厳しい現実

『ユイ、ユイ!』


「う〜ん、zzz……」

(くすぐったぁい……。耳が、くすぐったいよ〜っ)


 熟睡している優衣の耳元で、おじさんが呼び続けている。


「も〜、くすぐったい、よーっ!」


 勢いよく優衣が寝返りを打つと、枕の上に居たおじさんはベッドに転落。


『イタタタッ!』


 今度は優衣の頭をよじ登って、おじさんが再び名前を呼ぶ。


『ちょっと、ユイ!』


(えっ、誰か呼んでる?)


 重い瞼を少し開けてみると、額の上から覗きこんでいるおじさんと目が合った。


「んっ!? ……ギャーーーッ!!」


 悲鳴に近い声をあげ、勢いよく起き上がる優衣。

 おじさんはまた払いのけられ、今度は床に落下。


『ウ〜、イタタタ、モー駄目ダ』


 完全にノビてしまった。


「あっ!」


 その姿にハッとして、優衣はようやく目が覚めた。


『酷いジャナイカァ』


 腰を押さえながら、ゆっくりと立ち上がるおじさん。


「ごめんなさ〜い、ふぁ〜っ……」


 優衣はあくびをしながら両手を上げて、身体を思いっきり伸ばした。


『ソンナ事より大変ナンダヨ! ワタシの部屋が、何者かによって荒らされてルンダッ』


「えっ!?」


 起き上がって、本棚を覗いてみる。


「あぁ、これは……、弟の陽太が、お父さん達に見つからないようにっておじさんを隠してたの」


『隠しテタ? ナルホドーッ! ワタシはてっきりカラスの野郎の仕業だと思ッテ……』


「カラスは入ってこれないから安心してっ。あっ、私、学校に行く支度しなくちゃ」


 急いで部屋のドアを開けて、廊下に出る。


 シーーーン……。


 なぜか、家の中は静まり返っていた。


「えっ! ちょっと、今何時?」


 振り返って、開けっ放しになっている自分の部屋の時計を確認する。


「ご、5時ーーーっ!?????」


 すぐに部屋に戻り、優衣は再びベッドに潜り込んだ。


「ちょっとおじさん、まだ5時じゃない! もう少し寝るから起こさないでね」


 おじさんは自分の部屋に戻って、カリッカリッと軽快な音を立てて角砂糖を食べている。


『ユイ、アリガトー。コレは、最高級品ダナ』


「う〜ん、zzz……」


 それから優衣は、2時間ほど眠り続けた……。その間に、律儀な陽太がおじさんに挨拶をしに入ってきていたが、意識はなかった。


 やがて、いつもの慌ただしい朝に……。


「おじさん! お母さんが入ってきたらすぐに隠れてね」


『アイヨ』


 おじさんは窓の外を眺めながら、後ろ姿で優衣を見送った。


 *


 ピーカーーッン!


 昨日の荒れた天気が嘘のような真っ青な空を、夏雲が気持ちよさそうに泳いでいる。


「優衣! 今日からバイトでしょ!? あとは私がやっておくから」


 水が噴射しているホースを受け取ろうとする沙也香。

 放課後、校庭の花壇に水をあげるのも環境委員の仕事の1つである。色とりどりの花に繋がる水のアーチが、キラキラ光る七色の虹を映しだしている。


「大丈夫、水やりの時間はちゃんと計算してあるから。沙也香だって、今日はアトリエでしょ?」


「まぁ、そうだけど。私はまだ時間に余裕があるから」


 沙也香の両親は、どちらも医者。

 1人娘の沙也香は将来も有望だと期待され、塾に家庭教師、更には英会話教室……。一週間のスケジュールは、ビッチリと組み込まれている。

 ただ、週に一度、沙也香の強い希望で、絵画教室アトリエに通えるようになった。


 今日は、そのアトリエに行く日。だから、沙也香は機嫌がいい。

 そして優衣も、今日はMバーガー初出勤。

 夢と希望に包まれ、授業中も休み時間も心はうわの空……。


(イケメン2人かぁ♪)


