黒い雨 (後編)

 家の前まで来ると、屋根のあるポーチで一端立ち止まった。レインコートの水滴を軽く払ってからポケットを覗いてみる。


「おじさん、大丈夫ですか?」


『アァ、何とか……』


 家の中の様子を窺いながら忍び寄り、そーっとドアを開ける。


(やっぱり……)


 玄関では、仁王立ちの母親が待ち構えていた。


「突然飛び出して、どこに行ってたの?」


「えっ、あのっ、ちょっとバス停に……。なんか、忘れ物しちゃったみたいで……」


 白々しく、愛想笑いで応える。


「全く……、早くシャワー浴びちゃいなさい」


「はぁい」


 そのまま、バスルームに突進する。


「ちょっと、優衣ーっ! コートは脱いでいきなさい」


(そんなこと、できる訳ないじゃない)


 聞こえない振りをしてバスルームに飛び込み、ドアに鍵を架ける。

 すぐに、レインコートのポケットを開いておじさんの無事を確認した。


「おじさん、お待たせ」


『モーッ、力いっぱいに押さえつけるカラ、死にそうダッタヨ!』


 眉間にシワを寄せ、不機嫌そうに優衣を見上げるおじさん。


「あっ、ごめんなさい……」

(せっかく連れてきてあげたのに……。なんか、可愛くなーいっ!)


 不服そうに、優衣はおじさんから視線を逸らした。


「とりあえずシャワー浴びちゃうから、ここに居て下さい」


『アーイ』


 洗濯機の上にタオルを敷いて、その上におじさんをそっと乗せる。

 おじさんはクルリと背を向け、あぐらをかいて座った。


(一応、気を遣ってくれてるのかな?)


 おじさんの後ろ姿に微笑みながら、急いでシャワーを浴びる。

 濡れた体を簡単に拭き取ると、今度はパイル地のバスローブを素早く着込んで、そのポケットの中におじさんを隠した。


『モー、押し潰さないでオクレヨ』


「わかってます!」


 バスルームのドアを開けて、2階に走ろうとした。

 ところが、玄関の方から誰かが話す声が聞こえてくる。

 どうやら、弟の陽太ようたが彼女の夏月なつきを連れて帰宅したらしい。


 陽太は今、中学3年生。

 夏月とは幼なじみで、野球部のピッチャーとマネージャーという、まるでコミック雑誌定番のシチュエーション……。


 それはさておき、2階に上がるには、どうしても玄関を通らなければならない。

 優衣は、地味に進みながら様子を窺った。


「まぁ、なっちゃんは傘持ってたのにこんなに濡れちゃって! うちの子供達は、人様に迷惑を掛けてばかりで恥ずかしいわ」


 嫌みの込められた母親の言葉が突き刺さってくる。


「プッ、この雨で相合い傘? バカじゃない」


 身を潜めたまま鼻で笑う優衣。


ひがみカイ!?』


 おじさんは、ポケットからヒョッコリと顔を出した。


「もう、おじさんは隠れててよ」


 おじさんを睨みながら、この修羅場をどう乗り切るか考える……。


「なっちゃんが家に上がってきたら、結局鉢合わせしちゃうし……。もう、行くしかない!」


 強行突破を決意し、目力でおじさんを納得させる。


『ハイハイ』


 おじさんがポケットに入っていくのを確認すると、バスローブ姿で一気に走りだした。


「あっ、なっちゃーん!」


 一瞬だけ夏月に微笑みを送り、唖然とする母親や陽太を素早く通り過ぎ、すぐに階段を駆け上がる。

 自分の部屋に飛び込むと、ポケットを庇いながらベッドに倒れ込んだ。


「やった! 作戦、大成功!! おじさん、もう出てきても大丈夫だよ」


『ヤレヤレ……。モー、蒸れちゃっタヨ』


(感じ悪ーい! こんなに頑張ったのに……。連れてきたの失敗だったかも!?)


