栗ご飯 九月二十四日

 昨日の夕餉は栗ご飯であった。

 私は栗という食物があまり好きでは無い。あれはどこかパサパサとしていて、味気ない。何より、皮を剥くのが面倒である。不精者の私が好んで食すには、ちと手間が掛かりすぎる。


 栗飯の 月見は淋し 秋の暮


 だから、このように歌う子規の気持ちが、私には理解できない。

 しかし、昨日の栗ご飯は美味かった。栗と共に入っていたシメジが素晴らしいアクセントを付けていて、心なしか、栗も味わい深くなっている。枯葉色に染まった米も美味である。これならば月と共に味わっても悪くはないかと思われた。


 ところで、栗の記憶と言えば、幼い頃の栗狩りが一等思い出深い。栗狩り、といっても大層なものではなく、ただ数人の友人と栗の木のある公園で落ち栗を拾っただけであるのだが、その時の記憶がなぜだか、今現在でも確かな映像として私の内に大きな位置を占め続けている。毬に手をやられまいと心配りながら、あるいは隣に居る友人たちに数で負けまいと意気込みながら、必死に栗を拾い集める幼い私の姿は、我が事ながらどこか愛おしい。安物の運動靴で踏みつけられた落葉の呻き声が辺りに響き、栗が小気味よい音を立てて枯葉の絨毯の上に落下する。ふと、映像中の己が手袋をしているのに意識が向くと、途端に己の記憶が頼り無いものに思えてくる。あの季節、そんなに寒かっただろうか。

 聞くところによると、俳句における「落葉」は冬の季語であるらしい。確かに、それは冬の風物詩であるような気もする。あるいは、私の記憶の混線か。しかし落葉は晩秋のである様にも思わる。記憶力には自信のあるだけに、たった十年前の記憶があやふやであるというのが、何だか口惜しい。

 秋には明確な区切りをつけづらい。ふと気がつけば季節は既に秋であり、また気を抜けば秋はすぐに去ってしまう。時には暑くなり、時には寒くなる。どこか茫漠としていて、掴みづらい。だからこんな記憶の混線も起こってしまうのであろうし、その真偽も容易に判別できぬのである。

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