 水やりの仕事を終えると、逸る気持ちでMバーガーへと向かった。


 *


「こちら、早川優衣さん」


 店長が、作業中の従業員1人1人に紹介してくれる。


「よろしくお願いします」


 緊張しながらも、丁寧に挨拶をする。


 その時、1人の男が飛び込んできた。


「おはようございまーす!」


 自然に、その声のする方を振り返る……。


「あれ、早川優衣!」


「お、大谷ーっ!?」


「あれれー、お知り合い?」


 2人を交互に見る店長。


「おう! じゅんぺー、ちょうどよかった。早川さんにタイムカードとロッカー教えてあげて」


「えーっ、店長! 新しく入ってきたちょー可愛い子って、もしかして早川優衣?」


「そっ。ちょー可愛いだろ」


(ちょー可愛いだなんて……、そんな〜っ♪)


 店長の褒め言葉に、優衣は有頂天になる。


「まじかよ! 俺、ちょー期待してたのに」


 そこで、優衣は気付いた。


(ってことは、イケメン2人の内の1人が大谷? ぎぇーーーーっ!!)


「こっちこそ! がっかりだわっ」


 2人の間に、険悪な空気が流れる。


「まぁまぁ、とにかく混み合う前に一通りのこと教えてやって」


 大谷の肩をポンっと軽く叩いて、店内に入っていく店長。


(まじかぁ。大谷に教えてもらうなんて、プライドずたずただよ)


 納得のいかない現状を、優衣は素直に受け入れることができない。


「こっち……」


 無愛想な大谷に、無言で付いていく。


 従業員専用の部屋に入ると、大谷は自分のタイムカードと無記名のタイムカードを続けて差し込んだ。


「はいっ、これ名前書いて」


「…………」


 差し出されたタイムカードを、無言で受け取る。


「なんか、怒ってる?」


 優衣の顔を覗き込む大谷。


「別に……」


「やっぱ、怒ってんだろ!?」


「あのねーっ! あんな公衆の面前であんなふうに侮辱されたら、誰だって気分悪くなるでしょ」


「大げさだなぁ、冗談じゃん。それに、そっちだって言いたいこと言ってただろ!」


「それは……、大谷が言うからじゃん!」


 どっちも引かない言い争いを続けている最中、背後のドアが勢いよく開いた。


「じゅんぺー! 新しく入ってきた子、どんな感じー!?」


 そう叫びながら、また1人の男が飛び込んできた。


「あっ、ひろ先輩! こいつ、早川優衣」


 大谷による簡単な紹介が終わると、ひろ先輩と呼ばれるその男は、思いっきりの笑顔で優衣に握手を求めてきた。


「ゆいちゃーん、よろしくーっ」


(うわっ、チャラーい!)


「あっ、よろしくお願いします」


 心の内を悟られないように、一応その手に応える。


「俺、星隆校3年の工藤くどうひろ。まじで可愛いね〜♪」


(星隆校ーーっ!! イケメンのもう1人っ!??? 終わった……)


 優衣は静かに、思い描いていた恋物語の幕を引いた。

 そのあと、異常な程明るい工藤は、その場で着替えを始めた。


「あっ、ゆいちゃん、ロッカーはそこね。制服は中に入ってるけど、女子はこの奥の更衣室で着替えてね」


「はい、ありがとうございます」


 着替えが終わった工藤は、引っ掛けていた靴をトントンと履きながら店の中へと消えていった。


「書いた?」


「あっ、うん」


 優衣が手渡したタイムカードを、ラックに戻そうとする大谷。


「あれ、一番上しか空いてねーじゃん」


「本当だ」


「届くか?」


「届きます!」


「いや、無理だろー」


「全然、大丈夫っ」


 大丈夫ではなかった……。

 身長156cmの優衣にとってその場所は、背伸びをしてやっと届くという高さである。

 身長180cm以上ある大谷はそのカードを簡単に抜き取ると、自分のカードと置き換えた。


「入店時刻ってのは、1分1秒を争うからな」


(へぇーっ? そんな気を遣ってくれるなんて、意外……)


