第1章 紫色の夏

朝は戦い

「だから、早く閉めてって言ってる……、ん?」


 こじ開けた目に、朝の光が飛び込んできた。


 ピピッ、ピピピ、ピピッ、ピピピ……。

 頭の上では、最大音量にセットした携帯のアラーム音が鳴り響いている。


「優衣? そろそろ起きないと遅刻するわよ」


 出窓のカーテンに手を掛けている母親。優衣は、その腕を掴んで大汗を掻いている。

 ベッドもパジャマも乱れ放題。


「あれっ、あれあれ、大谷は?」


 キョロキョロと部屋を見まわす優衣。


「大谷、君?」


 掴まれた自分の腕と優衣を交互に見つめ、母親が首を傾げる。


「あっ、そっか、そうだよね……。やっぱり、夢だよね」


 慌ててその腕を離し、床に落ちている布団を冷静に拾う。


「さぁ、早く支度しないと! 今日は当番の日でしょ」


 母親が、スリッパの音を立てて慌しく部屋を出ていく。


「あっ、そうだった」


 あとに続き、優衣もドタバタと階段を下りていく。


 早川はやかわ優衣ゆい。いつでも強気だが、恋や友情に臆病な高校2年生。流されやすく、自分の気持ちを伝えることがとても苦手。

 そんな優柔不断な性格が災いし、校内一過酷な労働とされる環境委員を引き受けている。

 今日はその活動の1つ、朝の挨拶運動当番の日だ。


 朝が苦手な優衣にとって、それはまるで修行のようなお勤め。

 バナナ1本を頬張りながら、あとは何もかも中途半端な状態でいつもより早く家を出る。


「行ってきまーす!」


 勢いよく玄関のドアを開けると、バス停目指して猛ダッシュ!

 バス通りに出る手前には、朝陽をいっぱいに浴びて紫色に香り輝くラベンダー畑が広がっている。


「あ〜っ、いい香り〜♪」


 思わず立ち止まり、大きく息を吸い込む。そして、すぐにまたダッシュ! 停留所には、既にバスが停まっている。


「乗ります! そのバス、乗りまーす!!」


 あと30mというところで、バスはエンジン音を高らかに響かせ……、


「うそ……」


 無情にも発車。


「やだ。まじ? ありえないよーっ」


 今までなら絶対に乗れていた。

 ほとんどのバスの運転手が、凄い形相で走ってくる優衣に気付いてくれたからだ。


 けれども、最近、そのバス停には、とても近代的で小綺麗な白い待合所が設置された。

 前面は今までと変わりなく吹きさらしになっているが、側面や外壁は必要以上に頑丈そうなコンクリートで造られている。

 見栄えも美しく、雨風雪を凌げ大変ありがたいのだが……。その建物のお蔭で、ラベンダー畑に挟まれた小道は運転席から全く見えなくなってしまったのである。


「あ〜、もう間に合わない」


 学校までの道のりは、とても走っていける距離ではない。

 次のバスは30分後……、いつも乗っているバスだ。


 全てを諦めた優衣は、待合所の中にあるベンチに崩れるように倒れ込んだ。

 バーッン、ドサドサ! その勢いで、開けっ放しにされた鞄から中身が飛び出し、あちこちに散乱する。


「もーっ、最悪!」


 自分への怒りを抑えながら、砂っぽくなった教科書やノートを無造作に鞄の中に放り込む。


「そうだ、沙也香に連絡しなきゃ」


 携帯を取り出そうと、制服のポケットを探る。


「あれ? 確かここに……」


 荒れた鞄の中に顔を突っ込み、更に荒らす。


「なんでないの?」


 立ち上がって、辺りを見まわしてみる……。しゃがみ込んで、ベンチの下を覗いてみる。


「あっ、あった!」


 やっと見つけた携帯に手を伸ばそうとしたその瞬間、

 優衣の携帯の上を何かが通過した。虫でもない鳥でもない、小動物でもない何かが……。


「えっ、今のなに!?」


 それはかなりのミニサイズだが、明らかに人の形をしている。


「まさか……、小人?」


 更にしゃがみ込んで、奥まで覗いてみる。


(えーーっ!??? 私、病気かもーっ!)


 その小人のようなものは、あと2つ! 2人!? 計3つ! 3人!?

 それはそれは忙しそうに、それぞれが別の行動をとりながら走りまわっている。

 息を潜め、その目まぐるしい光景をじっと見つめる優衣……。


 プッ、プーッ!

 聞き覚えのあるクラクションが鳴り響いた。

 その瞬間、ビックリした小人のようなもの達は一斉に優衣のいる方に振り返った。優衣も、その小人のようなもの達を代わる代わる見つめる。

 ベンチの下の時間は止まり……、お互いに凝視。


 プーッ、プップーーーッ!!

