コロナウイルスと春 四月十七日

 コロナウイルスが流行っている。何より、思想界隈ではこの未知のウイルスがもたらす脅威が政治に与える影響、ポストコロナ世界の展望の考察を行うことが流行っている。まるでスポーツででもあるかのように、どれだけインパクトのある優れた論考を発表することが出来るのか、高名な学者達が競っているのである。

 くだらない、と思う。無論、中には目を見張る論考もあろうが、大方は求められるがままに書いた二束三文の売文である。そもそも、今ポストコロナを論ずることに何の意味があるのか。

 確かに、コロナは脅威である。しかし、致死率の低い脅威である。多くの人間が死に、原発事故という後々まで続く災厄を引き起こした東日本大震災は、果たして日本の何を変えたか。第二次大戦は、その後の世界を変えた。それは大戦が世界のパラダイムを変えたからである。それは限りなく恣意的に、史的唯物論の立場に敢えて立った表現を用いれば、大戦が歴史の過渡期であったが故に起こされたパラダイム・シフトであった。大戦は膨張した帝国主義国家がもたらした、ある種必然的な出来事であったろう。しかし、コロナは偶発的なものに過ぎない。そこでもしパラダイム・シフトが起きうるとすれば、それは極めて恣意的に引き起こされるに相違ないであろう。すなわち、学者共はこの功を競っているのである。しかしながら、東日本大震災において、この仕事を成し遂げた英雄は一人もいなかった。果たして、コロナは英雄を生みうるのか。

 ところで、この稿は政治の話をするのが目的ではない。今、ニュースはコロナのことばかりである。刻一刻と悪化する国内の情勢が日がな一日報道され続け、まるで時を刻むのは罹患者の数字の増大のみであるかのように錯覚させられる。しかし、外に目を向けてみれば、もはや桜は散っている。新緑が野を染め、春の穏やかな匂いが辺りを漂うている。気がつけば、春が形を変えようとしているではないか。

 春といえば桜である。なれど、5月の末までは春と形容されよう。桜は4月の半ばで散る。そもそも、3月の初めはもはや春と言ってもよかろうが、桜は3月の中旬までは咲かない。つまり、春は桜の開花時期を挟むようにして、その姿を変えるのではあるまいか。日本語というのは便利なもので、晩春などという極めて風雅な言葉を持っている。

 無論、冬や夏、秋なども姿は変えよう。しかし、やはり春は特別である。命が芽吹くこの季節の姿態が移りゆく様は、他の季節とは比ぶべくもない、奇妙な力強さがある。数字の増大と共に深まる人々の絶望を尻目に、自然はあくまでも力強く姿を変え、芽吹きを終えようとしているのである。

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