 優衣は、少しだけ肩の力を抜いた。


「大谷がここでバイトしてるなんて、全然知らなかった。いつからやってたの?」


「1年の夏ぐらいからだったかなぁ……。まぁ、尊敬すべき先輩ってことだな」


「はいはい……」


 それから優衣は、店長から接客の指導を受け、憧れていたカウンターに初めて立った。


「いらっしゃいませ、ハンバーガーとコーラですね」

(キャーッ! 私、Mバーガーのお姉さんじゃーん♪)


 イケメン2人は大きく外れたけれど、取り合えず初日はいい感じで終わった。


 *


 帰りのバスに乗る頃には陽も完全に落ち、駅前の商店街がライトアップされていた。


「ふぅーっ、もう足がパンパン」


 空いている席に座り込み脹らはぎをさすっていると、突然目の前に仕事帰りの父親が現れた。


「あっ、お父さん!」


「若いんだから立ちなさい!」


「はぁい……」

(きっつーい!)


 仕方なく立ち上がり、父親と並んだ。父親は流れる汗をハンカチで拭いながら、窓の向こうに流れる夜の景色を嬉しそうに眺めている。


「お父さん、いつもこのバスに乗ってるの?」


「いや、こんな早いバスに乗ることは滅多にないなぁ……。ほとんどが最終だよ」


 そしてまた、流れる汗を拭う……。


「あっ、そうそう! 私、駅前のMバーガーでバイト始めたから」


「なんだ! 聞いてないぞっ」


「あっ、今日からだから」


 呆れる父親と一方的な娘の会話は続き……、バスは家路を辿る。


 紫色の香りのするバス停に降り立った時、優衣はようやく妖精のおじさんの存在を思いだした。


「あーーーーーっ!!」


「どうした!?」


 優衣は、父親には内緒だったことも思いだした。


「ううん、なんでもない」


「いきなり大きな声を出すんじゃない!」


「はぁーい……」


 驚いた父親から流れる汗は、もう尋常ではない。


「ただいまーっ」


 すぐに2階へと駆け上がり、おじさんの居る本棚を覗き込む。


「あれっ、居ない……」


 部屋の中を見渡してみるが、おじさんの姿はどこにも見当たらない。


「どこに行っちゃったのーっ」


 廊下の隅々まで、必死に探しまくり……。そのまま、陽太の部屋のドアをノックした。


「陽太、大変! おじさんが居ないんだけど」


 ドアを開けると、ベッドの上でうつ伏せになっている陽太が目に入った。

 1人でオセロゲームと向き合っている。と、思ったら……、オセロゲームのボードの上におじさんが! 黒と白の石を3つ重ねて、その上に腕を組んで座っている。


「おじさーん!」


『アッ、ユイお帰りー』


「ちょっと陽太! おじさんは、あんたの遊び相手じゃないんだよ」


「別にいいじゃん! おじさんは姉ちゃんのものなのかよっ」


「当たり前じゃん! 私が連れてきたんだから」


「何、言っちゃってんの! おじさんは妖精だぜ⁉︎ 姉ちゃんだけのもんじゃねーよ」


「ったく……。いつから、そんな生意気なヤツになっちゃったの!」


 姉と弟の、言い争いが始まった。


『イヤァ、ワタシはどうしたら良いのカナァ?』


 おじさんは照れくさそうに、頭をポリポリと掻いている。


「優衣ーっ! 早くご飯食べちゃいなさーい」


 揉める2人を遮るかのように、母親が1階から声を張り上げている。


「ほらっ、早く行け! シッシ」


 陽太に軽くあしらわれ、ムッとする優衣。


「もう! あと少しだけだからね」


 捨てゼリフを残し、リビングへと下りていく。


 父親と母親の小言を聞き流しながら、慌ただしく箸を運ばせ……。


「ごちそうさま」


 早送りで夕飯を済ませると、食器棚に走り寄り角砂糖をサッとティッシュに包んだ。ポケットに詰め込んで、陽太の部屋に急いで戻る。