 今度は、怒りの込もったクラクションの音が、けたたましく鳴り響く。


(まずいっ、お母さんだ)


 優衣は思いきってその不思議な空間に手を伸ばし、勢いよく携帯を掴み取った。


「ふぅ〜……」


 早くなる鼓動を抑え、急いで待合所の外に出る。

 思った通り、白のライトバンが停まっている。しかも、恐ろしいことに、スッピンのまま髪を一つに束ね鬼のような形相をした母親が、運転席から睨み付けている。


「お、お母さん!?」


 得意のスマイルで、車に近付いていく優衣。


「早く乗りなさい!」


「はぁい」


 急いで助手席に乗り込むと、母親は勢いよく車を発進させた。


「お母さん、今ねぇ」


「全く、責任感がないんだから!」


(彼女はマグマを溜め込んでいる……。この状況で先ほどのファンタスティックな話をしたら……、間違いなく噴火するであろう)


 優衣は興奮をクールダウンさせ、おとなしくシートベルトを閉めて窓を開けた。

 紫色の風が、心地いい……。



 学校に到着すると、環境委員の生徒達はゾロゾロと正門の前に集まり始めていた。


「優衣ーっ、早く、早く!」


「あっ、沙也香」


 美山みやま沙也香さやか、この春編入してきた転校生……、A組の環境委員である。


「はいっ、これB組の名簿! 他のクラスのは渡しといたから」


「沙也香ありがとーっ! ほんと助かったぁ」


 瞳を潤ませながら、長身の沙也香を見上げる。

 名簿を受け取ったところで、朝の挨拶運動が始まった。


「おはようございまーす!」

「お早うございます」


「優衣ーっ、沙也香っ、おはよー」


 体格の良い女子が、笑顔で近付いてくる。


「あっ、瑞希! 鞄お願ーい」


 足元に置いていた鞄を、申し訳なさそうに手渡す優衣。


「また乗り遅れたの?」


「はい……」


 市原いちはら瑞希みずき、中学の頃から優衣の親友……。バスケ部では副キャプテンを務めている。

 よほどの縁があるのか、優衣とはずっと同じクラス。

 その隣りに居るのは、2ヶ月ほど前にできた瑞希の彼氏・深沢、陸上部のエースである。


 瑞季は「仕方ないなぁ」と呆れながら鞄を受け取ると、深沢と楽しそうに校舎の中へと入っていった。


「ほんと、仲良いなぁ……」


 親友を取られてしまったような敗北感に襲われながら、2人の背中を眺めていると、本鈴のチャイムが鳴った。


 まわりを気にしながら正門を閉め始めると、遥か向こうから全速力で走ってくる男子の姿が優衣の視界に入った。


 大谷おおたに純平じゅんぺい、優衣の夫として夢の中に登場した同じB組の生徒である。


 大谷は、いつも優衣が乗ってくる一本あとのバスに乗って登校してくる。

 朝は時間に余裕のない優衣も、何度かこのバスに乗り合わせたことがあるが……、停留所から学校まで猛ダッシュしても、遅刻か!? セーフか!? 2分の1の確率。

 朝から、心臓に負担の掛かる賭けである。


 今、まさに、毎朝その勝負に挑む男が、凄い勢いで近付いてくる。


「おーい! 早川優衣、ちょっと待ってろ」


 優衣に向かって叫んでいる。


(全く……、礼儀を知らないヤツだね〜)


 見なかったことにして、急いで門を閉め続ける。

 ギギー、ギギギー……。

 最早、人が通れる余地はない。

 究極の状況の中、必死な大谷は自分の腕を入れて防御しようとする。


「お前、クラスメートを見捨てる気かよ!」


 息を切らしながら、優衣を睨んでいる。


「もう時間だから! 大谷は遅刻だよ」


 キッパリと言いきり、最後まで閉めようとする。


「早川優衣、頼むよ〜。俺、まじでヤバいんだって」


 急に、下手に出る大谷。

 ふと、優衣の脳裏に、今朝見た夢が蘇った。


(やっぱり似てる……。けど、何かが違う。うん、全然違う。あの軍人は、こんな情けないこと言わないよ)


 思わず笑いがこみ上げてくる優衣。

 そんな不意をうち、大谷は腕に力を込めて反撃を始めた。


「ちょ、ちょっと」


 片足を壁に掛けて、優衣も必死に防御する。

 見苦しい2人の争いに、他の生徒達も笑いながら注目している。


 踏ん張り続ける優衣に、余裕の笑顔で体制を整える大谷。

 門は緩やかに開かれ、支えをなくした優衣は後ろにふらついた。

 次の瞬間、大谷はサッと門の中に飛び込んだ。


「俺の勝ちだな」


 優越感たっぷりのドヤ顔で走り去っていく。


「勝ちって……。もーっ、意味分かんない!」


 1日の始まりに異常なまでの労力を使い、朝の任務は終了した。

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