 優衣は、おじさんを連れてきたことを少しだけ後悔した。


 おじさんはポケットからピョコンと飛び出て、ちゃっかりとベッドに下りている。


「あっ、そうだ!」


 優衣は立ち上がり、ベッドの向かい側にある低い本棚に歩み寄った。

 1番上の段に並んでいる本を無造作に抜き出し、ベッドの下に重ねていく。そうして、空になった棚に水色のタオルを敷いた。


「ここがおじさんの部屋」


『ヘッ!?』


 ベッドの上でくつろいでいたおじさんは、その棚に目をやった。


『ワタシの、部屋?』


 瞳をキラキラと輝かせながら本棚に近付いていき、その角を器用によじ登っていく。

 そこに辿り着くと、寝っ転がってみたり歩きまわってみたり……。とても嬉しそうにはしゃいでいる。


 優衣はベッドに腰を下ろし、喜ぶおじさんの様子を楽しそうに眺めていた。


「ねぇ、おじさん……。おじさん達小人は、やっぱり森に住んでるの?」


 優衣の素朴な疑問に、荷物の整理を始めていたおじさんの動きが止まる。


『ヘッ、ワタシは小人じゃナイヨ』


「えっ!?」


『ワタシは、妖精ダヨ』


 そう言いきってから、また作業を始める。


「プッ、妖精って!? プププッ、えーーーっ!?????」


 激しく笑いだす優衣。お腹を抱え、足をバタバタと投げ出し、涙まで流しながら……。


『ソンナニ可笑しいカイ?』


「だってぇ、背中に羽もないし……。普通、妖精って綺麗で可愛くて……。もーっ、お腹痛いよーっ! キャハハッ」


 おじさんは、笑い転げている優衣の方を向いて座り込んだ。


『ソウイウ美しい姿の妖精も居るシ、ワタシのような姿をした妖精も沢山居るンダヨ』


「ほんとに!?」


『信じるか信じないかは、アナタ次第!』


「あっ、おじさん。私の名前は早川優衣! 優衣って呼んで下さい」


『ワタシの名前は、ヒィリップル.ハーパー.ウィリンジェル!』


「やだ、ウケるーっ! もう、何もかも笑えるしーっ」


 全身全霊、笑いも絶頂に達したまさにその時!

 なんと、閉めたはずの部屋のドアが、突然開いた。


「姉ちゃん、誰か居んの?」


 陽太の声で、部屋の空気が一瞬にして凍りつく。


(まじ⁉︎)


 驚き過ぎて、身動きがとれなくなってしまった優衣。固まったままおじさんに視線を向けると、おじさんも同じように固まっていた。

 幸い、ドアの位置からこの本棚の中は死角となっている。


「今、誰かと話してなかった?」


「えっ、やだぁ。携帯、携帯!」


 優衣は慌てて、傍にあった携帯を手に取った。


「それより、なっちゃんは?」


 視線をおじさんに向けたまま、後ろ姿で陽太に話し掛ける。


「夏月ならもう帰ったよ。送ってきたし」


「早っ。てっきりリビングに居るのかと……」


 陽太は、難しい表情で部屋の中をジロジロと見まわしながら、


「夕飯だから下りて来いって」


 用件だけを告げて出ていった。


「わかった。すぐ行く」


 振り返り、陽太の背中に向かって応える優衣。


「驚いたーっ」


『ソウカイ!?』


 おじさんは、すました顔で座っている。


(おじさんだって驚いてたくせに!)


 強がるおじさんに呆れながら、一応ドアの向こうを確認してから閉める。


「陽太の部屋は隣りだからね。やっぱりバレちゃうかなぁ?」


『ワタシは、バレちゃってもカマワナイヨ。ベツニ、やましいことをしてる訳ジャナイシ』


「いやっ、やましいでしょ! うん、間違いなくやましいよ」


 1人で納得しながらクローゼットを開き、優衣は着替えを始める。


「おじさん。食事を済ませたら、何か食べる物持ってくるからね」


『ワタシは、食べる物はイラナイヨ』


「えっ、何も食べないの!?」


『トキドキ、花の蜜や木の実をネッ』


「あっ、それは妖精っぽい」


『ソウダ!』


「どうしたの?」


『イヤッ、ヤッパリそれは厚かましいからイイヤッ』


「な〜に?」


 おじさんは体裁悪そうに、寝床を作り始めた。


「ねぇ、なーに!?」


『イヤイヤ、いいカラ』


「いいじゃん、言ってみてよ!」


 照れまくるシャイなおじさんが可愛くて、優衣はしつこく聞きまくる。


『ソウカイ? ソレナラ、言ってしまおうカナ』


「うんうん、何なに!?」


『デキレバ、アノ白くて甘〜い四角い形をしたアレが食べたいナァ』


「白くて、甘くて、四角!?」


 スウェットの紐を結びながら、暫し考える……。


「あっ、もしかして角砂糖?」


『ソウソウ、それ! カクのサトーサン』


「な〜んだ。あるある、たぶんあると思う! 持ってくるから待ってて」


 思いがけない任務を受け、張り切って部屋を出ていく。


 *


 勢いよくリビングに入ろうとした優衣は、ドアの前で一旦立ち止まった。

 聞き捨てならない会話が聞こえてきたからだ。


「母ちゃん。姉ちゃんヤバいよ! 1人で喋って1人で笑ってんだぜ」


「嫌だ〜、本当に? そういえば、今日の優衣、なんだか変だったわよね」


 母親と陽太が、優衣を病気だと疑っている。


「まじでヤバいって! まぁ、姉ちゃんの人生、楽しいことなさそうだからなぁ」


(まずーい! このままだと私、病院に送られちゃうよーっ。やっぱり、陽太には話しておくべきだね。うん、うん……)