 オセロゲームの決着はついていたようで、おじさんと陽太は楽しそうに語り合っていた。


「何、話してんの!?」


「あっ、おじさん……。姉ちゃんには内緒だよ」


『アイヨ』


「感じ悪ーい! おじさん、もう部屋に帰ろっ」


『アイヨ』


 優衣は、揃えた両手のひらの上におじさんをそっと乗せた。


「おじさん、おやすみーっ」


 満足そうにおじさんを見送る陽太。


『ヨータ、お休み』


 電気点けっぱなしの煌々と明るい部屋に戻り、おじさんを本棚の中にそっと下ろす。

 出窓のカーテンを閉めながら、優衣は今日1日の出来事をおじさんに話し始めた。


「もう参っちゃったよー。大谷がイケメンだなんて……」


『オータニは、イケメンじゃナイノカイ!?』


「まぁ、みんなはカッコイイとか言ってるけど、私はあんまり……」


 おじさんは珍しく眼鏡をかけて、石鹸箱で作った机に向かっている。


「ねぇおじさん、聞いてる!?」


『キイテル、キイテル』


「さっきから、何書いてるの?」


『コレ、報告書』


「へぇーっ! 妖精の世界にもそんなものがあるんだーっ」


『アル、アル』


 書き物に夢中になって、話を適当に聞いているおじさん。

 優衣はゆっくりとおじさんに近付いていき、大きな声で呼んでみた。


「お、じ、さあーーんっ!!」


『ヒャーーーッ!!』


 その声に驚いたおじさんは、3cmほど飛び上がった。


「あっ、ごめ、ごめんなさいっ」


 笑いを堪えながら謝る優衣。


『脅かさないでオクレ!』


 おじさんは、不機嫌そうに優衣を見た。


「じゃあ、私の話、真剣に聞いてよ!」


『キクヨ!』


 ムキになって座り直すおじさん。


「だからね、結局、期待してた素敵な出逢いはなかったのよー」


『残念ダッタネー』


 あっさりと話を終わらせて、再び書き物を始めた。


「そうだ! おじさんて妖精だよね?」


『ソッ』


 ペンを走らせながら、また、適当に応えている。


「だったらさぁ、恋とかも自由に操つれるんじゃないの?」


『ソレは、ワタシの管轄ではないカラネ〜』


「かんかつ!? へぇー、役割とか決まってるんだぁ……。じゃあ、おじさんの仕事ってなーに?」


 おじさんはペンを止めて、優衣の居る方に向き直した。


『ワタシは、心を逞しく成長させる妖精ダヨ』


「心を逞しく? なーんだぁ……、そんなのあんまり意味ないじゃーん! そうだ、恋愛関係に知り合いとか居ないの!? あの、魔法の粉とかもらえないの?」


『魔法のコナ? ユイは、面白い事言うネー。アーッハハーッ……』


 おじさんは楽しそうに笑いだした。


「私がおもしろい? おじさんの方が100倍おもしろいでしょーっ」


 おじさんに連られて、優衣もケラケラと笑いだす。


『愉快ダナァー、アーッハハハーッ……』


「なんだかよくわかんないけど、ちょーおかしくなってきちゃったぁー。キャハーーッ……」


 苦しいほどに笑い続ける2人。


「キャッ……、あっ、そうだ!」


 優衣は思いっきり笑いながら、ティッシュに包んだたくさんの角砂糖を取りだした。


『コーンナニ食べたら、太っちゃうヨッ』


「やだーっ、太ったおじさんなんてきもーいっ、キャハハーッ………」


 お互いに違うツボにハマってしまった2人の笑いは、もうどうにも止まらない。


「もー、苦しいよー! おじさんって最高‼︎ おじさん、ずっとここに居てねっ」


 おじさんは、お腹を抱えながら頷いた。


(ずーっとだからね……)

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