてなぜか、やるせない沙也香の想いのように、もの悲しく……。


 沈黙を破ったのは、瑞希だった。


「沙也香さぁ、本当は美大に行きたいんじゃない」


「えっ!」


 その言葉で、沙也香の顔色が一気に曇る。


「進路室で、沙也香が桜花おうか美大を調べてるとこ見ちゃったんだ」


「何言ってるの! 美大なんて、行きたい訳ないじゃないっ!!」


 キレる沙也香に、他の観客達の冷たい視線が集中する。


「本当の気持ち隠してていいの? 私、沙也香のそういうウジウジしてるとこ大っ嫌いっ」


 瑞希は沙也香に、決定的な一言を言ってしまった。


(うそっ!??? 最悪ーっ! まじで修羅場なんですけどーっ)


 どうしたら良いのかわからずに、優衣はとりあえず2人の間に入った。


「瑞希、それはちょっと言い過ぎ……」


 薄っぺらい言葉の途中で、沙也香の声が重なる。


「瑞希、ありがとう」


(えーっ!???)


 優衣は、耳を疑った。

 瑞希も唖然としている。


「瑞希の気持ちは嬉しいけど、でも、もうその話は止めて」


 沙也香は悲しそうに、自分の絵を見つめた。


「ごめーん、ちょっと言い過ぎた……。私、トイレに行ってくる」


 1人でその場を離れる瑞希。優衣は、頷くことしかできない。

 その時、沙也香の携帯が鳴った。


「あっ、ちょっとごめんね」


 携帯を握りしめ、沙也香が急いで会場の隅に移動していく。

 辺りを気にしながら、優衣はブルゾンのポケットを覗き込んだ。


「おじさん!」


『アイヨ』


 おじさんは、ひょっこりと顔を出した。


「見て見て、これが沙也香の絵だよ」


『オーッ! ユイ達のお花畑じゃナイカァ』


 夏休み、優衣が花壇の水やりに行くのに、おじさんは何度か便乗していた。この花壇は、おじさんのお気に入りの場所でもある。


『本物みたいダナァ』


「うん、ほんと……。沙也香って、やっぱり絵の才能があるんだね」


『サヤカは、才能があるんダナァ』


 感心しながら、2人揃って同じ絵を見つめる……。


「優衣ーっ、ありがとーっ」


 沙也香が嬉しそうに戻ってくると、おじさんは慌てて頭を引っ込めた。


「大谷とラインしてたの。“優衣達と絵を見に来てる”って送ったら、“おめでとう”って」


「へぇ〜、いいとこあるじゃん」


「うん。最近、必ず返してくれるようになったの。優衣が返信するように、大谷に言ってくれたんだってね」


「あ〜、言ったというか、弾みというか」


「私、大学なんて、もうどうでもいいの! 大谷が傍に居てくれれば、どんなに辛いことだって耐えらるような気がする」


「……そっか」


 あっさりと応えたが、優衣の心はざわついていた。


(沙也香の幸せを一緒に喜んであげなきゃ。思いっきりの笑顔で、よかったねって言ってあげたいのに……。笑顔って、どういうふうに作るんだっけ?)


 沙也香と別れてから、瑞希と2人でまだ空いているバスに乗った。

 中央にある2人用の座席に並んで座る。


「私さぁ、もう沙也香には何も言わない」


 瑞希が、ため息混じりの声で呟いた。窓からは、やわらかい西陽が射し込んでいる。


「そっかぁ…」


「優衣、なんかあった?」


「えっ、なんで? 別に何もないよ」


「それならいいけど……。じゃあ、明日ね、バイバイ」


「バイバーイ」


 次の停留所で、優衣もバスを降りる。


「あっ、綺麗! おじさん見て、凄ーく綺麗だよ」


 おじさんは、ポケットの中から顔を覗かせた。


『オーッ! ユイ、空が赤いネ』


「うん……」


『ユイ、悲しいのカイ?』


「えっ、どうして?」


『ユイの瞳も赤いネ』


「……おじさ〜んっ」


 おじさんはもう何も言わずに、夕焼け空をうっとりと見つめている。

 優衣は涙がこぼれないように、その空を見上げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る