 陽太への告白を心に決めて、ドアを開ける。


「おかわりーっ」


 茶碗を差し出す優衣に、


「食欲はあるのね」

「うんうん」


 母親と陽太の憐れんだ視線が送られてくる。


「あっ、お母さん。私、バイト決まったから」


「バイトって、Mバーガーの?」


「そうそう! 今日、面接に行ったら、明日から来ていいって」


「あら、良かったじゃない」


(あれっ、お母さん? バイトは反対してたのに……)


「姉ちゃん、頑張れよ」


「了解! 明日から、私の世界変わっちゃうかもーっ♪」


「良かったな」

「良かったわね」


 なぜか優衣は、2人の声援を素直に喜べない……。


「あっ、そうそう。お母さん! うちに角砂糖あったよね?」


「あるわよ。食器棚の引き出し……、何か飲むの?」


「ううん、ちょっとね」


 開いたティッシュに角砂糖を3つくるみ、嬉しそうに階段を駆け上がっていく……。そのあとに続くかのように、陽太も上がってきた。


(そうだ! 陽太に言わなきゃ)


 立ち止まって振り返り、自分の部屋に直行しようとしている陽太を引き止める。


「ようちゃん」


「なんだよ、気持ち悪いなぁ」


「ちょっと、見せたいものがあるんだけど……」


「えっ!? どーせ、くだらないもんなんだろーっ」


「うーん……、びっくりするぐらいファンタジー系なものかなっ」


「えーっ!! やっぱお前、頭おかしくなっちゃったんじゃねーの!?」


「姉に向かってお前!? 全く、近頃の中学生ときたら、礼儀は知らないし、姉より先に恋はするし、ほんと非常識!」


「普通だろっ」


「まぁ、いいや。とにかく来て!」


 陽太を引き連れて、おじさんの居る棚を覗き込む。


『zzz……』


「あっ、寝ちゃってる」


 おじさんは、スヤスヤと眠りに就いていた。それを目の当たりにした陽太は……、あわあわヘナヘナと、その場に座り込んでいる。


「なんだよこれ〜、小人〜!?」


「シーッ、起きちゃうよ。小人じゃなくて、妖精みたい」


「嘘だろっ」


「自分で、そう言ってたもん」


「まじかよ〜っ……。でも、どうしてこんな変な妖精が姉ちゃんの部屋に居んだよ」


「そこのバス停で見つけたんだけど、この雨の中ですごく困ってるみたいだったから連れて来ちゃったの」


「すげぇじゃん! 姉ちゃん、人助けしたのかぁ。あっ、人じゃないかぁ」


「まっ、まぁね」


 優衣を見る陽太の目が、一瞬にして変わっている。

 それから陽太は少しびびりながら、眠っているおじさんを夢中になって観察し始めた。


「姉ちゃん。このことは絶対に父ちゃんや母ちゃんには内緒だぞ!」


「やっぱり、まずいよね」


「まずいに決まってんだろ! 俺が拾ってきたあの可愛い子犬だって、父ちゃんはその日のうちに交番に連れてっちゃったんだぜっ」


「そうだったね。陽太が大泣きしてたのにねっ」


「あいつら大人は冷血人間だ! この変な妖精だって、あいつらに見つかったら研究所とか保健所に連れていかれちゃうぜっ」


「確かに……」


「とにかく、この変な妖精は俺達で守らないと!」


「うん、そうだねっ」


 陽太の妙な正義感に、優衣は感心して同意する。


 そのあと陽太は、眠っているおじさんを隠すように本を5冊程立て掛けた。そうして、自分の小細工を満足げに眺め、自分1人で納得して自分の部屋に戻っていった。


 優衣は、おじさんの枕元に角砂糖を置いてから、明日が期限のレポートに取り掛かる。


 眠りに就いたのは、午前1時過ぎ……。

 その夜、おじさんが目覚めることはなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る